暑さには慣れない。クーラーで痛む頭と、すこし痩せた身体を引きずって、土方は学校の正門をくぐった。
 もう立秋をすぎた、だとしても残暑と呼ぶにはあまりに強い夏の陽射しが午後四時半の校舎を灼いていた。
 浮かんだ汗が耳の裏を伝って首筋まで落ちた。もとから肌色が透けそうに汗を吸ったシャツの上で、その汗の一粒はすぐに見えなくなる。校門の脇に設けられた駐輪場が視界に入った。いつもであれば生徒の自転車が密集しているその場所も、夏休みともなればがらりと空いている。まばらな自転車の中から目当ての一台を無意識に探り当てて、彼が学内にいることを確認する。
 白い原付自転車が太陽光を反射して眩しい。ぱち、とまばたきをするとまつげにたまった汗が目に入ってしみた。

(暑いのなんて、いっこもいいことねえ…)

 昇降口で靴を上履きに履きかえながら、額に浮いた汗をシャツの袖でぬぐう。
 コンクリート造りの校舎の中は一瞬ひんやりと感じるが、節電対策と銘打って電気も消された廊下はうら寂しさこそあれ実際に涼しいかと問われれば、否だ。
 直射日光を避けられるだけありがたいが熱のこもった屋内だ。さんざん太陽に灼かれてきた身には生ぬるい。かといってクーラーの効いた部屋に放り込まれると、クーラー病になりかけた身体にはそれも辛い。
 ここ最近で妙に繊細な身体になってしまったのは、猛暑のせいか受験のせいか。どちらにしても面倒なことは確かだ。一年前はたかだか夏の暑さでこれだけ弱ってはいなかったのだから、身体は素直に鈍ってしまった。
 階段を上る脚が重い。
 はあ、と息を吐いて目当ての階までを一気に上る。
 酸素が足りなくてくらりと視界が揺れた。

(“あれ?多串くん?”)

 はやくその声が聞きたい、と思った。
 もちろんそれは、別に銀八の声がはやく聞きたいとかそういうわけではなくて、その声に付随する国語科準備室の丁度良い温度に保たれたクーラーの風や出される冷たい飲み物を思い出してのことだと、土方自身はそう思っている。
 準備室のある廊下の先を目指して、脚はほとんど勝手に動いた。
 定期試験前に勉強部屋として使わせてもらった、ただそれだけのことで、銀八とは結局大した会話もなかったけれど、ペンの走る音が部屋を満たすあの時間はそれなりに心地の良い時間だった。
 定期試験が終わった後はすぐ夏の長期休暇に入ってしまい、準備室に行く用事もなくなった。だから今辿るこの準備室への道程はほぼ一ヶ月弱ぶりのものだ。
 そうとは思えないほど慣れた道のりは、単に三年生になって校内自体に慣れただけなのか、或いは国語科準備室にだけ親しみを持っているのか。前者か後者か、悩む間もなく準備室の前に辿りついた。
 こん、とノックをして返事を待たずにドアを開ける。
 鍵が開いている、閉まっている、それが雰囲気でわかるようになった、なんて言うのは驕りだろうか。だけど土方の勘は外れなくなったのだ。
 開いたドアの隙間から、そよと風が吹いた。

(あ、涼しい)

 敷居を踏んで準備室に入る。失礼します、と言おうとした途端、その部屋に誰もいないことに気付く。

「先生……?」

 部屋の電気はついている。クーラーも、クーラーの風を拡散させるために回る扇風機も、デスクの上のノートパソコンも、いつもの、そのままだ。

(自販機、教務室、印刷室、他の先生んとこ…)

 何だとしても、そう長く部屋を空けることはないだろう。
 部屋の主が帰ってくるまで廊下で待っていようだとか、そういう気の使い方を土方はもう銀八に対してしない。勝手に準備室に入ると、後ろ手にドアを閉める。図書館に似た古い本の匂いがした。
 ソファーの上に学生鞄を投げ出すと、ぼすん、と疲れた身体も同じようにソファーへ落とした。スプリングが弱ったソファーは、一回軋んだだけで土方を受け止める。
 クーラーの風が、前髪を散らした。

(汗、ひかねえな、暑いからだ、暑いのなんて、いっこもいいことねえ)

 すう、と息を吸うと、彼のデスクから煙草の匂いがした。


***


(自宅に電話…はないない。たかが忘れもんで、電話はない)

 ぱらりとめくったノートの几帳面な文字が、銀八にとっては過去の遺産となった高校数学の数式を書き連ねている。
 眺めても眠気しか催さないそのノートを持ったまま職員室の前ですこし足を止めた。職員室で遺失物として手続きをしようか、迷って結局、届け出は出さない。夏休みがはじまってからずっとそうしてノートを手元に残しておいた。

