夏が来た。
今年は例年と比べるととても梅雨明けが早いと、土方は真っ青な空を見ながら気象予報士の言葉を思い出す。
つまり本格的に暑くなる時期が早くなると言うことで。
そして夏は暑さと更に余計なものまで連れてきた。
それは暑さが増すころと時期を同じくして学生の元にやってくる、定期試験だ。
この時期の学校の試験は受験生にとって邪魔にしかならないものである。
土方は成績の関係する推薦ではなく、一般入試で大学受験を考えているため定期試験は最低限、単位が出るだけの点数を取ればいい。
だが、土方は勉強で手が抜けるほど器用ではなかった。
ある程度の勉強をすれば定期試験ではそこそこの点数を取れないことはないだろうが、土方にとってはその『ある程度』がわからないのだ。
しかし定期試験のために1週間もの間、赤本を手放すことはとんでもない。
よって自分を過信するつもりもない土方はあるルールを作った。
学校で授業が終わってから下校時刻まで残り、そこで定期試験のための勉強を、家に帰ってからは受験勉強をする。
だが、そう決めてから3日目、期末試験まで1週間を切った今日、土方の前に新たな問題が発生した。
土方はその問題を解消するべく、ある人物の元へ向かう。
教科書の詰まった重たいカバンを背負った土方の行き先は国語科準備室。
その部屋の主、坂田銀八にある『お願い』があるのだ。
土方は担任をそう称して1つ疑問が湧いた。
この高校にはもちろん銀八以外にも国語教師がいる。
だが、準備室ではその者たちを見たことがない。
むしろ他の古典や漢文の教師に質問がある時は迷わず職員室へ行く。
準備室を利用しているのは銀八だけなのだろうか。
それは銀八が他の教師と仲が良くないからなのか。
あのだらけた態度から仲間はずれにでもされているんじゃ、と土方は脳内で担任を憐れむ。
そう勝手な想像をしながらたどり着いた準備室はぴったりとドアが閉ざされていた。
土方はいつものようにノックと同時に開こうとしたが、不意に手が止まる。

(もし開いていなかったら…)

前に一度、鍵がかかっていたことがある。
いや、閉まっていたからと言って何もショックを受けることはないだろう。

(ってことは、前はへこんだってのかよ…)

土方は自分の思考にまた違った意味合いでダメージを受けながら、ドアの向こうから返事を待つ。

「へーい、どーぞ」

中からした聞き慣れた声に安堵を感じた自分には無視をし、土方はドアに指をかける。
戸を一気に引くと、銀八は入り口に背を向けてデスクに向かっていた。
土方が中に入り、ドアを閉めた音で銀八は振り返る。
そこにいた銀八は放課後だからか白衣を着ていなかった。

「あれ?多串くん?」
「土方です」

教師のいる準備室は放課後でも空調が効いて快適な空間であった。
窓越しに太陽に晒されている廊下とはまるで別世界のような部屋に当然な顔で居座っている銀八は突然やってきた土方に首を傾げる。

「んで、なに?どうしたの土方くん」
「あ、あの」
「ん」

言いどもる土方にも銀八は丁寧に頷いた。
こういうところが曲がりなりにも教師っぽいな、と土方はどこか客観的に考えながらある許可をもらえるよう申請する。
前回の反省点、約束だからだ。

「教室、使ってもいいですか」
「教室?」
「はい、勉強したくて」
「勉強なら図書室か自習室でしなよ、教室は冷房効いてないから暑いだろ」

銀八は首を傾げながら、指でペンをくるくると回す。
どうして土方がこんなことを言い出すのかがわからない。
いくら夏本番だからと言っても放課後は教室の冷房は変わらず切られてしまう。
しかも今年は節電だ何だと、例年以上に厳しく取り締まられていてどこの教室も例外なしだ。
だが、それでも土方は教室で勉強したい理由があった。

「…テスト前は普段、勉強しない奴らが来てて、私語がうるさいんですよ」
「あ、あー」

銀八はどちらかと言うとそちら側の人間だった記憶がある。
試験前は勉強、もとい教科書の詰め込みをするために普段は勉強をしていない生徒や、図書室になど来たことがない生徒などが集まる。
彼らは試験1週間前になり慌ててやって来るため、一気に図書室が騒がしくなるのだ。

「だから、教室借りたくて」
「暑いよ?」
「うるさいよりマシです」

土方にとっては暑さよりも問題のことだった。
もちろん集中して勉強するためには両方快適である方がいいのだが、どちらかと言えばである。
銀八が許可を出してくれるかは微妙な賭けだが、以前教室を勝手に使っているところを見られてしまったため、今回は許可を申請せざるを得なかったのだ。

「ん?じゃあ家でしたら?」

家だからってサボっちゃうタイプじゃあないだろう、と銀八は足を組み変えた。
銀八の知る土方は真面目で、真っ直ぐな生徒である。
誰かの目がないからと言って、勉強を投げ出すことはしない性格であろう。
だが、土方はそんな理由で学校に残りたいわけではないのだ。

