文化祭。それは学生にとっては夏休み明け一大イベントであり、受験生にとっては高校生活最後の行事である。
土方たち3年Z組はクラス企画として屋台でパンケーキを販売することになっていた。屋台での食販は人気が高く、毎年3年生だけの特権となっている。全学年の希望を聞いていては文化祭が屋台だらけになってしまうためだ。よってZ組は屋台企画に対して何の反対意見も出ずに落ち着いた。
 今日はその試作品を調理する日である。
 本番に予定しているものと同じ業務用スーパーで買ってきたミックス粉を使うんだな、と土方は興味なさそうに作業をする女子生徒たちを眺めていた。
 だが、ぼうっとしているのは土方だけではない。クラスの男子全体がそうであった。放課後の教室でホットプレートを借り、調理は女子が担当している。代わって男子は屋台の組み立てや、焼き上がったパンケーキにチョコソースをかける係りだ。
 だが、今日はもう一つ重大な役割があった。

「はい、土方くん」

 土方の目の前にパンケーキが差し出された。味見役が今日の男子の仕事である。
 土方は礼を言いながら紙皿を受け取った。できたてのパンケーキにはどろりとチョコレートソースといちごソースがかかっている。

(せめて何もがかかってなけりゃあな…)

 土方は同時に渡されたプラスチックのフォークを持ち上げる気にもなれないほどの甘い匂いに胸焼けがする。周りの男子は各々食しており、実においしそうな表情だ。ここに卒業した志村の姉がいたら大変なことになっているんだろうな、と近藤と同じ大学へ進んだ先輩を思い出した。だが、それを思い出したところで現状が変わるわけもない。
 土方は作ってくれたクラスメイトの目の前で手をつけずに残すことも、誰かにあげることもできず、立ち上がる。教室全体が騒がしく、土方が廊下へ出ていこうとしているなどには誰も気にもしていないようだ。これだったら教室の隅で沖田にでも渡せばよかったな、と思いながらも土方は紙皿を片手に歩き出した。
 だが、土方の脳内にはある男の姿が浮かんで消えなかったのだから仕方がない。同級生にあげるよりも彼に渡した方がきっと喜んでくれるはずだ、と土方は目を煌めかせるだろう担任教師を思う。
 ソースを垂らしたり、溢したりしないようにと気をつけながらゆっくりとした足取りで彼のすみかへ向かった。
 9月と言えどまだまだ残暑が厳しく教室は冷房がきいていたが、廊下は違ってじめっと湿気が肩に乗りかかってきているかのように暑い。だが廊下を進んだ先、国語科準備室は涼しいだろう。土方の足は早まった。氷砂糖よりも喜んでくれるかな、と想像すると顔がゆるむ。そうゆるみ切った顔が廊下の窓に映って見え、土方の思考は停止した。

(俺は先生を喜ばせたい…?)

 土方はぶんっと頭を振る。担任に媚は売っておいて損はないはずだ。
しかし角砂糖よりも、氷砂糖よりも豪華なこれを何と言って渡せばいいのだろうか。
 準備室を使わせてもらった礼か、何度かカルピスを奢ってもらった礼か、夏に倒れた時に助けてもらった礼か、などと口実を考えながら歩いているとあることに気がついた。

(…担任にクラスの試作品を渡すことには何の理由もいらねぇじゃねぇか)

 どうも自分は『銀八に何かを渡す』と言う行為を特別なことだと捉えている気がするが、一生徒として何の問題もない行動ではないか。そう考え付くと土方の足取りは軽くなり、準備室へと急いだ。
 途中、自販機でカルピスでも買って行こうかとも思ったが片手がふさがった状況では難しそうだったので早々に諦めた。パンケーキを渡した帰りにでも自分のために買って戻ろうか、と無意識にコーヒーではなくカルピスを飲もうとしている自分には気が付けない。
 この角を曲がれば準備室と思ったその時、女子生徒の声がした。

「おいしいからちゃんと食べてよね、先生」

彼女はスカートを翻しながら土方の方へと駆けてくる。銀八の元を訪れていたのだろう。準備室のドアには銀八がもたれて立っており、ひらひらと手を振っている。
 そうだ、もう夏休みでないのだから銀八の元を訪れるのは自分だけではない。
 土方の足は完全に止まった。前から走って来た女子生徒はその不自然な土方の動きに疑問符を浮かべた顔をしながらも立ち去った。廊下にはもう銀八と土方しかいない。
 土方は右足をゆっくりと一歩、後退する。銀八だって2つも差し入れはいらないだろう。いや、今日は全クラスの試作日だ。もしかしたらすでにいくつかもらった後かもしれない。と、土方は左足も後ろに下げた。

