The little mermaid

 光をたたえた大樹は海を照らすけど、ほの白い明かりはいつ絶えるとも知れない。
 その光を背にして底へ底へと泳いで、やがて辺りがぼんやり暗くなったとき、眼下に華陀の屋敷が見えた。
 暗闇に沈むような屋敷へと泳ぎつく。
 近づくと、十四郎が何をするまでもなく扉は重い音をたてて左右へ開いた。
 歓迎されているかはわからないまでも、招き入れられているのは確かなようだ。 十四郎は逡巡してから迷うように辺りを見渡し、それからゆっくりと扉の奥へと水をかいた。
 屋敷は広く、やけに複雑な造りをしていた。
 しかし行くべき道は開かれる扉によって示され迷うことはない。それでも踏み入れてはならない場所へと進んでいる感覚は間違いなく十四郎を不安にさせて、長い廊下を渡った最奥の扉の向こうに華陀の姿が見えたときには、人魚の姿があることにまず安堵を覚えた。

「来たか」

 華陀はまるで十四郎の全てを知っているかのような口ぶりで言った。
 彼女の手にはガラスの小壜が握られていて、中には濁った紫の液体が満ちていた。

「……それが、薬」
「そう。禁忌に触れる罪の秘薬よ」

 罪、という言葉の響きに後込みする自分が確かにいる。
 だがそんな臆病な自分に会いたいと願うヒトが地上にいてくれる事実が十四郎の背中を押す。焦がれてやまなかった光が、光に溢れた地上が、地上に生きる光を背負ったヒトが、自分を待っている。

「今のすべてを失っても、ヒトの未来が欲しいか?」

 誘うように華陀が笑み、十四郎はこっくりと頷いた。

「では妾は、おまえの真実を奪おう」
「真実」
「そうそれが、代償」

 真実、ともう一度口のなかで呟く。

「おまえの唇からはもう真実は語られない。出るのは偽りばかり」
「嘘ばかり……」
「それでもヒトになる覚悟があるか?」

 真実が嘘になるという、それはどれほどの重みを持つ代償だろうか。
 十四郎はもうずいぶん長い間地上へ憧れ、ヒトに憧れた。
 真実を胸に海底で泡を吐いて生きていくのであれば、嘘いつわりだらけでも地上に足跡を残したい。
 そしてあの少年に会いたい。

「それでもいい」

 頷くと、華陀は能面のような笑みを一層深くし、つとその長い腕を伸ばした。
 伸ばされた腕は十四郎の眼前へ突きつけられる。そして恐ろしげな笑顔を浮かべたまま、華陀は鋭い爪でもって十四郎ののどもとをかるく掻いた。
 何の力も感じなかったのにのどにはくっきりとした切り傷が一筋残される。

「さあ……これでいい」

 爪についた血ははっきり赤く、ほどけるようにして水中にとけていく。

「おまえのそのちいさな胸に浮かんだ真実は傷ついたのどをせりあがる間に姿を変え、決して人へは伝わらない。おまえの真実の姿が水の底へと消えるように、おまえの真実の思いは腹の底で朽ちる。姿を変えたおまえに、ありのままの姿の真実を語ることはできない。決して」

 歌うように言うと、華陀は楽しそうに十四郎の頬を撫で、薬壜をその手に落とした。

「飲むがいい。鱗の剥がれたおまえの体は、妾のしもべが責任をもって浜まで届けようぞ」

 促されるまま壜のガラスの蓋を開ける。淡い紫の色は美しくも禍々しい。そっと壜の口に顔を寄せると、不思議な匂いがした。これが花の匂いなのかもしれない、と十四郎は思った。
 薬は水よりむしろ煙のようで、ふわふわと喉を滑り落ちていく。

「あ……っ、」

 唐突に、痛みと熱が十四郎を襲った。
 思わず壜から手を離すと、壜はゆっくり海底へ沈んでいく。
 悲鳴も声にならず、十四郎はのどをおさえた。
 華陀に掻かれた傷が燃えるように痛み、そして同時に下半身が痛んだ。

