Beauty and the Beast

1.
 薔薇は鉄製の門扉にからみつき、大輪の花を咲かせていた。
 その花びらはしたたるように赤い。
 誘うように歪んだ門の隙間に身体をすべりこませると、足の下で腐った葉が潰れた。館は薔薇の花以外死んだように色もなく、黴びた臭いが漂っていた。
 人が住むとも思われない森の中の古城は、その実野獣の住み処である、とは、街でまことしやかに語られる噂話だ。その野獣というのが、この貧しい国では想像もできないほどの財産を貯め込んでいるらしいというのも、人伝てに聞いた話だった。
 銀時はぴったりと閉ざされた館の窓、扉、をじゅんぐりに眺めて、前庭を通って館を周回するように庭の奥へ足を踏み入れた。
 まるで花の牢獄のようだ、と銀時は思った。
 棘だらけの花にかこわれて、もう外へは出られないような。そんな気分にさせるに十分すぎるほど、館は茨に包囲されていた。
 確かにそれは檻のようでいて、同時に、外界から何かを護る盾のようでもあった。

(噂が立つくらいには、変な館だ)

 かなり時間をかけて館の周りを半周ほど巡ってみても、屋内へ入れそうな入口は見つからない。
 銀時は一旦立ち止まり、じわり額にかいていた汗を拭った。
 日の光から逃げるように建てられた館は、ちょうど裏手から昼陽を背負う形になる。
 門の辺りでは建物に遮られて当たらなかった陽光がまともに射して、思ってよりもほのぼのとした雰囲気を屋敷に与えていた。
 後庭にも薔薇は咲いていて、ここの花のほうがほがらかな色であるように見える。

(これじゃあただのバラ園じゃねえか)

 銀時はもう一度額を拭う。
 いくら美しかろうがただの花ごとき、そんなもののためにはるばる屋敷までやってきたわけではない。
 もう半周してやっぱり館への侵入口が見つからなかった時のことを考えて、こんなに良い天気、キレイな花にかこまれていながら、銀時の気分は鬱いだ。

(んだ、結局うまい話なんてそうそうあるわきゃあないってか)

 彼がこの屋敷へ忍び込んだのはすべて、噂に聞いた野獣の財宝を目当てにしてのことだ。
 これでお花がキレイに咲いているだけではお話にならない。
 銀時は立ち止まったまま周囲を改めて見渡した。
 館は堅牢な石造りで、どの扉もがっちりと錠が下りている。窓もすべて鎧窓になっていて、厚いカーテンでぴったりと閉ざされているので中に人がいるかも定かでない。

(無防備なのは花だけだ)

 うんざりした気分で、銀時は目の前で花をつける薔薇に手を伸ばした。
 まだ咲ききっていない花に手をそえてみる。
 何もなかったらこの花でも摘んで売って帰ろうかと思いながら手に力をこめると、棘が指に刺さったのがわかった。ぴりりとした痛みと同時に、人差し指から血が一滴流れる。
 薔薇の花のように赤い血が、血のように赤い花の上に落ちた。
 すると、それに続くように手の甲に雨粒がひとつ落ちる。
 ふと見あげるとにわかに空を雨雲が覆い、不穏な風が吹き始めていた。

(嵐だ)

