The Little Mermaid
その者は、上半身がヒト、下半身が魚で構成されていた。ちょうどへその下辺りに鱗によるつなぎ目がある。彼は人魚にとっては珍しい色の濃紺の下半身をしていた。人魚たちの尾は淡い色が多い。それは遺伝的なものだ。そういった意味で彼は見た目から変わっていた。だが、その中身も他の人魚たちとは大きく違っている。
彼は海底からぐんぐんと上へと昇る。海の底には太陽の日が届かない。地上とは違い、大きな木が発光し、それが海底での太陽の代わりであった。だが、上へ行くに連れて辺りはどんどんと明るくなる。やはり太陽には比べれば木の光など微々たるものだ、と彼は思う。海面を下から見つめると、キラキラと光が降ってくるようだった。
これこそが光だ。
彼は水面に顔を出す。その首元には魚類の特徴としてのエラがあるが、空気中では肺呼吸であった。彼は口を大きく開き、酸素を吸い込む。彼はこの浜辺近くの岩礁に来ては、遠めに見えるヒトを観察することが好きだった。
十四郎はヒトに憧れていた。
それは人魚としては異例のことである。人魚にとってのヒトとは、恐怖の対象であった。姿を見られれば最期、捕らえられ酷い扱いを受けるのだと幼い頃から教えられている。よって、人魚にとって海面に近づくと言うことは禁忌であった。ましてや水面から顔を覗かせるなど信じられないことである。
だが、十四郎は未だかつて捕えられた仲間を見たことがなかった。それどころかヒトは人魚の存在を御伽話の中でしか信じていないらしいではないか。それならば安全だろうと彼は何度も他の仲間たちの目を盗んでは海面から顔を覗かせていた。
しかし、それも週に一回程度だ。そうヒトのことを恐れないのは彼だけであり他の者は違うため、あまり頻繁にはできなかった。だが、もう何十年も続けていることだ。
ヒトは夏にしか海の近くに現れない。今がヒトを見るチャンスであった。見たところで、話ができるわけでも、姿を見せられるわけでもないのだが、十四郎は入江から動くことができなかった。ただ見ているだけで、飽きないのだ。いつか会話ができればいいのだが、そんなことは叶わないであろう。人魚ではあり得ない動きだったり、発想を持っていたり、とヒトはおもしろかった。
だが、それも小一時間ほどだ。早く海底に戻らないと仲間たちに不信がられてしまう。十四郎は後ろ髪を引かれる思いで海に潜った。少しでも海底に戻るのを先延ばしできるようにと、ゆっくりと泳いでみるが、辺りは行きとは違ってどんどんと暗くなっていく。
着いた先は薄暗い海底だ。いや、実質的には暗いわけではないのだが、十四郎にはそう感じられた。そこは水でできた檻のようだった。
十四郎は何でもない顔を装い、仲間の元へと戻る。だが、友人である近藤や沖田と話をする気分にはなれなかった。海上から戻った時はいつもこうである。十四郎はより海底へと、他の者から逃れるように泳いだ。
辿りついた先は、海の底の渓谷だ。上から見下ろすと下には光が全く届いていないのか、小さな枝葉に光を灯しているようだ。いつもはここまでしか進まない。
だが、今日は勇気を持って踏み出そうと思う。この下には魔術に詳しい華陀と言う名の人魚がいるらしい。一度、話を聞くだけでも聞いてみたいのだ。
ヒトになれる方法を発見したと言う噂がある。
十四郎は水をかき、下に飛び込む。それはすぐに見つかった。周囲に建物はそれしか見つからなかったから、華陀の屋敷と言うのはこれであろう。
土方はノックをするべく、その戸の前に立った。だが、予想もしていなかった背後から声をかけられる。
「十四郎、とか言ったか…」
振り返ると、すっと岩の影からそれは現れた。噂通りの水色の長い髪に、白い肌。釣り目で、尖った耳とくれば間違いなく彼女が華佗本人だろう。十四郎は緊張しながら正面から対峙する。
尋ねるべきことは決まっているはずだが、口から出てこない。
もしそれが可能ならば自分はどうするのだ。
「妾が、そなたをヒトにしてやろうか」
ヒトに憧れているのだろう、と華陀は笑みを浮かべながら十四郎の心を言い当てる。十四郎が海上に出ていることは一部の間では有名な話であったため知られていても不思議ではないだろう。