「う、」
「痛みが強いほど、より魔力は強力になる」

 華陀が嘲るように十四郎の尾ひれを撫でて、それだけで意識が飛びそうなほどの激痛が走った。

「…はじまった」

 合図のように華陀が言い、そして尾ひれを見ると確かに、鱗の最初の一枚が剥がれて水中に浮かんでいた。それは浮かび上がるにつれて形を変えて最後にはただの泡となってはじける。

「ふむ。珍しい色だから高く売れるかとも思ったが、うまくはいかないものよ」
「いっ、」

 鱗が剥がれるたびに痛みは増し、そうして意識が薄れるごとにより強い痛みによって現実に引き戻される。その繰り返しで体力が摩耗し、十四郎の意識はやっと朦朧としはじめた。
 うつろに浮かぶ十四郎の周囲を紺の鱗と光の泡が囲い、それは傍目に見れば美しい光景だった。

「見目だけは立派な人魚姫」

 笑い含みに華陀は呟く。
 十四郎はすでに遠のいた意識のなかで、夢を見るように華陀の声を聞いた。

「愚かで哀れな人魚姫、そのまま」



 波の音が耳に届く。
 打ち寄せては遠のき、それを飽きずに繰り返し、いつまでたっても陸へはあがれない。

(まるで)

 うっすらとした意識のなかで十四郎が独りごちていると、その意識の靄をはらうような衝撃が頬にあたった。

「おい」

 ぺちん、ともう一度頬をはたかれる。
 男の声だ。
 重いまぶたを押し上げてその姿を確認する。
 かすんだ視界でも、それが人魚でなくヒトであることは明白だった。

「……いっ、」

 咄嗟に海へ逃げ込もうとして、動いた瞬間に激痛が走った。
 尾ひれが引き裂かれるような痛みに、もしやすでにヒトによって傷つけられてしまったのだろうかと下半身に視線を移すと、そこにあるのは見慣れた黒い尾ひれではなく、二本の脚だった。

「どうした、あんた、どっか怪我でもしてんの?」

 違う、怪我ではない。
 十四郎は自らが華陀と交わした契約を、そして契約を交わした理由を思い出し、男の声に応えようと顔をあげた。
 その声に妙に聞き覚えがあったことに引っかかりを感じながら彼を見ると、そこにいるのは紛れもなく銀時その人だった。

「あっ……」

 ヒトになったからといってすぐに銀時との糸がつながるわけではない。だというのにこうして一番に出会えたことに意味を感じずにはいられない。

「…?オレたち、会ったことある……?」

 銀時が複雑な表情を浮かべた。
 それは十四郎が人魚であったことを予期しているようにも、不審な人間を前に戸惑っているようにも見えた。

(オレたちはもう二回も会ってる。これで三回目だ)

 そのとおりを言おうとして十四郎は口を開いた。

「いや」

 どうしてか出たのは否定の言葉だった。

「会ったこと、ねえな」
「…ああ、そうか。そうだよな。そんであんた、怪我は。脚が痛ぇのか?」
「痛く、ねえ」

 嘘がまるで真実のような顔で外へ出る。

(では妾は、おまえの真実を奪おう)

 華陀の言葉が胸に落ちる。呪いのように。

「それにしてもあんた、なんでこんなところにすっぽんぽんで……」
「よく、憶えてねえ」
「憶えてない?」
「憶えてない」
「名前は?」
「……わからない」

 言いながら、十四郎はすがるように銀時を見た。

(ちがうこれは、ぜんぶ嘘なんだ)

 今にして華陀の呪いの強さを思い知る。
 せっかく銀時と並んで歩ける脚があっても動かすたび痛み、銀時と語らえる声があっても嘘しか言えない。

「トーシロウ」

 銀時が呟く。それは名前を呼ぶというよりも何かを思い出すような口調だった。

「トーシロウにしよう。名前。あんた、行き場所がないならオレの家来なよ」
「とおしろう……」
「そう。もしかしたらあんたの本当の名前かも。なんか、声似てるし」
「会ったこと、ねえって」
「憶えてないんだろ?」

