聞き慣れた前奏が耳をなでた。憶えてしまった旋律が、自然と気分を下降させる。
 音楽の素養があるわけではないが、音楽鑑賞自体嫌いではない。だからといって、延々同じ曲を聴いて、同じ歌を唄うのが楽しいかといったら、それはもちろん、退屈だ。
 何度も同じところをつっかえる伴奏の女生徒を憐れむ気持ちもすでに薄らいで、今は繰り返す失敗が神経を逆なでする。
 はいじゃあもう一回。
 音楽教師が見えない指揮棒を振り回して、音楽室の怠惰な雰囲気を壊そうと試みるけれども、大した効果はない。

「やってらんねえや…お遊戯会じゃあるめーし」

 隣の沖田が言うのももっともだが、土方は彼をかるく小突いてたしなめた。

「だいたい、うちのクラスだけですぜィ。初心者が伴奏すんの」
「仕方ねえだろ。弾けるヤツいねーんだから」

 だからってなにもわざわざ、と沖田が口をとがらせる。
 だからってなにもわざわざ、いかにもこういった音楽方面に疎そうな神楽が伴奏をしなくたって。
 言外に聞こえてくる沖田の苦言に、内心土方も同調する。
 ピアノの前でゆれるオレンジの髪は大層目立って興を誘うが、彼女のピアノの腕前といったら素人の素人だ。初日より随分上達した。それは認めるけれど、せめて幼少期にすこしでもピアノをかじっていたような、そういう生徒がいないではないのだから、そんな誰かに任せればよかったのにと思わずにはいられない。誰も進んでやりたがらなかったことを忘れたわけではないが、適任は他にいたような気がしてならないのだ。
 こっそりため息をついたのに合わせて、終業のチャイムが鳴る。
 沖田はまだむっつりと顔をしかめて、正面のピアノを見つめていた。


***


 体育祭、学内合唱コンクール、文化祭。続けざまの行事に浮かれている校内にあってもやはり三年生が受験生であることに変わりはない。
 月初めに受けた模試の結果について英文科の坂本の所へ相談しに行った帰り(彼は大丈夫じゃき大丈夫じゃきとしか言わなかった)、土方はふと国語の点数欄へ目をやった。
 国語は得意でもなければ苦手でもない、としていた今までの自己分析から見ると、それは思わしい結果ではない。

(いちお相談、行ってみるか…)

 学外で受けた模試だから担任の銀八も結果は知らない。
 どうせ担任には学内、学外あわせた試験の結果を報告して、いずれは進路について話し合わなければいけないのだ。
 後回しにしたっていいけど、先回りしたって悪くはない。

(行くのが面倒んなる、まえに)

 そう思う土方の舌のうえに、いつかもらったアメの甘さがよみがえった。

(そういうんじゃねえけど)

 そういうんじゃない。
 そういうのってなんだ、と自問しながら国語科準備室のドアを叩いて返事も待たずに開こうとすると、意外にもその扉はぴっちりと鍵を掛けて閉ざされていた。
 おや、と思ってスライド式のドアの取っ手から手を浮かす。

(なんだ、いないのか)

 浮かした手がすこしの間宙でさまよって、どうしようか、数秒考える。

(まあそしたら、帰るしかねえし)

 考えてみたのが滑稽に思えるくらい当たり前の結論に達し、土方は片手の模試結果票をぐしゃっと鞄につっこんだ。
 出鼻をくじかれて、ちょっと釈然としない。
 不機嫌がゆらめくその背を、誰かの手がぽんとたたいた。

「…あ」

 先生、と続けようと振り返った彼の目に映ったのは銀八ではない。

「何してんでィ土方ァ」

 してみれば背もたたかれたのではなく、片方上履きの脱げた沖田の足裏で蹴られたのだと気づく。

「お前こそ、こんなトコで。つか靴」
「土方さんを的に上履きとばししてたらちっと力みすぎちまいやした」

 沖田が片足跳びで廊下を先まで進むと、言葉どおりそこにひっくりかえった上履きが落ちている。それを器用に正方向にして履くと、で?、と問う。

「土方さんは放課後にわざわざ銀八に何の用で?」
「模試の結果報告」
「ああ…そりゃあ残念。奴さん、あと一時間は戻りませんぜィ」

 靴は履いたのにかかとをつぶしたままの沖田が言った。

「詳しいな」
「そりゃあもう」
「ウソじゃねえのか」
「それはあんたが判断してくだせェ」

 沖田が肩をすくめた。両肩で背負ったスクールバックが軽そうに跳ねる。

「……まあ、今いねえんなら、どっちにしろ帰るしな」

 国語科準備室の前を離れて、廊下をくるり方向転換し数歩歩きかけて、土方は沖田を振り返る。

「おまえは帰んねえのか」
「…ああ、あー…オレと一緒に帰りたい土方さんの気持ちはよくわかりやすけど、」
「んなこた言ってもねえし考えてもねえよ」
「オレは待ちまさ。一時間」