華佗曰く、彼女が調合した薬を飲めば魚である尾ひれが下から順に裂けていき、鱗が剥がれていく。その鱗が剥がれ切ると、下からはヒトの足が現れるそうだ。だが、人魚がヒトになることは摂理に外れた行為である。よって、その足を動かす度に体を引き裂かれるような痛みが伴うのだと言う。
「それでもよければ、やってやろう」
「…代償は」
「ふん、妾の求めるものは後で貴様からもらってやる」
「なにを」
「何でも差し出すからヒトになりたい、と心底願った時に来るがいい。その時に提示しよう」
華陀は、話は以上だと言わんばかりに土方を押しのけ、建物内へと入る。入口は十四郎の目の前で閉ざされた。
十四郎の脳内には華陀の言葉が反響する。切り替えるように首を振って、十四郎は上へと戻った。上と言っても所損は海底だ。そこは十四郎にとって窒息しそうな程に薄暗かった。
*
十四郎は夢を見た。それはもう十年以上前のことだ。たった一度だけヒトと会話をしたことがある。その時のことは忘れられない。
いつものように海面近くを泳いでいた十四郎はある少年を海の中で見つけた。もがきながら海面に手を伸ばす彼に慌てて泳ぎ寄った。溺れている彼を背中から抱え、水面に顔を出してやる。ほっとしたのか彼はその直後に気を失ってしまう。十四郎はすぐに近くの岩場に寝かせた。本当ならば平らな砂浜に転ばせたいのだが、それは十四郎の尾では不可能であった。
十四郎は水面から上半身だけを出しながら、彼の頬を軽く数度叩く。彼は少量の水を吐きながらもすぐに目を開けた。大事はなかったようだ。
「大丈夫か」
少年は小さくだが、確かにこくりと頷く。歳の頃は十くらいだろうか。銀色の髪は人魚でも珍しい色だと、十四郎はそれに指を絡ませた。すると少しくすぐったかったのだろうか少年は身じろぎして起き上がろうとする。この様子だと心配はなさそうだ。
「あ…、」
「あ?」
「あ、りが、とう…」
よっぽと礼を言うのが悔しいのだろうか、少年は唇を尖らせながら告げた。十四郎は笑いながらどういたしまして、と答えた。
「おまえ、…人魚姫?」
少年は手を伸ばし、十四郎の黒髪に触れた。十四郎は正体を言い当てられたことに慌てて身を引いた。しかしそのことにより岩場に隠れて見えなかった尾が見えてしまう。少年がやっぱり、と呟き終わらないうちに十四郎は水面へと潜った。
夢はそこで覚める。今から思えば少年はまだ御伽話を信じていてもおかしくない年齢だ。ただの当てずっぽうだったかもしれない言葉に動揺を表しすぎた。
十四郎は身支度を整え、空を仰ぐ。海面を下から見ると、それは空のようにきらきらとしているのだ。地上ではもう太陽が昇っているのだろう、一段と明るい水面だった。
十四郎は悩む。海面には昨日上がったばかりだ。続けて出ていくのは少し憚られる。だが、今日はどうしても気持ちを抑えられなかった。
十四郎は夢と変わらない姿で水面へと手を伸ばし、泳ぐ。他の人魚たちに見つからないように素早く海面に出た。ここまで来れば下からは逆光のため目を凝らさない限り見えない。
空気中に顔を出すが、まだ午前中の早い時間とあってヒトは見えなかった。いつもの定位置の岩場に近づく。しばらくここで様子を見よう。もうじきすればヒトが出てくるはずだ。
と、十四郎はいつものように岩礁を盾にするのではなく、逆に岩にもたれるように腰かけた。その時、背後から声がかかった。
「ねぇ、」
十四郎は思わず飛び上がってしまいそうになった。いや、少なくとも小さく悲鳴めいた声は漏れただろう。慌てて岩の反対側を覗こうと身を乗り出す。だが、すぐにそれはバレたのか、こっちを見るな、と言われてしまった。十四郎は言われるがままに体勢を元に戻す。ちょこんと座ってはいるが、心臓はばくばくとかなり大きな音を立てていた。
ヒトに見つかった。
まだ、人魚だと知られたわけではないかもしれない。こちらのこともヒトだと思っている可能性も多いにあるのだ。十四郎は大きく深呼吸をする。言葉は一緒だ。音だけでは気付かれるはずがない。大丈夫だ、と十四郎は冷静を装う。
「な、なんですか…」
裏返らなかっただろうか。それほどまでに同種族以外と会話をすることは久しく緊張した。もしこれが悪いヒトだったら、人魚だと露見した場合には捕えられるのだろうか、殺されるのだろうか。冷や汗が伝う。
「振り向かないで、顔を見ないままで普通に話してほしいんだけど、いい?」