 思った、その銀時の背後に誰かの気配がした。
 唸るような声が地を這った。

「そこから離れろ」

 銀時が振り返ると、獣のように息を荒げた化け物が、伸びた前髪の間の目だけをぎろぎろと光らせて、こちらを睨んでいた。

「え、…あ、あんた」
「離れろと言ったんだ」

 野獣はその鋭い爪のある手で、薔薇の花を持った銀時の手をはらった。
 銀時の手の甲に、野獣の爪が一筋の傷をつける。

「って、」

 声を上げて非難するように野獣を睨みつけた銀時を、もっと強く野獣は睨んだ。

「ここで何をしている」
「……なにって」

 それは財宝をいただきにだ、と思った銀時は、睨んだ視線をふとゆるめた。
 目の前にいるのは金持ち(仮)の獣だ。

「道に迷ったんですう!」

 銀時は口元に手をやって甲高く叫んだ。

「隣町から家へ帰る途中だったんですけど森のなかで迷っちゃってどうしようかなって思ってたらこのお屋敷があって、手入れされた薔薇園が見えたんできっと人が住んでいるはずだと思ったんですう!そしたら雨まで降って来ちゃってさあ大変!さあ家んなかはいろはいろ」
「……何言ってんだおまえ」
「え、ちょー、いいじゃんいいじゃん。ほらオレ身体弱い系男子だから雨に濡れたらまじ一発で喘息とかなっちゃう系男子だから。無理無理まじ無理。ほらこの白髪も心身の疲労によって色が抜けていってしまってだな」
「…天パーもか」
「それは違う!まあまあそんなわけでほらなんだか段々気分悪くなってきたよー頭痛いよー」

 隙をうかがってどうにかしようと思っていた銀時が野獣を盗み見る間に、野獣は銀時をまじまじと見つめてやがて唸るように言った。

「……わかった」

 野獣はくるりと踵を返した。

「ついて来い。屋敷に入れてやる」
「え、うっそ超優しい」
「ただし、もう町には帰れないと思え」

 有無を言わせぬ口調の野獣に、銀時はオッケーオッケーと軽く頷いた。

「三食昼寝付きなら全然オッケー」
「……やっぱおまえ今帰ってもいいぞ」

 渋る野獣を半ば押し込むようにして屋敷へ入り込む。
 こんなに押しに弱くって、この獣はどうして今まで無事でいられたんだろうなあ、と思う銀時に、野獣はどこから出したのか清潔に乾いたタオルを一枚差しだした。

「身体、拭け」

 おとなしくそれを受け取って、濡れた肩から水を払うように拭う。
 その間にも鋭く邸内に視線を走らせて、内装が存外、豪華は豪華でもそれ以上に古びていることに気づく。

(これじゃあ、財宝ってのは望み薄かな)

 肩を落としたくなる銀時を意に介さぬ様子で、野獣は入って来た裏口に鍵を掛けた。
 吹いていた風が止み、ぷんと黴臭さが鼻をつく。嫌いな匂いではない。

「適当に暮らせ。鍵のかかっていない部屋は自由に使っていい。外には出るな」

 野獣が鍵の束を胸にしまったのをしっかりと記憶に刻み込んでから、銀時は渡されたタオルに顔を埋めた。

「……あんた、名前は?」
「何とでも好きに呼べ」
「じゃあ、あー……多串くん」
「土方だ」
「ヒジカタ。ふうん」

 もっとおどろおどろしい名前を想像していた銀時は、いたって普通の、それこそ多串なんかと同レベルな名前に拍子抜けする。

「オレのことはかわいく銀ちゃんって呼んでね」
「呼ばない」

 野獣は、土方は、そう言ってくるりと銀時に背を向けた。
 暗い屋敷の奥の階段へ彼は進む。

「名前なんて必要ない。ここには、オレとおまえの二人しかいないんだから」



***


 三食昼寝付き、という銀時の言った条件を意識しているのかしていないのか、土方との暮らしは快適そのものだった。
 朝食は朝の七時で、寝坊したらありつけない。
 昼は十二時で、午後にはお茶の時間があり、夜は蝋燭の光の中でディナータイムだ。
 誰が作っているのか知らないが食事はそれなりに豪華で、銀時が食べたことのないような食材もよく出てきた。
 食事時になると邸内には美味しそうな匂いが充満して、そのおかげで銀時は初日から食事を逃さずにすんだ。銀時が館に住みついた最初の日から、土方は銀時の分の食事も用意をしていた。
 待遇に何の文句はない、ただし、である。

「おっまえさあー……」
「あ?」

 土方は、テーブルマナーは悪くはない。
 どこかの貴族のようにお上品な食べ方をすると思う。

「そうやって何にでもマヨネーズかけるのって、なんかの呪いなの?獣の習性なの?」

 館に住みついてから一週間も経とうかというある日の昼食である。メインの料理が下げられ食後のコーヒーをすする土方の口元、上唇の端についたのはクリームではなくてマヨネーズだ。
 彼は何を食べるのにも飲むのにも大抵マヨネーズをたっぷりとふりかけ、味も香りも台無しにしてしまう。最初は向き合って食事をするのも辟易したが、今ではマヨネーズの香りを嗅覚から遮断するという、何の役にもたたない特技を身につけてしまった。