 言うと沖田は、廊下の窓際に背を預けてイヤホンを耳にねじこむ。

「…?おまえも銀八に、」

 聞いてももう、その声は彼に届かないようだ。意図的に無視されているようでもある。強制的に終了させられた会話に納得いかない気分になりながら、それでも深追いする気も起きずにその場を後にしようと足を踏み出しかけたときに沖田が言った。

「さっきオレの靴、どっち向きに落ちてやしたっけ?」
「…さかさま」

 耳からイヤホンを外しているわけではない。

「なら明日は雨ですねィ」

 彼は目を閉じて独り言のようにつぶやく。

「今日の晴れだって梅雨の中日なだけで、ほんとはすぐ梅雨前線がもどってきちまうんですぜ」
「…総悟?」
「六月なんてそんなもんでさ」


***


 冴えない表情のまま廊下を歩く。
 教科書や、ノートや、その他諸々。詰め込んだ鞄が右肩に重い。

(なんださっきの、総悟)

 思わせぶりな物言い、意味深な態度。いつもの沖田とすこし違って、だけどどこがどう変なのか、つかみきれない。

(あいつ前から、時々意味わかんねえもんな…。進路のこともあわせて、近藤さんに一度相談いこう)

 数ヶ月会わないだけでなつかしい、一学年上級の卒業生を思い出していると、耳を聞き慣れた旋律がかすめた。

(……これ)

 それは合唱祭の課題曲に相違ない。
 聞こえてくるのは今いる階の音楽室からで、帰るにはもう一階分階段を下りて靴箱まで行かなくてはならない。
 当然のように階段へ踏み出しかけた足が躊躇したのは、音色に後ろ髪を引かれたからだ。途切れずに続く音の連なりは聞き慣れたもののはずなのに、何かが違う。

(アレンジ?技量?)

 どちらも有りそうな答えだ。音楽方面に明るくはない土方には判断がつきかねたが、だけど、何かが、そうじゃない、と言っている気がした。

(そういう小手先の違いじゃないっ、て?)

 自問しても答えは返ってこない。
 この時間、音楽室にいるとすれば吹奏楽部か音楽教師か。吹奏楽部がわざわざ合唱コンクールの課題曲を練習することもないだろうから、とすれば音楽教師だろうか。あの刺々しいピアノの音しか奏でない教師の、これが本当の演奏なのだろうか。
 音楽室の扉の前に立ち、防音の意味をなしてしないほそく開いた隙間からそっと、部屋をのぞいた。

(あ、曲が)

 音楽室には二人、ひとがいた。教師と生徒。学校では当たり前の組み合わせだ。

(これは、知ってる。パッヘルベルの、カノン)

 ピアノを弾く人物を土方は、知らない誰かだと思った。
 髪が金色で、ピアノが弾けて、一体どこのスーパーマンだと。
 しばらくしてその髪は夕日に染まっているだけで、もとは銀色なのだと気づく。譜面に隠れて顔は見えないが、特異な髪色は間違いなく坂田銀八その人のものだ。
 そしてその指の動きを熱心に見つめている横顔は、これも間違いなく神楽のもの。

(…練習?)

 合唱コンクールの自主練習。
 それが理性的にも感情的にも一番しっくり来る、有りそうな答えだ。
 最後の音色の余韻が音楽室から漏れて、音が止まる。譜面を閉じてようやくあらわになった演奏者の顔はやはり間違いなく、銀八だ。彼が伏せていた目を上げて、視線が交わる。
 銀八が土方の存在に気がついて、照れくさそうに口元だけで笑った。
 その普段は見えない表情。
 一瞬息の仕方を忘れた土方が呆然とする間に、神楽が彼の首筋に大袈裟に抱きついた。


「銀ちゃん流石ヨ!先生辞めてもこれで飯くっていけるネ!」

 勢いに押されて椅子から落ちかけた銀八が、メガネを押し上げる仕草をした。無意識の動作らしいが、彼はメガネをしていなかった。
 いよいよ普段と違う彼に、土方は戸惑う。