「…家では赤本で、学校では期末の勉強って決めてるんです」

土方は恥ずかしそうに自分のルールを明かす。
その言葉に銀八は目を見開き、思わずペンを取りこぼしそうになった。
そして正直に感想を述べる。

「……ばか?」
「違ぇよ!」

土方は叫んでから、しまったと後悔した。
ここで反応を返しては前から全く成長していないではないか。
土方は担任教師に怒鳴ってしまったことよりも、また正直に反応を返してしまったことを嘆く。
だが、銀八はそこをいじるつもりはないのか話を続ける。

「だってこの時期は期末なんかほっとけよ」
「教師がンなこと言うなよ」
「あー…、勉強で手抜きができないタイプ?」
「…定期だっつってもやってないと不安です」

そう言えば前回の模試の結果は芳しくなかったのだったか、と銀八は銀髪をガシガシとかきむしる。
受験生はそうでなくても敏感な生き物で、しかも土方は元から真面目な性格だ。
銀八は土方なら教室を解放しても何も問題は起こさないだろうと、脳内で決着を付けた。

「いいよ、使いな」
「ありがとうございます」

許可が出たことに安心し、土方は頭を下げる。
だが準備室から出ようと銀八に背を向けた時、制止の声がかかった。
声をかけたのは銀八以外にありえるわけもなく、土方は首を傾げながら振り返る。

「あ、でもひとりなんだよな」
「そうですけど」

土方の友人に試験前だから勉強を見てくれ、と言う者はいなかった。
他の者は定期試験にまで手が回っていなかったり、もともとやる気がなかったりと理由は様々だが、土方はいつもひとりで勉強をしている。

「だったらここ使いなよ」

銀八は『ここ』と床を指差した。
と言うことは国語科準備室のことを指すのだろう。
土方はわけがわからないと銀八を軽く睨みつけた。
そして交互に部屋の中央に置かれている来客用のソファーとテーブルを見る。
進路相談などはこのテーブルでもいいが、勉強には適してはいないだろう。
ソファーに座ると、膝はテーブルの高さちょうどになる。
その姿勢で勉強はできまい。

「あ、いやいや、そのテーブルじゃなくて、そっちのデスクね」

銀八は無言で訴える土方の視線に応えるように、現在座っている位置と対称のところにある、反対の壁よりに備え付けられた教員用デスクらしきものを指差した。
らしきもの、とは見たままの意味である。
それが机かどうかは、かろうじて引き出しが見えることから判断できるほどに机の表面は書籍で埋まっていた。

「今、どかしてやっからなぁ」

デスクの状況に口を開けるしかない土方に何も言う間も与えないままに銀八の行動は早かった。
さっとそのデスクの側に行き、本の山を少しずつ床に降ろしていく。
あっと言う間に床にそっくりそのままの山ができた。

「それは何なんですか?」
「これ?これはアレだよ、アレ…、本だな」
「それは見ればわかりますけどね」

銀八は土方と会話をしながら窓の近くに干されていた雑巾を水道で絞り、机を綺麗に拭く。
本が積まれていただけのその表面は傷もなく、そのままプリントを直接置いても文字が書けそうなほどに綺麗であった。

「さ、ここ使いな」

土方は冷房のきいた空間で勉強ができるならもう何でもいいや、と用意された席に座った。
本が積まれた側に鞄をドンと置く。
今日は数学をする予定だ。
銀八という国語教師の前で数学の問題集を広げるのはなんだか不思議な感じがした。
土方の出した本に銀八はあからさまに眉をひそめ、自分のデスクに戻る。
文系の銀八は数学が苦手なのだろうか、土方はくすっと笑いながら問題を解くべくノートを広げた。

「あ、先生、この部屋って先生だけなんですか?」
「ん?どういう意味?」
「いや、他の国語の先生はみんな職員室にいるな、と」

現に土方が使っている机も教員用のデスクだが、使われていた形跡は全くもってなかった。
誰があんな山積みも元で仕事ができよう。
では、なぜ銀八しかいない準備室にもうひとつ机があるのか。

「あー、みんなタバコ嫌がんだよ」
「タバコ?」

土方が聞き返すと、銀八は座っている椅子にかけてあった白衣のポケットに手を伸ばす。
よっこらしょと掛け声をかけながら、取り出したタバコを机に転がした。
ケースを指先で遊びながら、土方の疑問に答える。

「国語の先生方はみんな俺以外タバコ吸わねぇの」
「だから先生がここをもらって、他の先生を追い出したと」
「人聞き悪い言い方するなよ」
「事実だろ、普通は喫煙者が気を使うものです」
「いやぁ、みんな優しくてね」

と、箱から一本タバコを取り出す。
そもそも高校の校舎内で教師が喫煙してもいいものなのか、と言う問いは銀八に尋ねても無駄であると土方は頭を納得させ、視線をノートに落とす。