 そうだけど、と十四郎が答える。
 それじゃあ可能性がないわけじゃない、と銀時が言った。

「そんじゃ、まあ、いまの季節なら寒いってこたないだろうけど、それでも裸はあんまりよくないだろうし、とりあえず服なんか貸すから、うちおいで」
「あ、ああ」

 よくわからないままにひとつ頷く。
 立ち上がるための手を差し出されて、戸惑いながらも手を伸ばす。銀時の手を借りて立ち上がるだけでもひどい痛みを感じた。
 思わず一歩踏み出すのをためらうと、それを察したのか行きかけた銀時が十四郎を振り返る。

「どうしたの?」
「どうもしねえ…」
「やっぱ、脚痛い?」
「違う」

 否定しながらもやはり怖じ気づいて脚を動かすことができない。

(これじゃあ、なんのための脚だ)

 情けなくて俯いた十四郎は、ふいに浮遊感を感じた。

「な、」

 銀時に抱きかかえられたのだと悟り、泳ぐのとも歩くのとも全く違う感覚に混乱する。何より海のなかとは違って、地上では自分の身体が驚くほど重い。

「お、下ろせ」
「何言ってんの。歩けないなら、無理することねーって。強がるなよ」

 間近に見ると、銀時は十数年前と比べて驚くほど大人に近づいている。
 少年だった彼は青年になり、十四郎が片手で抱えられるほどだった身体はすでに十四郎と何ら変わりないまでに成長している。
 十四郎にとってはあっという間の十年も、彼にとっては長い歳月だったに違いない。
 その間、ずっと待っていてくれたのだと思うと、何を捨てても惜しくはない気がした。

(オレだよ)

 おまえが待っていたのは、オレだよ。
 人魚の姿でも受け入れてくれたかもしれないただ一人の人間。彼と寄り添いたいがために手に入れた脚。

(オレだよ)

 いくら念じてみても銀時はただまっすぐ前を向いて歩いていくばかりで、こうして体温を感じても干からびない身体があることは嬉しいのに、胸が痛むほど切なかった。



「ほら、似合う」
「…こんなひらひら、嫌だ」
「そう?似合うのに」

 銀時は手に持った衣装をテーブルに置き、残念そうに十四郎を眺めた。

「若さは生ものなんだから、綺麗なうちは綺麗なカッコしといたほうが得だってのに。せっかくのパーティだしよ」
「銀時こそもっとちゃんとした服を着ろ」
「だってオレはパーティとか嫌いだし」
「……オレだって嫌いだ」

 十四郎が銀時の屋敷に居候をはじめてから、一ヶ月が経とうとしていた。
 地方名士の名に違わず、彼の、正確には彼の養父の屋敷は、人間の家を見慣れない十四郎からしても立派なものだと思えた。
 十四郎が銀時に抱えられて屋敷を訪れた日、その時まだ時間は早朝だったのだという。屋敷をこっそり抜けだし海岸線を散歩していた銀時に拾われた十四郎は、そのままお抱えの医師によって診察を受けた。しかしもちろん、脚にしろ記憶にしろ、治療によって回復する類のものではない。記憶に至っては損傷があるわけでもないのだ。
 いつまででも住んでいていい、と銀時は言い、それは本心のようだった。
 けれどその銀時の寛容さが条件付きのものであることをわかっているから、十四郎は辛かった。

(オレが本当のことを言えないから)

 自分が人魚だと、自分が銀時を助けたのだと、それを言えないから、言わないから、銀時は優しいのだ。

“おまえだけだよ、オレに色目使わないで近づいてきたのって”

 銀時はそう言った。
 もちろん十四郎は地位や財産などにすこしも興味はない。ただそうであっても、銀時自身を欲しいと思い、ヒトでありたいと願う十四郎の欲望が、他の人間の欲望よりも清いものとも思えなかった。