「だーら、銀ちゃんじゃなくて、先生な、先生。りぴーとあふたーみー?」
「先生に本番まで鍛えてもらったら私誰よりうまく弾けるアルなあ」
「っつか、オレそんな上手くねえかんな」

 譜面台に置いたメガネをかけた銀八が、もう一度土方と目を合わせた。
 神楽の腕がゆるんだ隙を見て銀八は束縛から抜け出して、防音扉まで歩み寄る。そこから進むことも戻ることもできずにいた土方に笑いかけるような顔をしていた銀八が、ドアに手をかけた。からり、とその隙間を広げる。

「入っていいって、土方」

 ちょっと猫背に銀八が言う。シャツをまくった腕が見えた。彼は白衣も着ていない。


「あ、マヨラー!何してるアルかそんなとこで?神楽ちゃんのストーカーか?そうなのカ?」
「ば、ちげ、」
「ほら青少年をからかうんじゃねーの」

 銀八の後ろにちょこまかと付いてきた神楽が、背中から顔だけ出して笑う。それをたしなめるようにかるく頭をたたいた銀八が、土方へ視線を戻す。

「んで、どしたの土方くん。コイツ待ちじゃあねえだろ?」
「いや、あの…」

 咄嗟に言い訳を探す脳内で、(なんで言い訳なんかする必要があるんだろう)、冷静な声が降る。誤魔化すように首筋を掻く間に、鞄のなかにつっこんだ模試の結果票の存在を思い出した。

「あ、その、模試の結果報告と、あとちょっと勉強の相談がしたかったんですけど…、その、別に急ぐわけじゃないんで。またにします」
「ん、なら今でいいだろ。今日神楽もはやく帰るって言うから、最後に手本見せてやってただけだし。な?」

 問いかけられた神楽が、にいっと笑って銀八を見上げた。

「毎日一時間も待たせちゃあんまりあいつが哀れだからナ!」
「へいへい。じゃあ気ィつけて帰んのよー」
「はあいっ。じゃあなマヨラーっ」

 言い置いて駆けだした神楽は、ぴょんぴょんと跳ねるような走り方に似合わず風のような速さで廊下を駆け抜けて行った。

「廊下は走るなっていっつも言ってんのにあいつはもー…」

 耳の穴を小指で穿りながら銀八が呟いて、それから音楽室を振り向き見渡した。

「あと一時間くらい借りてるし、面談ここでやっちゃっていい?」
「は、はあ、」
「つくづく真面目だねえ土方は。爪の垢煎じて、神楽にも飲ませてやりてえよ」

 ピアノの前の椅子に座った銀八は、手招きして土方も座るように示す。ドアの前で動けずにいた土方はそれでようやくぎくしゃくと音楽室の中へ入り、ピアノから一番近くに置かれた椅子を手元に引き寄せた。

「……あいつだって、放課後わざわざ練習しに残ってるんだから、真面目じゃないですか」
「ひとっつも弾けやしねえのに、伴奏引き受けたんだからそれくらいの努力はしないとなあ」
「放課後の教室を貸すのも渋るような先生が、よくピアノのレッスンなんて引き受けましたね」

 すこし、棘を含んだ言い方になってしまった。そう思ったが銀八は気にした素振りも見せなかった。

「本当は音楽担当の先生に頼めって追い返そうと思ったんだけどねえ。吹奏楽部と合唱部の指導で忙しいって断られるし、神楽は神楽で必死に頼み込んで来るし、オレも根は真面目だし?」

 鞄を肩から下ろしながら、土方はへえ、と相づちを打つ。

「見直した?」

 顔をのぞき込むようにして銀八が訊いて来て、条件反射で目を逸らす。

「まあ…」
「そ?それならよかった」

 銀八はすっと身を引いて、シャツの胸ポケットに挿したボールペンを抜いてカチリとペン先を出した。

「はいじゃあ、模試の結果」

 見して、と手を差し出される。
 そこに結果票を乗せるだけでいいのに、何故だか素直に動けなかった。
 椅子に置いた鞄からしおれた紙を取り出して、それを銀八に渡せばいいのだと、わかっている。だのに土方はまごついて、ためらう。
 それは銀八がいつも来ている白衣を脱いでいるからなのかもしれないし、教室でも国語科準備室でもない、ここが音楽室からなのかもしれない。さっき聞いた演奏がまだ鼓膜を弱く振るわせていた。