「…あ、タバコ平気?」

タバコを咥えた状態で銀八は思い出したように聞く。
銀八にとってここは喫煙所も兼ねているので吸うことに躊躇いなく、ライターを手に取ったのだが、土方がいるのだった。
土方は視線をやり、頷く。

「煙で噎せたりしないくらいには」
「ふーん、ならいいな」

カチッと火が付けられ、銀八が最初の煙を吸い込み、吐き出す。
準備室には煙の匂いが充満していった。
土方は匂ったことのないその煙に銀八をちらりと覗き見る。
銀八は実においしそうに煙を吸っていた。
手元の箱を、目を凝らしてよく見ると、販売機でよく見かけるものパッケージだ。

「…よくそんな強いの吸えますね」
「んー?あぁ、もうこれじゃねぇと吸った気しねぇからな」
「つーか、その言い方ってば土方、タバコ吸ってんね」

あ、と思わず声が漏れた。
土方は現役高校生、間違いなく未成年である。
すなわち、タバコを吸ってはいけない年齢。
しかもそれが担任教師に知られてしまったとあっては、非常にまずい状況だ。

「……父親が」
「あー、はいっはい、適度にしときなよ」
「…はい」

銀八は特に咎めるつもりはないのか、タバコを持った手を左右に振った。
煙が動きに合わせてゆらゆらと立ち昇る。
土方が白いそれを目で追いかけていると、銀八は手の動きを乱した。
タバコの先端を見せつけるように土方に向かって手を伸ばす。

「この先端、何度か知ってる?」
「百、くらいですか?」
「いんや、七百も八百もあんの。でも、ンな暑いもんをどうしてわざわざ吸うんだと思う?」

更に銀八は質問を続ける。
土方の手元は完全に止まり、七百度を越すと言う火を見つめた。
何故、吸うのかそれは好きだからだ。

「…嗜好」
「正解、好きだから暑くても平気なんだよ」

そう言いながら銀八は見せつけるようにめいっぱい煙を吸う。
土方はヘビースモーカーと言うほどタバコに依存しているわけではないが、それほどおいしそうに吸われてはそそられてならない。
土方は無意識にその姿をじっと見つめる。

「…でも暑いってのはそれほど悪くねぇかもな」
「え?」
「いんや」

そんな土方の目から逃れるように銀八は顔を窓の方へと逸らした。
外では蝉が煩いほど鳴いている。
もはや騒音ではないかと思うほどにあれは煩い。
夏を象徴するその鳴き声は、嫌でも暑さを訴えてくる。

「ただ、暑さが思ってた以上に順調に来てるなと思ってな」

銀八の言っている意味がわからず土方は首を傾げながら生返事をする。
その意味を解説する気も伝える気もないのか、銀八はタバコを机に備え付けている灰皿でもみ消した。
そして今度は何も持っていない指を土方に向かって突きつける。

「さ、そろそろ勉強しろよ」
「あ、はい」
「では、先生は仕事のやる気エネルギー補給のためにカルピスを買ってきます」

銀八は先ほどと同じように年寄りくさい声をかけながら白衣のポケットに手を入れ、小銭を適当に掴み、立ち上がった。
部屋を出て行こうとする銀八を土方は当然止めることなどできない。

(いや、引きとめる必要なんてないだろ)

土方は己のわけのわからない思考にツッコミを入れながら、銀八に向かってわかりました、と問題集を見つめながら適当に返事をする。
だが、立ち上がった銀八はなかなか出て行こうとしない。
土方はドアの音がしないことを不審がり、ノートから顔を上げ入口の方を見ると、
銀八がこちらを向いて立っていた。
窓から入る太陽の光に銀色の髪は輝きを増して、いつもよりもきらきらとしている気がする、と土方は思わず呆けて見とれてしまう。
二人とも無言だったのはほんの一瞬だった。

「…カルピスでいいんなら買ってきてやるけど」
「いいんですか?」
「…暑いからな」
「ありがとうございます」

土方は礼を伝え、顔を元の位置に戻す。
暑い。
空調は快適なはずなのに、と土方は額に滲んだ汗を袖で拭った。

「お礼にいつか糖分でも恵んでくれよ」
「今度、砂糖でも持ってきますんでまたここ使わせてくださいよ」

問題集から目を離さずに土方は返事をする。
この空間はとても居心地がいい。
図書室と違って静かで、教室と違って暑くなくて、家でできない勉強ができるから。

「砂糖?」
「角砂糖」
「角砂糖はちょっと、せめて氷砂糖で」
「わかりました」
「明日だからね」
「わかりましたよ、だから早くカルピスを」

早く一人になりたいからといって担任をこき使い過ぎだろうか、とも思ったが土方にそんな余裕はなかった。
俯きながら手を振る土方にはいはい、と銀八は苦笑しながら部屋を出ていく。
引き戸がガラリと開き、そして閉じられた。
ひとりになった準備室で土方は呟く。

「…今年の夏は暑すぎる」

蝉の声を聞きながら土方の額からは汗が滴り落ちる。
節電してる間に倒れちまう、と土方は設定温度を下げるべくリモコンを探した。







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