(本当のことを言えたって、きっと、オレは銀時に愛されない)

 あんなに憧れていた光は頭上にきらめいているのに、眩しすぎて正視することはできないのだ。

「ま、そんじゃオレもおまえも、いつもどおりの格好でいいか」

 銀時はそう言ってから壁掛けの精巧な鳩時計を振り仰いだ。

「んじゃ、オレ準備あっから行くわ。夕方になったら下来いよ」

 無言のまま頷くと、銀時はさっさと扉を開けて部屋から出て行った。
 その背中を見送って、足音も遠のいた後、十四郎は大きな窓辺へと歩み寄った。
 海が臨める屋敷の一部屋が、十四郎に宛がわれた一室だった。

(……楽しみにしてたのにな)

 今夜は銀時の父の主催で行われる船上パーティの日だ。
 銀時の言うところによると、この屋敷は夏場にだけ使われる別荘で、この別荘を訪れる主たる目的がその社交パーティなのだそうだ。

(毎年やってるわけじゃねんだけどさ)
(そうなのか)
(色々…親父に目論見があるときだけ開かれるんだ。表面上は楽しいパーティだけど)
(銀時も行くのか?)
(今回はね。まあオレ、九歳んときそのパーティー参加して、そんで、溺れてからは、一回も参加してなかったけど)

 それを聞き、十四郎は内心納得した。
 十四郎が溺れる銀時を助けたとき、周囲に人はおらず、子どもが泳ぐには沖に出すぎていた。

「このパーティの日、オレたち、」

 出会ったんだ。
 最後は言葉にならず、のどの奥で何かがつまる感覚がした。
 誤魔化すように視線を落とすと、窓辺に置かれたテーブルに、銀時の持ってきた衣装が乗っていた。
 それはやや旧式の正装で、絹の触り心地は夢のようになめらかだった。

(綺麗な色だな)

 夜の空のような紺とも藍ともつかないような深い色。
 この色を知っているようにも感じたが、十四郎は思い出すことができなかった。

「オレの知らねえ色だ……」

 本当に知らないのかも、十四郎にはもうわからなかった。



 その夜の色が空を覆うころに、船は出航した。
 甲板には飾りたてた男女が蠢き、その人間博覧会の様相を呈する船上に十四郎はしばしぽかんとした。
 銀時の屋敷は仮住まいの別荘ということもあり、下働きや傍仕えの下男下女も最低限の人数しかいなかった。銀時の養父ですら晩のパーティの時間になってはじめて屋敷へ姿を現したくらいで、その銀時には似ても似つかぬ姿をやはり十四郎はぽかんと見つめるばかりだった。
 夜の暗闇を灯す火そのもののように、船は光を集めて海を行く。
 明るい船上から見下ろす海は真っ黒で、美しいとも思えない。

(人魚だったころは、もっと色々なものが見えたのに)

 たとえば海面は暗く沈んでいてももぐってみればいつでも温かな光を投げかける大樹があったりだとか、命がきらめく魚たちが泳いでいたりだとか。
 船に揺られていると、いろんなものを置き忘れたまま自分が人になったのだということを思い知らされる。
 甲板の上で談笑する銀時は、まるで光のかたまりのように見えた。
 横には綺麗な女性を連れて、ああそれが、彼の幸せなのかもしれない。

「とーしろー?」

 甲板の隅でパーティの喧噪を聞いていると、不意に銀時が近づいてきた。
 片手に持った飲み物をすすめられて受け取る。かすかにアルコールの匂いがした。

「大丈夫?疲れた?」

 それに無言で首を振る。
 銀時は十四郎の隣に立つと、十四郎にならってパーティの様子を眺めた。

「オレは疲れたわ」
「…そうか」

 短く答えてグラスに口をつけると、甘くて苦い酒の味がした。

「トーシロウはさあ、結婚とか、したい?」
「……別に」
「そう、オレも」

 銀時は一口酒を飲む。

「これよぉ、お見合いパーティだぜ。婚活」

 耳慣れない単語に十四郎が首を傾げると、銀時が苦笑する。

「お嫁さん探しなわけ。親父もそろそろ現役引退だし、なのにオレが、…結婚する気もねえから、こんなパーティ開いたんだよ。笑っちまうよな」
「結婚する気、ないのか」
「ない、ないな。とりあえず、いまのところは、ない。オレは一途に初恋の人との再会を待ってるから」