「ん?どうした、無くした?」
「や、あの、」
「ああ、」

 カチリ、また銀八がボールペンの頭をノックして、ペン先がそれで引っ込む。

「結果票に直接メモ書いたら嫌か。なんか、紙とかある?」
「いやそうじゃなくて、それはいいんですけど」

 意思の疎通が上手くいかず、というよりも伝えたい意思を自身でもくみ取りかねて土方は押し黙った。
 沖田にしろ神楽にしろ銀八にしろ自分にしろ、今日は変だ。梅雨の合間にうっかり晴れた日の、思いがけない暑さに動揺するように、慣れない気まずさが横たわる。

「点数悪かったの?そんな」

 結果を知られるのに尻込みしている、と思ったようで、銀八はそう問うた。
 土方はそうではない、と思ったけれど、確かに模試自体良い出来ではなかったから、銀八からの助け船だと思ってその言葉に頷くことにした。
 これでもうちょっと長く話していられるな、と心のすみっこが囁いた。

「は、い。思ったより、悪くて」
「ああー、まあこの時期ねえ。急に模試のレベルも上がって来たでしょ」
「そんな気は、します」
「ここで焦ったりへこんでもしょーがねえから。な」

 励ますように言われて、はい、と再び頷く。
 教師らしいことを言うところを初めて見たような気がして、こんなまともなことを言う男だったのだと新鮮な気持ちがあった。
 労うような視線も、全部が全部自分のものだと思うと気分が良かった。

「そうやって変に根詰めすぎねえように、ちょくちょく行事も入ってるわけだから。神楽みてーに勉強もしねえでのめり込めとは言わないけど、まあ勉強の息抜き程度によ。ちろっと歌ってみるのも悪くねえから」

 銀八はそう良いながら正面の鍵盤を鳴らした。
 無造作に手を置いたように見えるのに聞こえた音は和音になって響く。

「ピアノ、上手いんですね」

 呟くように言うと、銀八は、そう?と聞き返した。

「弾けるだけで、別に上手かァねえって。普段は弾いたりしないし」
「でも、課題曲だけじゃなく、カノンも弾いてたじゃ…」

 言ってから、しまった、と思う。
 ずっと扉の隙間から覗いていたことが知れてしまう。だからといって何かまずいわけではないけれど、じっと演奏風景を覗き見しているというのはどう考えても不気味に過ぎる。

「や、あの、」
「あ、なんだよ土方。意外と詳しいな」
「いやカノンくらい誰だって知ってますって」
「えーじゃあこれ、知ってる?」

 狼狽する土方のことは全く気にせず、銀八は言うが早いか鍵盤を撫でた。ダララ、と低い音から高い音が繋がった後に、曲が始まる。
 指が勝手に動いているようなそんな滑らかな弾き方だった。

「……G線上の、アリア」
「そうそう。詳しいじゃん」
「そりゃ、これくらいは、」
「聴いたことはあっても曲名がさっと出てくるっていうのは、高校生じゃ珍しいよ。な、土方は、自分で思ってるより博学なの」

 言い終わるのに合わせて、指を鍵盤から放す。途中で終わることが、もったいないな、と思わせる演奏だ。

「……先生こそ、普段自分で言ってるより色んなことできるじゃないですか」
「そりゃおめー、何でもできると思われてるより何にもできないと思われてるほうが、押しつけられる仕事が格段に減るもんよ」
「さいてーだな」
「仕事っていうのはね、少ないほど丁寧にできるからそれでいいんですう」

 わざとらしく口をとがらせる銀八に土方が苦笑すると、銀八もこだわりなく笑った。
 銀八先生、ではなく坂田銀八、を知ったような一瞬がすこし嬉しい。
 ひとしきり話をし終えると、銀八が壁の時計へ目を走らせた。土方もつられて上を向く。

「結構時間経ってんな…やっぱここだと集中できねえや。メモ帳もねえし、準備室、行ってい?」
「あ、すいません。時間取らせて」
「こっちこそ無駄話しちゃって悪ぃーね。時間大丈夫?」
「オレは、全然」

 時間を食わせているのは自分のほうなのに、先回りして謝る銀八はやはり大人だ。その年の差を知らしめるような優しさはどこか違和感があったけれども、向けられる思いやりは嬉しい。
 そろって音楽室を出て廊下を歩くのも、誇らしいような気持ちがした。

(子供じみてる)

 わかっていたが、浮き立つような感情は抑えようと思って抑制できるものではない。
 普段の土方にしてみれば遅いくらいの速度で廊下を行く。いつもはひるがえる白衣に邪魔されて隣を歩いても離れている距離が、今日は幾分か近い。