「強いていえば、旨いからだ」
「好きだからってそんな所構わず…さあぁ、せっかく、味付けもちゃんとした料理なのに」
「おまえだって、所構わず砂糖かけてるだろ」

 土方が銀時のすするコーヒーを指さす。確かにそのコーヒーはミルクも入れていないのに砂糖の入れすぎで白濁していて、飲み物というより砂糖のコーヒーがけ、くらいの比率になっている。

「でもコーヒーに砂糖いれるのはふつうじゃん」
「オレからいわせればコーヒーにマヨネーズいれるのだってふつうだ」

 こんなふうにして、銀時と土方は図ったように真逆の嗜好をしていた。
 銀時が朝寝が好きだと言えば、土方は朝日と共に目覚めるのが好きで、銀時が爽やかな空気が好きだと言えば、土方は煙草の煙った空間を好んだ。
 それでも土方は銀時を歓迎こそしなかったが特に追い出そうともせず、酷い目にあわせるということもなく、迷い猫が家にもぐりこんだのを受け入れるようにして、銀時を館に置いた。

(そんなふうだと、おまえみたいな化け物すぐ殺されちゃうぜ)

 コーヒーの最後の一口を、砂糖をじゃりじゃりいわせながら飲みおえると、銀時は席を立った。

「ほんじゃまた夕飯で」

 土方は無言で、まだカップに半分ほど残っているマヨネーズを飲む。
 食事時以外で土方と言葉を交わすことは皆無に近い。邸内に軟禁されている銀時はもとより、土方も屋敷の外へ出ることはないようで、どこかの部屋や庭に、人の気配は常にあった。
 それでも二人はまるで示し合わせたように互いの存在に目をつむって過ごした。

(それもオレにとっては好都合だけど)

 野獣の精神構造など見当もつかないが、土方にとってみればちっぽけな人間ひとりが屋敷をうろうろしているのは本当にただ、野良猫が迷い込んでいる以上の意味は持たないのかもしれない。
 それが例え、泥棒猫だったとしてもだ。

(何はともあれ、宝物庫だ、宝物庫)

 銀時は足音を忍ばせることもなく、一週間かかってもまだ全ての部屋を探し尽くせない広大な邸内を歩き始めた。

(そうは言っても、こんな屋敷からほんとに金目のものが出てくるのかね……)

 屋敷を囲う森を隔てた周辺の国々町々では、以前からこの屋敷の探索が試みられていたという。
 その度に或いは遭難或いは失踪、帰ってくるのは館まで辿り着けなかったものたちばかりで、それが余計に館に対する恐怖と期待をあおっているのだった。
 銀時が聞いた噂話も、屋敷の内側は金で塗装されているだとか、窓という窓にはダイヤモンドがはめこまれているだとか、単なる古びた建物である実情とはかなり違うものだった。
 楽して稼げる、という生クリームもびっくりな甘々な甘言に騙され、のこのことこんな屋敷まで来るんじゃなかった、と、今さらながらに肩を落とす。

(そうは言っても、家賃がやばかったんだからしょうがねえだろう)

 肩を落としたまま、ずらりと廊下に並んだドアのひとつに手をかける。
 鍵は開いている。
 ドアを開くと、この部屋もまたうんざりするほど広い。暗くて埃っぽいのも他と同じで、宝物庫らしさはどこにもない。
 しかしこれで諦めていけないのである。
 規模からしてこの屋敷には地下室があってしかるべきなのに、地下へ続きそうな階段は一階のどこにもなかった。つまり地下への隠し通路が屋敷のどこかに隠されているはずなのだ。そして隠されているということは、中にあるのは貴重なものに違いない。

(隠し通路は多分、鍵のかかった部屋にあるだろうけど)

 ここまで広い屋敷なら、主の預かり知らない抜け道のひとつやふたつ、どこかにあるはずだ。
 そのわずかな希望を胸に、銀時は埃だらけの床を這いずり回る。
 ずりずりと人間モップになってから数十分も経とうかという時、膝の下に何かが当たる感触がした。それは厚い絨毯の下、暖炉の脇。膝をあげると、そこだけ絨毯が若干浮き上がっている。
 はやる胸をおさえて、慎重に絨毯をめくる。
 その床に、鉄の取っ手が取り付けられていた。