(なくしたとしたら国語科準備室、ていうのは、わかるだろうし)

 何の変哲もない大学ノートは、夏中ずっと妙な存在感を持って銀八の元にある。
 名前も科目名もないノートはうっかりしたら準備室の雑多な書類に埋もれて見えなくなってしまいそうで、それで余計にノートの存在が気になるのかもしれない。
 ともかく、他人の、生徒の、一冊のノート。
 そんなもので自分があれこれと気をもんでいるのも馬鹿らしかったし、気をもんでいると知られたら一層馬鹿っぽい。
 銀八は自販機で買ったばかりの甘いミルク入りのコーヒーのプルタブを開けて、気を紛らわせるように一口飲んだ。

準備室へは階段を使わないと戻れない。年々単調な上り下りが足腰にこたえる。短い階段を上りきって腰をかるく叩いた。
 教え子たちとの年齢差を思い出して、苦笑が漏れた。

「学生のころは幸せだったねつくづく…」

 愚痴っぽく呟いて、もはや自室と化している国語科準備室のドアを開く。開いて、閉じる。
 部屋を間違えたか、と思う。
 間違えるわけはない。この階の教室はあとは物置部屋と、それに類した部屋しかない。そういった部屋は施錠されているし、もちろん職員室にぶら下がった鍵をつかえばいとも簡単に鍵は開くが、それでも確かにこの部屋には国語科準備室と、そうネームプレートが貼られている。

(なんかあの、座敷わらし的なもんが、あれ)

 後ろ姿が見えた。自分のデスクに向かう人の姿。

(いやいや、別にびびっちゃないけど、座敷わらしはいたほうがいいっていうしね。それより不審者だった場合だよね)

 スライドドアを開けようか開けまいか、迷った指先が結局、当然ながら、ドアを開けた。

「し、しつれいしまーす…」

 準備室に声をかけて入るなんて、もしかしたら初めてこの部屋に足を踏みいれて以来かもしれない。
 その時だってもうすこし覇気のある声を出していたろうに、だがこの情けない声を聞く者は部屋にいなかった。

「…あれ」


 部屋には確かに人がいた。いたのだが、その人物は銀八のデスクに突っ伏して眠っていた。
 土方が、そこで眠っていた。

「わあお…」

 意味なく呟いた感嘆の声も、もちろん聞く人はいなかった。

***


 煙草の匂いがした。吸い込むと落ち着く匂いだ。
(好きだから)
 好きだから、平気。
 そんなことを言ったのは誰だっただろう。
 無意識に額に手をやると、濡れた感触がした。冷たいタオルがのせられている。ようやく、涼しくて気持ちいい、という感覚がした。

「おー、起きた?」

 まぶたのあたりまでずり下がったタオルで、閉じた視界が白く光っている。
 意識を失うまで締めつけるように痛んでいた頭が、タオルがのった重みを加味しても軽かった。もう少しこのままねむっていたい。

「なんだ、起きねえか。…起きねえか…?」

 と、タオルを誰かの手がそっとうばった。反射的に目を開いて、その手の持ち主とぱっちり視線が合う。眼鏡の奥の瞳と、視線が合う。

「だっ…わ、お、起きてんじゃねーか!」
「や、起きてないっすね…」
「起きてるよ!だいたい会話が成立したらそれはもう起きてるよ!」
「や、夢、夢です」

 土方はさっきまでタオルが冷やしてくれていた額を、両手で覆う。

「そんなに眠いか受験生」
「…や、夢じゃなかったら、先生がオレの頭にタオルのっけてるわけないし…」
「オレがおまえの頭にタオルのっける夢見るようになったら、多分受験ノイローゼだと思うよ」

 そこに立つ、銀八は、ボウルにはった氷水にタオルを落とした。

「あ、これね、家庭科室からもらってきた。氷も」

 タオルを銀八がしぼると、氷水が涼しい音をたてた。妙にディテールの細かい夢だと、土方は思う。タオルを手渡された。

「熱中症んときは、首とか、血管が集中してっとこ冷やすといいらしいよ。今回は軽度だったからいいけど、もしまた気分悪くなっちゃうようだったら直射日光を避けて…」

 渡されたタオルを片手に、ぼんやりと銀八の言葉を聞く。

「…熱中症…」
「そうそう若いからって油断すんなよ」

 はあ、と曖昧に頷く。

「…受験ノイローゼ…」
「は?」
「かもしれないです。現に今、先生が夢に出て、るわけだし」
「おーいおい。まじかおまえ。熱中症ってそういう症状もあるっけ?」
「どういう症状だよ」
「意識不鮮明みたいな?」

