校名の印字されたスリッパでぱこぱこと音をたてて薄明るい廊下を歩く。
 何年もまえに拝借してからずっと返すのを忘れている校内備品のよごれた臙脂のスリッパは、五指の位置にあわせて中綿がへこんで、薄っぺらいながらに指に寄り添った他にはない履き心地だ。底の薄いスリッパと安い靴下は廊下の温度をそのまま感じさせる。冷たくはなかった。

(こんなとこにも、春は忘れず来るもんだな)

 銀八はほうと感心しながらのんびりぺたぺたと講堂に向かって進んだ。

 窓に引かれたクリーム色に黄ばんだカーテンを透かして、春の色が見えた。風は時に強くカーテンをひるがえらせてそのたびに背の高い桜の木から花びらが数枚、廊下にも降る。
 窓からは多少音の外れた校歌がまばらに聞こえた。

「あ、ふあー…あ、」

 思わず欠伸が出る。欠伸のせいで目尻にたまった涙と、もとより他人より控えめな労働意欲を根こそぎ奪っていく春の朗らかさとを拭うために眼鏡を一旦外す。
 ぼんやりした視界を指で擦っているその時に、涙の膜の向こう側に人影を見て、銀八は眼鏡をかけなおした。

「…〜っ!こんな所で、なにしてるんですかっ」

 眼鏡を通して視力が矯正されても、なおその人物が誰なのか、銀八にはわからない。けれども黒い学生服とその詰め襟に光る校章で、まちがいなく学校の生徒であることはわかる。
 なぜ彼が怒っているのかも、銀八にはわかる気がした。

「あー、クラス発表、はじまってる?」
「ったりまえです!始業式にすることっつったらそれくらいなもんでしょう!」
「だって寝坊しちゃったんだもん」
「だってとかもんとか、やめてください」

 その生徒は怒りからか、あるいは銀八を探して走りまわったからだろうか、ほんのり紅潮した頬で銀八を一蹴した。

「もうクラス発表は他のクラスの担任がしちゃったんで、あんたは校歌斉唱のあとの挨拶だけ出てください」

 きびきびと言う生徒の顔は、そういえば去年あたりから集会といえば壇上に上がったり上がらなかったりしていた生徒会役員のなかに見たような気もした。
 特徴ある容姿の生徒が多いこの学校で、黒髪短髪中肉中背。特筆すべき事柄はないようでいて、彼の顔の造作は実際、かなり小綺麗な方だ。それでも個人として特定するにはいたらないその生徒の後につづいて、歩く。
 窓からは相も変わらず、一枚二枚と桜が舞い込んでいる。

「…今年の桜は、遅かったよなあ」
「先生の登校時間よりは早かったですね」
「…そーですね」
「明日からは遅刻しないでください」
「はあい」
「あんたの勝手な都合でホームルーム延長されたら、途中でも退出しますから」
「大丈夫大丈夫。ホームルームとか基本やんねーから出席簿はもう学級委員とかに任せっから」

 肩に落ちた桜の花びらを指でつまむ。
 それを吹いて飛ばそうとした、そのときになって生徒の一言が引っかかる。

「ホームルーム?」
「はい?」

 前を歩いていた彼が振り返る。
 怪訝に眉をひそめたその顔に、確かに見覚えは、ない。

「…おまえ、オレのクラスなの…?」

 お互いきょとんと見つめあうこと数秒。指から花びらが放れる。
 先に我に帰ったのは、生徒の方だった。

「は…!?あ、あんた自分のクラスのクラス名簿くらい確認してこいよな!」
「いやいやいやさすがにそれはしたって。顔と名前は一応一致させてきたっつーの」
「じゃなんでオレがわかんないんすか!」

 憤って詰め寄る彼の目は、開いた瞳孔のせいで、夜の猫のように真っ黒だった。

「わかんないわけはねえんだけど…。なにきみもしかしてそのお綺麗な顔にするために春休みの間に整形外科の門叩いたりした?」
「人聞きの悪いこと言わないでください自前です」
「だってあれだろオレのクラスって、近藤とか志村とかのいる…」

 胸ポケットから、四つ折にたたまれた紙片を取り出しながらつぶやく。こまかなシワがいくつも寄ったその名簿を開く手を、生徒が掴んだ。

「ちょ、近藤と志村、って、近藤勲と志村妙のことか?」
「え?そうだけど?」

 ぽかんと口を開けて答えると、呆れたように彼は口ごもり、ため息と一緒に、銀八の腕を放した。

「…それ、去年の名簿だろ」

 A4サイズの名簿を一枚に広げると、真っ先に目に入るの年度を示すふたつの数字の並びだ。
 それだけ見ても去年のものか今年のものかぴんと来ないが、確かに言われてみれば、並んだ生徒の何人かはみょうに覚えがあるし、よくよく考えれば彼らの出席する卒業式に参加したような気もする。
 あらあ、と思って、思ったままあらあ、とつぶやくと、生徒はしおしおと肩を落とした。

「…クラス発表、遅刻してくれてよかったです…」
「うんうん、先生は意外と空気が読めるんだよ」
「なに考えてるかわかんない教師だとは思ってましたけど、まさかこんなになにも考えてない教師だとは思いませんでした」
「ええうそうそ銀八傷つくう」

 スリッパのつま先でふくらはぎを掻きながら言う。
 生徒の名前と顔を覚えたってそれだけじゃ意味なんかないのだから、と内心都合よく言い訳をする。

(そうそう。やっぱり、覚えるのは性格からのほうが、うん)

 うん、と頷くと、クリームの色をしたカーテンがねじれながら風に揺れて、銀八からは生徒を生徒からは銀八を隠した。

「土方十四郎」

 カーテンが垂直に垂れる。

「…ん?」
「名前です」
「ごめんねよく聞こえなかったんだけどあれ、多串くんて?」
「誰だ!」

 彼はもう一度名乗ろうとして口を開いた。
 銀八はその愛すべき生真面目さにふと笑う。
 桜の花が、遠慮がちに一枚、学生服の肩にのる。

「うそうそ、聞こえた。坂田銀八です。よろしく、土方くん」

 つまりこの土方が、今年度はじめて、名前と顔を知った生徒なわけだ。
 あたらしい名前の彼は挨拶にこたえるようにほんのり口を尖らせる。
 こんなところにも忘れず春は訪れるものだと、銀八はひそかに感心してほう、と息をついた。


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