「おーい、それ先生にじゃねぇのー?」

 右手に何かが乗った紙皿を持っている銀八に呼びとめられた。
 当然だ。廊下には他に人影がなく、ふたりの間を遮るものもないのだから互いの姿が丸見えである。

「え、甘い匂いがするけどそれか?それだよね、その手に持ってるやつだよね」

 土方は匂いの元を目で確認する。見るからに甘そうなそれはやはり自分では食べられなさそうであった。それを知っているのか銀八はにんまりと笑い、土方を手で招くように動かす。
 土方はそれにつられ準備室に近づき、銀八にパンケーキを差し出した。
 準備室は銀八の煙草の匂いで満ちている。それは土方を落ち着かせる時もあるが、緊張させることも多い。今は後者である。

「せ、先生、これクラスの試食で、作ったやつです」
「おう、ありがとー」

 銀八はそう礼を伝えながらも、それを受け取らずに土方に背を向け室内へ入ろうとする。土方がどうすればいいのかと立ち止まっていると銀八が振り向いた。

「ん?早く入って」

 冷房かけてんだから、と銀八は土方を急かす。土方は反射的に準備室に入り、後ろ手で引き戸を閉める。準備室は廊下と違ってひんやりとしていた。
 さっきの女子生徒の差し入れは受け取っただけで帰したのに、どうして自分は部屋に招き入れられているのだろうか。

「座ったら?」

 銀八は思考に耽る土方に声をかけ、向かいのソファーを指差すことで呼び戻す。テーブルをはさんで向かいに座るとテーブルにはたこ焼きが置かれた。さっき来ていた女子生徒はこれを持ってきたのだ、と土方はソースとマヨネーズのかかった球体を見つめる。

「それ、くれないの?」

 銀八は土方の手元を示す。現状に注目しすぎて失念していた、と土方は慌てて両手で差し出した。

「えっと、2枚で50円で、ソースはチョコといちごとメープルから選べるようにする、らしいです」

 女子が焼いて、男子がソースかける係りで、と土方は続けるが銀八はあまり聞いていないようだ。紙皿を受け取り、フォークでつつく。先端に付いたチョコソースをペロリと舌で舐めとった。甘そうなそれに土方は食欲がわかない。どうしてそんな満面の笑みで甘ったるいものを食すことができるのだろうか。

「その3種類から先生の好きそうなの選んで来てくれたんだー」
「いや、ただ渡されたのを持ってきただけです」
「…甘いの嫌いだもんねー」

 土方はコクリと頷く。
 銀八はパンケーキを一口食べる。それはチョコレートがかかった方で、土方の元までその匂いが伝わった。

「ん、うまい」

 と、銀八はにかっと笑う。その表情に土方も笑い、持ってきてよかったと感じた。だが、土方は手持無沙汰で何をしていればいいのかわからない。銀八は食べるものが2つもあるが土方にはそれもないし、銀八に言っておかなければならないようなもの、クラス企画についての連絡事項はもう告げてしまった。

「あー、それ食べる?」
「…いりません」

 口の端にチョコレートを付けることなく綺麗に平らげていく銀八は暇そうな土方に気が付き、たこ焼きを指差した。

「それさ、たこ焼きに見えるけど海鮮物は規制にひっかかるとかでタコじゃなくて、中身ちくわらしいんだよねー、それってちくわ焼きじゃね?」

 確か文化祭委員がそんなことも言っていた気がするな、と土方は思い出した。文化祭では食中毒回避のためたくさんの規制や誓約があった。高校の文化祭で食中毒を出してしまっては学校側の責任になるため、教師陣がいつも以上に口煩く、タコなど当然使うことはできないのだ。だから土方たちのクラスもパンケーキに入れている卵は家庭科室で1つずつ血が混じっていないかなど確認しながら割り、生地を作る。そしてそれにラップをかけ屋台まで持って行くのだ。当然、作る者はマスクとビニール手袋が必須である。
 そんな約束ごとのなか作られたたこ焼き、改めちくわ焼きはいかがなものだろうか。土方は銀八を睨みながら聞いた。