 意識は通常よりむしろはっきりと鮮やかなくらいだ。土方は眉をしかめて、その顔を隠すようにタオルを額にのせた。

「まだ気分悪いか?」
「悪いです。悪い。ていうか、なんで先生がこんなところにいるんですか」

 オレの夢の中なんかにいるんですか。
 そういう気持ちをこめて言った言葉は、果たして正しく理解はされなかったらしい。銀八のため息が聞こえたあと、ひょい、とタオルをつまみあげられて視界が再び開けた。

「おまえね、寝ぼけんのもいいかげんにしなさい。ここは国語科準備室。で、オレがここにいんのは仕事」

 はあ、とまた曖昧に頷く。

「土方は脱水症状で意識朦朧としてたからおぼえてねーかもしんねーけどね、オレの机でへたってた土方をソファーまで運んで水飲ませて濡れタオルで身体冷やしてそりゃもう先生はすごい働いたわけ」
「はあ、…あ、」

 ぱちん、と脳内で回路がつながる音が、聞こえた気がした。
 ようやく自分の今日一日の行動を思い起こし、学校に来てからの記憶がごっそりと抜けていることに気付く。
 慌ててソファーから飛び起きると、ぐらりと眩暈がした。

「…うえ、」
「あいあい、ゆっくりゆっくり」

 銀八が土方の手をぽん、と二回たたいた。
 眉間に手をあてて、土方は項垂れる。

「…すいません、惚けてました…」
「まあまあ、それはいいんだけどね」

 銀八は立ち上がるとデスクに置いた缶コーヒーを手にとって、一口それを飲んだ。

「で、今日はこのノート取りに来たんでいいのか?」

 この、と言われて、土方は視線を上げる。上げた視線の高さに合わせるように差し出された、一冊の平凡なノートを反射的に受け取る。
 無地の表紙のノートは、端々の痛みから使い込まれた物だとわかる。実際、ぱらりとめくってみても文字に埋もれていないページはあと残り数ページしかない。

「そうです、オレの、これ試験前の勉強んときに忘れたヤツです」
「な、数学最終日だったもんな。休み入るまで机の上に置いてあるの全然気付かなくってよ」
「…よく取っておきましたね。名前もないし」

 ノートを閉じて、何も書かれていない表紙を見る。

「そりゃあ、あの机使ってたのって土方だけだし、土方の字だったし。忘れ物を放っておける性格じゃないだろうから」

 土方こそ、と銀八が笑った。

「熱中症になってまで取りに来るもんでもなかったろうに。もうすぐ休みだって終わるんだし」

 それからだって困らなかっただろ、と銀八に言われて、土方はそれは、とこたえる。

「今日、大学のオープンキャンパスがあって、それで丁度学校が通り道だったから、ついでです」
「ああ、オープンキャンパス。あれも結構校内歩き回ったりするよな。気疲れもするし」
「…はい。つかれ、ました」

 疲れたというのは素直な気持ちだ。
 そしてもう一つ。

(不安)

 土方は手元のノートを見る。
 国語科準備室での勉強の最終日に、土方はこのノートを忘れたことを本当はすぐ気が付いていたのだ。
 昇降口まで行ってしまっていたから、取りに戻るのが億劫だったのは確かだ。
 だけど夏休みに入るまでの間に、取りに行く機会はいくらだってあった。
 それでも土方が国語科準備室に行かなかったのは、いつでも取りに行けるという余裕、休みの間はノートが必要ないという実情、ノートを口実にした準備室での涼しい時間を後に残しておきたかったという計算、理由はいくらでもある。
 取りに来ない理由はいくらでもあったが、今日、ノートを取りに来たのはオープンキャンパスがあったからだけではない。

(不安なんです。先生は、先生で、オレはただの生徒だ。学校を離れたら、もうそれで、ただの卒業生になって、準備室に来るようなことはない)

 徐々に縮まった銀八との距離は、卒業すればもう学生生活での歩み寄りなんてまるでなかったかのようにまた無情に開いてしまう。
 元々そんな距離なんて意味がなかったかのように、二人は出会った頃より遠くなる。

(それがなんでこんなに不安なのか、よくわからないけど)

 今日会いたいと思った。
 今日会って、安心したいと思った。そう思ったのを思い出した。

「まあね、疲れて、家よりガッコのが近いことがあったらまた寄りな」

 ソファーが沈み込み、隣に銀八が座ったのだとわかる。
 考えていたことを知られたようで、土方は驚いて隣を見た。

「寄るも何も、すぐ休みも終わりか」

 そんな土方には全く気が付かない調子で、銀八は壁のカレンダーを見上げる。
 視線は噛み合わず、しばらく沈黙が過ぎてから、急に銀八が土方の方を向いた。

「そいやさ、なんで土方はオレの机に座ってたの?」
「…え?」
「あー…あんま憶えてないかもしれないか。オレが準備室来たとき、おまえオレの机にいたんだよ。ソファーでも、勉強で使ったあっちのデスクでもなくて」
「ああ、」