(これこれこれだよ)

 ちょうど大人一人分ほどの大きさに床が開くようになっている。鉄の取っ手を持つと、ぐっと重い抵抗があったが、それは鍵がかかっているという種類の抵抗ではなく、単に床板の重みであるようだ。
 膝を落として力をこめると、床に入口が現れ始める。

「うっ……ちょ、あっ、せいっ」

 せーいっ、ともう一度掛け声をかけるのと同時にバタンと扉が開き、その下に延々続く階段が見えた。
 奥をのぞき見ようとしても、暗がりに沈んでどれほど階段が続いているのかはうかがい知れない。
 銀時は部屋にあった燭台に湿気たマッチでどうにか火を灯すと、それを持った。

(うわ、この燭台も銀だよ……これどっかで売れねーかな)

 一歩、階段へ足を沈めると、ひやりと冷気がまとわりついた。
 ぞくりと背中が震える。
 もう一歩進めた足が、今度は一歩目より高い音をたてて石階段を踏みしめた。
 コーン、と鳴った音が内部で反響してうるさいくらいだ。音の拡がりで大体の距離の見当をつけると、銀時はもう迷いなく階段を下りていった。
 自分の足音と、たよりなく揺れる蝋燭の火ばかりが闇に満ちる。
 しばらくすると階段は終わり、正面にまっすぐと道が続く。
 その道も暗く細く、行けば行くほど閉塞感につつまれた。これ以上行って一体どこへつながるのか、と銀時が疑問に思い始めたとき、道の先に扉が見えた。
 古びた木の扉だ。
 これなら鍵がかかっていても壊せる、と銀時が確信しながら取っ手を引くと、扉はすんなりと開いた。開いた瞬間、銀時の顔を光が照らす。

「シャイニーン!……ぐ?」

 勝利の声をあげた銀時が見たのは意外な光景だった。
 それはそう、屋敷を囲う広大な庭の一角だったのだ。
 振り向いた先の屋敷からは意外な距離があり、庭のなかでも奥にあたるので人目にはつかない。だから、銀時が屋敷を訪れた際にもこの隠し通路に気づかなかったのだろう。

「……んだよ…ただの避難通路かよ…」

 帰り用にと燭台をそっと地面に置くと、銀時は疲れ果ててどっと倒れ伏した。
 ここでも薔薇が気持ちよさそうに咲いていて、ますますこの屋敷には花以外財産なんてないんじゃないか、という思いが強くなる。

「それならそれで、いいんだよ」

 あの野獣から財宝を奪うのだって、今ではなんだか気が引ける。
 さっきまであんなに財宝への期待で膨らんだ胸はどこへやら、銀時は緩慢な動きで立ち上がると、それにしても久々に吸った外気の中で長々と伸びをした。
 外出を禁じた野獣が庭までの散歩も不可としているのかは知らないが、銀時はここ一週間ずっと屋敷の探索にいそしんできたので、庭先へ出るのも久方ぶりだ。
 このまますこし散歩でもしよう、と気の向くままに歩を進める。
 花が咲けば蝶も飛んで、この上もなくのどかである。蝶を追うように歩いていると、雑草も荒れ放題の庭のその先に、小綺麗な空間があるのを見つけた。
 そこだけはまるで聖域ででもあるかのように草は切りそろえられている。けれど他と同じように薔薇は伸びやかに咲いていて、蔓が絡まる中心に、それはあった。
 それは、白い石で作られた墓碑だった。



2.
 土方は鏡を見つめた。そこに映るのは途方もなく醜い自分の姿だけで、他には何もない。
 諦めて手鏡を伏せて置き、大袈裟な細工の椅子から立ち上がった。かつては栄華をほこったこの屋敷の、哀れな遺物だ。

(椅子も、オレも)

 気を紛らわすために煙草に火をつける。
 獣の嗅覚に対し煙草は間違いなく毒だ。寿命なんてはやく尽きればいいと思う。獣になってからの歳月は呆れるほど長い。この命に限りなどないのだろうかないのなら、自分はどうやって死ねばいいのだろう、と、土方は悩む。