それは十四郎にとって好都合なことであった。ああ、と声を出しながら頷く。十四郎にとっては正体を隠すために好都合なのだが、向う側の男にはどんなメリットがあるのだろうか。そう考えると十四郎は振り向きたくて仕方がなくなった。だが、、またそれを読み取ったかのようにタイミング良く声がかかる。
「サンキュー、あ、オレ銀時ね」
「と、十四郎」
岩の向こうから自分の名前を反復する声が聞こえた。合っていると応えると向うから笑い声が聞こえた。
「浜に来たのなんて何年ぶりだっけかな、すっげー久しぶり」
それはヒトとしては普通なのだろうか。人魚である十四郎は海にいるのはいつものことだし、海岸に近付くのも毎週のことだ。その度にヒトを観察してはいるが、そういえば同じ者を見たことはあまりない気がする。だが、年単位で来ないものなのだろうか。ヒトの感覚がわからないままに十四郎は正直に答えた。
「…オレは、毎週」
「毎週?」
「…近くだから、毎週来てる」
嘘だ。近いだけではない、こんな風にいつかヒトと話をしたいと思っていた。少しでもヒトに近づきたいと日々思っている。
「海が、好き?」
「…海っていうか、ここが好きだな」
海は好きでも嫌いでもない。そこは生まれた時からいる場所で、一生いるべき場所である。選べるものではない。だが、初めて自分で選んだこの場所は好きだった。
空気を吸って、風にあたることは本当に気持ちがいい。
そう答えると銀時はまた笑った。
「……人魚って、信じる?」
話題はいきなり変わった。しかもそれは十四郎の身を抉るものだ。
何か応対しなければ怪しまれると口を開くが、何を発すればいいのかわからない。自分を守るためには否定だ。だが、男と会話を続けるためには肯定すべきではないだろうか。沈黙に耐えられなくなったのは銀時であった。
「…え、ちょっ、無言って!メルヘンチックな変な男だって、引いたッ?」
「ひ、引いてねぇけど、…大人でそういう奴は、珍しいなと」
しかも何やら勘違いをしているらしい。こう答えれば当たり障りなく会話を続けられるだろう。
「オレ小さい頃会った気がするんだ、九歳の時」
「人魚にか?」
それは子どもゆえの妄想であろう。そう易々とヒトと接触する人魚などいないはずだ。だが、十四郎がそう落ち着いていられたのはここまでだ。
「ちょうどこの海で溺れてさ」
この海。十四郎の心臓はドクンと大きく脈打った。
今、この男は何歳なのだろう。それが九歳と言うことは今から何年前だ。
「それが理由でそれ以降は海に近づくなって遠ざけられてるんだけどさ」
だから未だに泳げねェし、と銀時は笑っているが、土方はそれにつられて笑う余裕はなかった。
「その時に海の中から助けてくれたのが、人魚だったと思う。黒い髪に、濃い紺色だったかな、そんな魚の尾だった」
向こうにいる男の髪は何色だろうか。その名前の通りの色なのだとしたら。
十四郎は口の中の渇きを感じた。緊張しているのだろう。
「岩場に引き上げてくれて、そこでアンタは人魚かって聞いたら逃げられちまった…。あとあとこの話をいろんなとこでしたら、それは自分だって名乗る奴がいっぱいでてきてもう大変でさ」
続いた話によれば銀時はここらでは知れた名士の息子らしい。それを助けたとなればその家は、銀時への貸しができたと言うことになる。もしかすると娘が気に入られて縁が結ばれるかもしれないと、邪な考えを持った者が多かったとのことだ。
だから銀時は振り向いて、顔を見ないで話してくれと言ったのだと十四郎は気がついた。それはヒトに詳しくない十四郎にはいらぬ配慮だったのだが。
「でも、その中にあんなに綺麗なのは誰もいなかった」
見たらわかるんだ、と銀時は言う。
そこでそっと背後を振り返った十四郎は笑ってしまいそうで、泣きそうで仕方がなかった。見間違うことのない綺麗な銀髪を持った男がそこにいた。後頭部しか見えないが、この男はあの時の少年だろう。
「まぁもし本人がいても、もうおばさんになってんだろうな…」
でも会いたいんだ。
それは心からの願いに聞こえた。それに応えたいと十四郎は目を瞑る。
「…人魚の寿命は長いって言うじゃねぇか、だから今もそのままの姿でいるんじゃねぇの?」
十四郎は海の中に飛び込んだ。
行き先は、決まっている。