 ああ、と頷いてはみたものの、土方にも定かな記憶はない。

「たしか…たぶんあの時、準備室に入ってまずソファーに座って、それから、たしか、煙草が」
「煙草?」
「煙草の匂いがして、なんかその時もオレちょっと意識があぶなかったっていうか、それで匂いが、ああ先生の匂いだな、て思って」

 机の上に置かれた灰皿がおそらくは発生源だったのだろう。漂う香りが、土方は嫌いではない。喫煙者でも時々煙草の残り香を嫌う人がいるというが、そんなのは邪道だ、と、若干十代にしてすでにヘビースモーカーへの道を歩みつつある土方は思う。

「なんとなくそれでふらふら、先生の机に座ったんだと思います」

 そもそも銀八の机に座っていたという記憶すら曖昧な土方にとってはそれくらいしか説明はできず、横目で銀八をうかがうと彼はやはり釈然としない表情でいた。

「オレ、机汚したりしましたか?」

 見た所目立った被害はないようだが、土方が目を覚ます前に片付けていたということも有り得る。おそるおそる問うと、反して銀八ははっとしたように手を振った。

「や、そういうのはない。そういうんじゃねえんだけど、うん。ただなんとなく、普通ならソファーの方に座りそうだし、なあって」
「それは、そうですね」
「あとやっぱりソファーに座ってくれてたら、土方くんもオレにお姫さま抱っことかそういう恥ずかしい目に合わないですんだのになあ、とか」
「それは確かに」

 うんうんと、冷静に頷いてから土方はおや、と、銀八の台詞を反芻する。

「おひめ…?」
「お姫さま抱っこ。て、あれ。これって死語なの?ナウでヤングな若者にはわかんないの?」
「いやわかります、いや先生の言うお姫さま抱っことオレの言うお姫さま抱っこが違っていればいいと、今はちょっとそう思いますけど、あの、お姫さま抱っこってあれですよね、背中と足に手を回して、」
「え、そうそう。これこれ」

 銀八は言いながら、ひょいと土方をソファーから持ち上げた。
 それはまさに俗に言うお姫さま抱っこ。地面から完全に切り離された土方は一瞬硬直する。

「な、あ、なななに、なにすんですか!」
「土方ねー。さっきも思ったけど夏バテかなんかで痩せたでしょ。ダメだってこの老体がぎっくり腰になるくらいの体重はないと」
「おろろ、お、おろ、おろ」

 呂律のまわらない土方の代わりに銀八は、はいはい下ろしますよと言って、再び土方はソファーに深く身を沈めた。
 まだ何が何だかわからないまま、それでもやっと銀八を見上げる。

「…ぎっくり腰、気をつけてください」
「そしたら土方が看病してよ。サロンパス的な。介の字貼り的な」
「…いやですよ…」

 まだ強ばったままの顔の筋肉が引きつる。
 背中にまわされていた腕の感触が離れてまだ確かだった。
 サロンパスの貼り方について一人楽しげに話している銀八を、なんとなくその話題からそらせたくて、土方は銀八の飲んでいた缶コーヒーに水を向ける。

「そ、いや先生、コーヒーなんて飲むんですね」
「だからコーヒーじゃなくて八の字貼りって一人暮らしだとやっぱりきついっていう……え、なんて?」
「コーヒー。いっつもカルピスとかカルピスとかカルピスとかなのに」
「缶入りイチゴ牛乳が出たらすぐに鞍替えする準備はできてんだけどねー」

(それは気持ち悪い)

 思った土方の横で銀八は空になったコーヒーの缶を振って、缶を眺めた。

「土方がね」
「はい」
「コーヒー飲むっつってたから、どんなもんかと思って」

 銀八の言った言葉の意味はわかるはずなのに、その理解の仕方を巡って脳内会議が開かれてしまう。
 反応できない土方に対して、銀八はうっすら笑った。

「まあまあ、上手かったよ」

 土方はようやく終わった脳内会議の結論、保留という、何とも心許ない気分のまま、ふいと視線をそらした。

「…オレが飲んでるのは、ブラック、です」

 そんなに甘いコーヒーは飲めない。

「糖分は世界を救うんだって。な、氷砂糖の約束、頼むよ土方」

 好きだから、すこしくらい暑いのは平気なのだと言ったのは誰だったろう。
 なぜだか火照る頬に、もしかしたらこれはまた熱中症かもしれないと、タオルをあてた。
 だけどたとえこれが熱中症でも先生が自分を看病してくれて、先生がぎっくり腰になったら自分がサロンパスを貼ればいいのだ。
 胸の奥で凍っていた不安が、正体不明の熱で融解していく。
 その熱の名前を、まだ土方は知らないでいたかった。









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