「ああでも今死んだら」

 あの男が飢えてしまうだろうか、と土方は思い直す。
 奇妙な人間。
 一週間経っても、土方を、野獣を襲う気のないらしい男。
 今まで館を訪れた人間はみんな、土方を殺したがった。あるいは見せ物として連れ去りたがった。そういう人間はみんな、殺した。死体をどうしただろう、食べてしまったっけ、焼いてしまったっけ、捨ててしまったっけ。
 殺したいわけではなかった。殺そうとしてきたから殺しただけで。
 十分な食事も、部屋も用意した。
 仲間を呼ばれないように外出は禁じたけれど、請われれば庭には出した。
 それでも彼らは土方を襲った。

「……なのにあいつは何なんだろう」

 銀ちゃん、とまだ呼んだことはない、あの男。
 屋敷中を歩き回る男。
 そう、目的は知っているのだ。彼もまた、財宝を探しに来た人間たちのひとりであるに違いない。
 財宝なんて盗られたって構わないのだ。今の土方には手に溢れる黄金になど価値はない。

(殺してやろうか)

 ふとそう思って、いやいや、と内心で首を振る。
 殺してどうなる。別に、あの男が何をどうしようと、構わないのだから。

(それより今日のデザートはどうしてやろうか)

 あの男は大変な甘党らしい。
 食事の後は毎度デザートを要求してきて、ともすれば甘味を食事の代わりにしようとする。
 それでは栄養バランスが取れないと再三注意してやっと最近、デザートは食後にというルールを守らせることに成功したのだ。

(ケーキか、プリンか、ババロアか)

 思い浮かべる端から、なぜかよみがえる記憶があった。
 それは土方にとってケーキより甘く、煙草より苦い記憶だ。
 ×××××さん――…
 名前を呼ぶ声が、笑顔が、焦げ付いたように離れないのに、思い出される彼女の姿は日ごとに輪郭を無くしていく。
 近頃は忘れていた胸を抉るような苦痛を憶えて、土方はすがるように鏡を手に取った。

(お願いだ、)

 祈るような思いでのぞきこんだ鏡には、ただ絶望した獣の顔が映るばかりだった。



***


 生クリームで飾ったケーキを、彼はめいっぱいに頬張った。
 その甘い匂いを嗅ぐだけで胸がいっぱいになる土方からしたら、彼がなぜそんなに至福の表情を浮かべられるかが理解できない。

「……うまいのか」
「うん」
「甘いだろう」
「うん」
「ゆっくり食え」
「うん」

 自らはコーヒーを飲みながら男へ話しかけると、男は律儀に頷く。返事としては素っ気ないとも言えるが、まともな返答があるだけで十分だ、と土方は思った。意思の疎通ができるなら問題はない。
 ケーキをワンホール分も食べ尽くしてから、男はごちそうさまでした、と頭を下げた。
 作っているのは土方ではないから、土方も同様にカップを置いてごちそうさまでした、と頭を下げる。
 今までならこれで、各々席を立って寝床につくのだが、今日はいつもと様子が違う。
 いつもは野獣より先に席を離れる男が、ケーキに使ったフォークを口にくわえたまま、土方をじっと見つめている。

「…足りなかったか?」

 土方が尋ねると、男はううん、と首を振った。
 では何か、と重ねて質問をする前に、男のほうが口を開いた。歯にフォークがあたって、かちん、と音をたてる。

「ミツバ、って」

 その名前に、視界が歪んだ。
 殴られたような衝撃が襲う。何を、何が、ミツバ。

「答えたくなかったら、いいんだけど」

 遠慮がちにそえられた言葉。
 ミツバの名に混乱していた土方は、それでふと納得する。

「墓を見つけたのか」
「うん、ごめん、屋敷の外、出たわ」
「…そうか」

 そう言えばこの男は庭に出たい、とも言わなかった。一週間もこもりきりで身体を悪くしていないと良いが、と土方は頭の片隅で思った。

「ミツバは、昔この屋敷にいた女性だ。若くして病死して、身よりもなかったからオレが葬った」
「気を悪くしたらあやまるけど、彼女は人間だったの?」
「オレもその時は人間だった」