 ずきりと胸が痛んだ。
 うぬぼれではなく、それはきっと、自分のことだ。

「トーシロウに、ちょっと似てた」

 銀時は十四郎を見て微笑む。

「ガキのころのことだからさ、なんとなくしか思い出せないけど、トーシロウは似てる」
「……似てるだけじゃあ、意味ねえな」

 銀時から視線を外して十四郎が言うと、そうでもねえさ、と銀時が笑った。

「トーシロウが、もし、もしだけど、オレの初恋の人でも、まあそんなわけはねえんだけどさ、そうじゃなくても。オレ、おまえと会えたのは運命っつーか、同じ海だし、なんかそういうのは感じるんだよ」
「簡単な男だ」
「だから、おまえがオレで、いいなら」

 いいなら?
 続きを聞きたいのに、銀時の言葉はそこで予期せず遮られた。
 遮ったのは、他でもない、土方の声だ。

「オレはおまえのことなんて好きじゃない」

 はっきりと、土方の声がそう言った。
 これを言ったのは自分じゃないのだと、弁解をしようと口を開くとまた知らない言葉が口を出る。

「オレは、おまえの初恋の人なんかじゃねえ。そいつの代わりに愛されたって嬉しくもなんともねえ。おまえに近づいたのだって、おまえが小金持ちだって知ってたからだ」

 どうして、こんなに思い通りにならない。
 せめて黙りたいのに、呪いはそれも許さない。

「…オレを選ぶくらいなら、他の人間と幸せになれ、ばかやろう…」

 最後のそれだけは、どこか真実も含んでいる気がして、のどが痛んだ。胸が痛んだ。

「とーしろう…」

 銀時が名前を呼ぶ。
 十四郎ではなくトーシロウ、人魚ではなく人間、恋人ではなく友人のその名を。
 銀時がなおも何か言いつのろうとしたその瞬間、船が大きく揺れた。
 船体が大きく傾き、順番としては逆だろうにその後突風が吹き抜けた。

「嵐だ!」

 誰かの声が響く。
 嵐。
 頭上の空はいつのまにか夜のためだけではなく不穏に暗い。一瞬で吹き出たようにしか見えない厚い雲から雷が落ち、波は高く、入り江をひとめぐりするだけだった船は見る間に沖へ流されていった。

「……あの時と一緒だ…」

 銀時が、隣でちいさく呟く。
 あの時とはつまり、銀時が溺れた九つの夏の日と?
 訪ねようとした途端、船体が一際大きく揺れた。
 女の叫び声、男の怒号、右往左往する人間たちの声が、一瞬、聞こえなくなる。
 ふわりと宙に浮かぶ浮遊感。
 それは泳ぐのとも歩くのとも違い、そして銀時に抱えられるのとも違う。

(これは、浮いてるんじゃない、)

 落下。
 痛みのために甲板でしっかりと立つこともできない十四郎は、当然の結果として船から滑り落ちた。

「トーシロウ!」

 銀時の手が伸ばされ、もちろんそれは届かず、十四郎は落ちる。
 大きな水音が耳元でして、十四郎は海面に叩きつけられた後も沈んでいった。

(こんなときに限って、尾ひれがない)

 視界は泡で満たされ、そのなかのひとつはもしかしたら泡となった自らの鱗かもしれない。
 そのひとつを探り出すようにあてどなく手を伸ばすと、思いもよらない力に引き寄せられた。