「…ちくわ焼きで、おいしくなさそうだからくれるんですか?」
「い、いやそういう訳じゃないけど、見てるだけだとハラ減らねぇかなっと」
「それは先生がもらったものでしょう、さっきの女子は先生に食べてほしくて渡したんだろぉが」
「……お前がモテる理由がわかった気がするわ」

 フェアなんだね、と銀八は笑いながらまたパクっとパンケーキをかじった。もうチョコレートのかかった1枚目は食べ終わろうとしていた。

「はい?」
「いやいや、何でもねぇよ」

 銀八は紙皿についたチョコレートをフォークでできる限り掬い、いちごソースのかかっているパンケーキにのせる。いちご色を汚すようにチョコレートの黒が混じっていった。
 だいぶチョコレートを掠め取った銀八は満足気にパンケーキのど真ん中にフォークを差す。そしてかじりつき何かに気づいたようにハッと土方と目を合わせた。

「…ってことは土方もそうなの?」
「なにがですか?」
「俺に食べてほしいって思ったから持ってきたの?」
 土方は返答に困る。
 糖分であるパンケーキを目にした時、頭に浮かんだのは考える間もなく銀八であった。それはどうしてなのだろうか。ただ銀八が甘味好きだと知っているからか。だから同級生よりも銀八に渡すことを選んだのだろうか。

「だって苦手なんだったらクラスの子に渡してもよかったわけだよね?」
「い、や…、先生に渡すことしか思い浮かばなくて」

 先生に食べてほしかったのか。
 どうして。
 先生が喜ぶと思ったから。
 どうして、喜ばせたいのだ。
 どうして、笑顔が見たいのだ。
 そんなことを考えたくないくらい、暑い。熱い。

「…あついね」

 ポツリと銀八は言った。もう皿は空っぽだ。

「そうですね」
「暦の上じゃもう秋ってのに、まだ暑い」
「…今年は残暑が厳しいって、テレビで言ってました」

 唐突に話題が変わった気がするが、順当な移り変わりかただとも思う。
 この部屋はいつもあつい。

「残暑って言い方さ、残りものみたいじゃね?」

 『残った暑さ』とほどくことができる『残暑』はあまりいい意味はない気がする響きである。9月も中旬に差し掛かるが、気温はまだ下がる気配を見せない。

「でもさ、今年の『残暑』はなんか心地いいんだけど、土方はどう?」
「…どうも何も先生といたら、余計に暑くなる気がする」

 それは土方の偽りない正直な感想であった。そして失礼します、とソファーから立ち上がる。

「え、教室に戻るの?」
「クラスには戻るつもりはないですけど、戻らないとだめですか?」

 もう放課後なので教室には戻らなくても怒られはしないだろう。文化祭の用意を監督すべき担任はここにいるのだし、試作の感想は告げていないが先生があんなにおいしそうにたいらげていたのだから問題はない。
 と土方は考えているが、銀八は勘違いをしているのか手を土方に向かって伸ばす。

「え?い、いや、戻らなくてもいいんじゃない、かな」

 少し慌てた銀八の口調に土方は思わず笑ってしまう。自分がいなくなると思って引き留めてくれているのだろうか。
 もう少し一緒にいたいと思っているか。

(そうだと、いいな)

 土方は自身の思考にまた笑う。

「ただ何もすることがないので、飲み物でも買ってこようかな、と」
「あぁ、そっか」

 先生が今からちくわ焼きを食べるのならさすがに何も食べず、何もすることなく待っているのは暇すぎる。ジュースでもあればそれが空っぽになるまでは居座れるし、と土方は理由できたことに口角が上がる。
 自分でもさっきから顔がゆるみっぱなしだとは思うが、もう止められなかった。

「なに買うんだ?真っ黒なコーヒー?」
「前まではコーヒーがおいしかったんですけど、最近はね、先生のおかげで趣味が変わりました」
「変わった?」
「…先生と一緒だとカルピスが飲みたくなります、先生にはブラックコーヒー買ってきましょうか?」

 土方は財布をひらひらと振って見せる。それを見る銀八の眉間には皺が寄っていた。だが、それは不機嫌と言うわけではなく、少し拗ねているような表情である。

「…一緒の、カルピスで」

 土方は引き戸を開け、自販機へゆっくりと遠回りをしながら向かった。その方が火照りを冷ませる気がしたからだ。
 だが、準備室から離れれば離れるほどに土方の顔には血液が昇っていく。
 自分の思考に笑ってしまったと言うことは認めてしまったと言うことなのだ。
 もう誤魔化しがきかないほどに、あつい。






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