「…白衣、着てないんですね」
「ん?そう、あー、暑いからよ。放課後は着ないでいいかと」
「着てないほうが、良いです。暑苦しくないから」

 音楽室から国語科準備室へ。来たときと同じ道のりを反対から辿って、ちょうどその半分あたりまで歩いたとき、銀八が足を止めた。
 土方も合わせて歩みを止めると、隣の銀八が手を合わせてぱん、と音をたてた。

「あそーだ忘れてたわ」

 銀八の独り言に、浮かんでいた気分がしゅるりと萎える。

(仕事か、プライベートか)

 悪いね土方くんオレ今日用事あるの忘れてたわやっぱ進路相談はまた今度なじゃーね。

 予想される台詞を思い浮かべてみて、次に来る事態へのシミュレーションを試みる。そう言われたら、大人しく帰るしかないのだ。シミュレーションなどする意味もない。
 そのはずが、

「土方くん、来て来て」

 突然銀八に腕をつかまれて、引っ張られる。
 え、と思うが慌てて足を動かして銀八に続いた。

「あの、先生」

 予想したのとは大分違う事態に、頭がついていかない。土方の疑問に答える気はないらしい銀八は、速くもないがゆるまないスピードで土方を先導した。
 そう長く歩かないうちに銀八はまた突然立ち止まり、土方の腕を放した。
 土方が事態を整理する時間もないまま、彼は土方に訊く。

「何がいい?」

 は?と土方が視線を前に向けると、そこにあるのは何の変哲もない自販機だった。

「何が、って……え、何が?」
「だあから、ジュース、何がいい?」
「…ジュース、え、買ってくれるんですか?」

 銀八はスーツのポケットから薄っぺらい財布を取り出すと、だあから、とまた言った。

「体育祭んとき」

 そう言われてやっと土方は、銀八がなぜ土方にジュースを買う謂われがあるのかに思い至る。

「でも、あんとき先生アメ、くれたじゃないですか。まあ舐めずにどっかその辺やっちゃいましたけど」
「一言多い!…まそうなんだけどさ、真面目な土方くんへの先生からの愛のプレゼントってやつですよ」

 アメを舐めなかったなんてどうでもいい嘘を咄嗟についてしまった自分がどうにもまた子供じみて感じて、ここは大人しく言うことに従っておいたほうがスマートかな、なんてまた子供じみた思索をする。

「……じゃあ、あの、ブラックコーヒー」
「ええ、土方くんそんなん飲むの。信じらんねえー…オレカルピス飲も」

 チャリン、と五百円玉硬貨をひとつ自販機に入れた銀八が、まずカルピスのボタンを押して、それからもう一回、やっぱりカルピスのボタンを押す。

「え、おいオレ、」
「子供は黙ってカルピスだって。うん」

 ガコンガコンと二回音をたてて出てきた缶を銀八が屈んで取り出す。骨張った手が土方に差し出された。

「ほら、飲め飲め。大体ブラックは胃に悪いから、先生はおすすめしません」
「んな、勝手な」
「まーほら絶対ブラックコーヒーなんかよりカルピスの方がうまいから」

 なおも突き出される手から、缶をひとつ受け取る。受け取る瞬間にすこしだけ指が触れて、缶の冷たさに比べてその熱いくらいの体温におどろいた。

「……ありがとうございます」

 ちいさく呟くと、銀八はうん、と答える。
 ぷし、と銀八が缶のプルタブを開けて、それにならって土方も缶を開けた。途端に甘酸っぱい香りが放たれて、空気を揺らす。

「あーうま。つか今日暑いよねえ」

 喉を鳴らしてジュースを飲み下す銀八が外を見た。もう夕日も落ちかけて、空の色が二層に分かれている。

「…でも今日は梅雨の中日だから、明日はまた雨になる、らしいです」
「涼しいんなら結構なことだな」
「でもやっぱり、雨はそんなに好きじゃないです」

 空が段々と夜の色に浸食されていく。それにつれて気温も下がってくればいいものを、風はそよとも吹く気配はなかった。

「大丈夫。黙ってても梅雨は明けるし、夏は来るもんだよ」

 銀八はそう言うと廊下をまた国語科準備室の方へと歩き出した。
 土方はその背中と窓からの夕景を黙って見比べて、カルピスをひとくち飲んだ。

「そうですね」

 背中を早足で追うと、土方が追いつけるように、銀八は歩く速度をすこしゆるめた。







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