「おい!」

 水面に引き上げられ、しっかりと胸に抱えられる。
 それは間違えたくても、間違えられない。銀時だった。

「げほっ、ご、ごほっ、」
「水飲んだか?」
「…はっ、お、まえ、カナヅチのくせに、なに……」
「こんな波じゃ、泳げても泳げなくてもたいして変わんねーよ」

 そんなふうに話す間にもふたりは船から離されて、沖へ流されていく。
 もがくように泳ぎの真似をしてみたところで、流される速度がゆるまることもない。

「んで、おまえ、飛び込んだんだよ、バカだろ!」
「うっせおまえこそ落ちてんじゃねーよバーカバーカ」
「バカだろ…!」

 荒れた海の恐ろしさを、知らないわけではない。この嵐では万に一つも、助からない。

「おまえが、オレのこと好きじゃなくても、オレおまえとなら結婚してもいいって思ってんだよバーカ!オレのなかで一番はずっと、命を助けてくれた違うヤツかもしんねーけど、おまえは二番目に好きなんだよバーカ!あとおまえ金目当てのヤツがこんなバカなヤツなわけねーだろバーカ!おまえの嘘なんてたいていばれてんだよバーカ!バーカ!」

 波の音にさらわれないように、銀時は大きく叫んだ。
 最後にはバカという罵りしか耳には残らなかったけど、もっと違うものが十四郎の記憶に刻まれる。

「……二番手で、嬉しいわけねーだろ…」
「二番手が嫌なら生きて挽回するしかねーだろ。大丈夫。この嵐を、オレは知ってる」

 呪いも、痛みも、今は何もかもが気にならなかった。

(銀時を、助けないと)

 そう誓って、でもそんな力などいまの十四郎にはない。
 ただ、この手を放すまいと、強く手を握りなおそうとしたとき、再び突風が吹いた。風はまるで意思を持つようにふたりの間をかけぬけ、波を揺らした。

「ぎ、」

 名前を呼ぶ間もなく、ふたりはひとりずつに分かたれた。
 黒い海は何もかもを飲み込んでいく。
 こんなか弱いふたりに、守れるものなど何もないのだ。



 波の音が耳に届く。
 身体中が痛んで、目も開けられないくらいだった。
 その痛みを知ってか知らずか、容赦なく頬に手が打ち振るわれる。

「おい」

 男の声だ。
 痛みに耐えながらうっすらと目を開ける。かすんだ視界でも、男が人間ではなく人魚であることは明白だった。

「……総悟…」
「あんた、何してんでェ、まったく」

 彼は空色の尾ひれを隠そうともせず、岩場に座っていた。
 尾ひれ。
 そして自分の下半身は、脚のままだ。

「総悟、オレ以外に、ヒトは。銀髮の、男は」
「は、オレ以外のヒト、と来たもんだ。すっかり人間ヅラですかィ」
「船と、ヒトだ。無事なのか」
「船は無事。今ごろ沖を漂ってまさ。…そんで、銀の髪の男は、あそこでさァ」

 総悟が指さしたのは岩場からほど近い砂浜で、そこに確かに男がひとり横たわり、傍らには。
 傍らには濃紺の尾ひれと、黒髪の、紛れもない。

「……オレ?」
「あんたが捨てちまったあんただ」

 会話は聞こえない距離で、でもふたりが何か話をしているのはわかる。銀時が笑っているのも。人魚の十四郎が笑っているのも。

「あれは、オレ、なのか?」

 古くからの友人、幼なじみである総悟は、是とも否ともつかない微妙な表情をした。

「あれは、あんたの皮をかぶった、華陀の野郎でさ」
「……華、陀」
「あんた騙されてたんでィ。あいつは元よりあの銀髪の旦那の財産目当てに近づこうとしてたんでさァ。あの旦那がまだガキだった頃、あの女は旦那の乗った船を沈めて、旦那を助けようとした。ま、でっちあげですねィ」
「でも」
「そこを地上に憧れた阿呆な人魚が泳ぎかかり、いわれもなく助けちまったって話でィ。しかもそれっきりならいいようなものを、旦那は命の恩人にベタ惚れしちまってつけいる隙もねえ。だから、あの女は考えたんでィ。どうにか良い方法はねえかってねィ」

 華陀は考える。
 銀時は十四郎に恋をして、他の女でいくら誘惑してみても効果はない。
 であれば、あとは十四郎を使うより方法はない。

「あんた、魔女の契約で、真実ってえのをあいつにとられたんでしょう」
「……あ、ああ」
「それには続きがあってねィ。あんたが手放した真実ってのは、泡になって皮になって、華陀のもとに行き着くんでさ。あんたが失った真実はあいつのものになる。だから今の華陀は、あんたが無くした尾ひれを持って、あんたの過去を持って、あんたになっちまったんでさァ」
「そんな、それで、なんだってんだ」
「さあねえ。人魚の姿のまんまで旦那に貢がせんのか。後は自分が人間に化けてどうにかするのかは知りやせんが、なんにしても、旦那と恋仲になって、財産食い尽くす気でしょうねィ」

 そこまで聞いて、黙って見過ごすわけにはいかない。聞けば責任の一端はどう考えても自分にある。
 立ち上がろうと、十四郎が脚に力をこめるといままでの比ではない鋭い痛みが身体中を襲った。

「無理でさァ。あんたの脚、それ、もう動きませんぜィ。劣化品つかまされたんでさ。あんたこのままだと、脚も動かねえし、海にも帰れねえ」
「んなこた、どうでもいいんだよ……っ」

 総悟がふと悲しそうに眉根をよせた。

「ねえ、あんた、もう本当のことしゃべれるでしょう?華陀の野郎の魔法が解けて脚が動かねえかわりに、呪いも解けてるんでさ」
「だから、」
「あんた、元に戻れますぜィ」

 総悟は片手を土方に差しだした。
 その手に乗ったのはちいさな壜だ。なかに渦まく紫の薬。

「……これ、」
「オレの鱗何枚かと、近藤さんのケツ毛と、あと他にも色んなもん、合わせて華陀からこれ買ったんです。もう銀髪の旦那に関わらねえって約束で、もう海面まで上がってこねえって約束で、あんた元に戻れるんだ」
「…総、悟」

 総悟の顔を見ると、彼は決まり悪そうに視線を外した。

「そりゃ、オレたちは死んだら泡になるだけだけど、人間だってきたねえ死体になるだけでそんなに良いもんじゃねえですぜィ。あんたの好きな人には海の底にはいねえかもしれねえけど、あんたを好いてくれる人だって、もう陸には、いねえんですぜ」

 総悟の言葉が耳に痛い。胸に痛い。
 視界の先では銀時と、十四郎の皮をかぶった華陀が手に手を取り合っている。

(そうだもし、銀時が)

 もし、命の恩人というだけで十四郎を思っているのなら、それを仕向けた華陀に恋をした可能性だって十分にあったのだ。
 銀時は十四郎にとってただひとつの地上の光だったけど、十四郎は銀時にとって夜の空に浮かぶ無数の星のひとつでしか、なかったのかもしれない。

(違う)

 それは真実ではない。
 何が真実か、それはわからなくとも、十四郎は首を振った。

「あいつの中で、オレはもともと二番手だ」
「…え?」
「総悟。オレ、オレは、確かに意味もなく陸に憧れていたけど、それは海が嫌いだったからじゃない。魚よりヒトが好きだったわけでもないんだ」
「それは、」
「オレは、銀時が、好きなんだ」

 こんな感情を、世界を変えてしまうほどの感情など知らなくてもよかったのに。
 近づけば近づくほど身を焦がすような、それはまるで太陽にも似て、なのに一度知ったら離れられない。
 十四郎は、這うようにして進む。

「悪い、総悟。ケツ毛は、近藤さんに返してやってくれ」
「……あんた」

 腕の力だけで岩場を進んで、手の平にも、無防備な脛にも、無数の傷跡ができる。それは血が流れるほど深くはない。

(平気だこのくらい)

 なおも進むと、やっとふたりの会話が風にのって聞こえる距離になる。

「……銀時」

 海のなかで、呼び損ねた名前を呼ぶ。
 それは風に流されて、霧散して、ふたりには届かない。
 そのはずだった。

「…とーしろー…?」

 銀時が、不思議そうな顔で十四郎を見た。
 声が届いたのか、あるいは単に十四郎の存在に気づいただけなのか。判然としないまでも、返事があるただそれだけが大切なことだった。
 華陀が、人魚たる十四郎が振り返る。

「なに、これはハーレム…?」

 寝ぼけたことを言う銀時を華陀が睨みつけ、それから怯える仕草で銀時に寄り添った。

「アレは海の魔女の手先だ。銀時。あれは剣で殺せる。その腰の短剣で、あれは殺せる。あれはオレを殺すつもりなんだ」
「……え、な、なんで」
「オレが海を捨てたから。銀時、オレを愛してるなら、あいつを殺して」

 十四郎の声で、顔で、華陀はそう銀時に絡みつく。

(勝手なこと、言いやがる)

 十四郎は動かない脚をなんとか立たせて、それを腕を使って無理に動かしながら歩いた。
 銀時と華陀へ近づく。

「……よお、なかなか楽しそうじゃねーか。てめえ」

 十四郎が笑うと、銀時も笑い返した。

「でしょ。でも、頭のなかは大混乱だけどね。これ、どういう状況?」
「……知らねーよ、オレだって」

 砂浜に脚をとられ、十四郎は倒れる。
 それでも、進むのを止めない。

「おまえ、言ってたじゃねーか」

 十四郎は進みながら、言う。

「見たらわかるって、オレだって気づくって。まだ、わかんねーのかよ。バカ」

 砂に脚をとられて、もう体力の限界だった。
 それでも、それでもだ。

「……銀時、はやくあの魔女を。あれは全部魔女の空言だ。はやく、あいつを刺して」

 華陀が言うと、その言葉に操られたように銀時が腰の短刀へ手をかけた。

「そう、そして、」

 そして、銀時は宙へ手を上げた。
 刃物が肉を、刺す音。
 血の匂い。

「……え」

 銀時が宙へかかげた短刀に、手を添えたのは十四郎だった。

「な、なに、を」

 十四郎はその剣で、華陀の身体を、貫いたのだ。

「……オレは自分で、カタつける主義なんでな」

 華陀は声もなく悲痛な叫び声をあげて、貫かれた傷口からは血と共に紫色の煙が立ち上った。
 身体は見る間に形を変え、それは十四郎の姿から華陀本来の容姿へと移り変わり、ついには巨大な海蛇になったかと思うと紫の泡となって消えていった。
 ぱたりと、砂浜に短刀が落ちる。

「おい、銀時、大丈夫か?」

 やや呆然として見える銀時に、それも無理のないことだと思いながら声をかける。その声に反応して視線が十四郎へと移り、無様に砂浜でもがく十四郎に、銀時は表情をやわらげた。

「…ああこれ、覚えがある」
「あ?」
「九歳のころ、この海で、そういやトーシロウはぜんっぜん老けてねーな」

 銀時は十四郎に手を伸ばして、その砂まみれの前髪を払った。

「やっぱ生きてっと良いことあるよな。おめでとう。おまえはオレの一番だ」
「うっせバーカ嬉しくねーよバカ」
「嬉しいくせに、天の邪鬼だな」
「うっせ、うっせ」

 ぱしん、と力なく銀時の顔を叩く。
 もう脚は萎えて、一歩も動けそうになかった。

「大丈夫。おまえが歩けなくってもオレが抱えて歩くから」
「ずっと倒れてたヤツが何いってんだ。バカ」
「だからオレが倒れてるときは、おまえが抱えて泳いでくれよ」

 オレカナヅチだからさ、と銀時が笑う。
 視界の隅で、空色の鱗がきらめいていた。



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