 答えてから、それが正確な返答ではないことに気がつき、訂正する。

「その時までは、オレも人間だった」
「その時?」
「彼女が、死んだ時」

 不意に、押し寄せるように記憶の波が土方に打ちかかった。流されないように、誰かにすがりたい。それなのにすがれる彼女はもういないのだ。
 すると、これも不意に土方の手に男が触れた。

「大丈夫か?」

 はげますようにかるく叩かれて、いつもやわらかく包むようだったミツバとは違う慰め方にひどく安堵する。

「……悪い、取り乱した」
「変なこと変な聞き方して悪かったよ」
「いずれ知れたことだ。大丈夫、お前が思うように、彼女はオレに囚われて死んだわけじゃない。すくなくとも、獣のオレに捕らわれてはいない」

 そう、こんな辺鄙な場所にある屋敷に移り住んだのだって、最初は彼女の療養のためだったのだ。
 土方の人生は彼女のためにあったのだ。
 それでも彼女は、ここを離れてしまった。
 もう会えない彼方まで行ってしまった。

「……さみしいなあ」

 男の手が、今度は肩にまわった。
 振り払えるほどの気概が今はなく、ただ人肌がうれしかった。
 さみしいんだ、そうなんだ、さみしいんだ。

「さみしいんだ…」

 声に出してみたところでミツバに聞こえるわけでもないのに、誰かに訴えるように土方は呻いた。

「会いたいんだ」

 低く呟くとそれはまるで獣の唸り声にしか聞こえず、我ながらに滑稽だと思った。
 こんな醜い獣の言うことを誰が信じてくれるだろう、憐れんでくれるだろう。
 それなのに男は、その夜ずっと土方の肩を支えていた。
 ぬくもりだけが以前と同じで、土方はすこし泣いた。



***


 今よりほんのすこし強い魔法が世界にあったころ、土方とミツバは出会った。
 土方は財産を、ミツバは身体の弱さを両親から受け継いでいたから、彼らは土方の所有する森の中の屋敷に移り住んだ。
 そこは敷地が広大なあまり道に迷うこともあったけれど、土方は会いたい人の姿を映す鏡とその人のもとへ行ける銀の手袋を持っていたから、いつだってミツバを見失うことはなかった。
 気心の知れた使用人たちとふたりは幸せに暮らした。
 そのころ、もっと強い魔法の力が世界にあったら、きっとここで物語は終わっていたのだ。
 けれど世界はそこで止まらず流転を続け、ミツバはとうとう病床に臥したまま動けなくなった。
 思いつく限りのことは全部やった。
 それでもミツバの病は治らなかった。
 土方は世界を呪った。無力な自分を呪った。

「とおしろうさん」

 その日も土方は、遠い異国の術師を訪ねる道中だった。鏡に映したミツバがそう名前を呼ぶから、土方は銀の手袋を使ってすぐに城へ戻って来たのだ。

「十四郎さん、」

 彼女はほっそりしてしまった頬を、それでもほころばせた。
 そして唐突に、言った。

「わたし、お屋敷の庭に種をまいたんです。花の種を」

 なぜ、とあげそうになった土方の声は、どうしてか喉につまって外に出なかった。

「だから十四郎さん、わたしがいなくなっても、きっと毎日お屋敷の外を散歩して、その折に水をかけてやってくださいね。どこに咲くかは言わないでおくから、きっと咲いた花を見つけてやってくださいね」
「いなくなるなんて、言うな」

 土方をはげますように、彼女は手の平で彼の手を包んだ。

「わたしがいなくてもきっと薔薇は花をつけます。その薔薇は魔法の花で、あなたにさみしい思いをさせない魔法の力をもっているんです」
「……おまえ、魔法なんて使えないくせに」
「そうよ。わたしは十四郎さんのように魔法の鏡も手袋もないから、せめて思いをこめて種をまいたんです。だから、十四郎さん」

 彼女の手に、わずかながら力がこめられた。

「芽吹いた種を愛してあげてくださいね。世界を恨まないでくださいね。花を愛するように、いつか誰かのことを愛して、あなたのことを、愛してくださいね」
「……もう、頼むから何も言うな。おまえは治る。オレが治すんだ」
「ありがとう、十四郎さん。わたしにとって、十四郎さんがずっと、薔薇の花だったわ」

 彼女はそれから愛おしむように、花弁に触れるようにして土方の手をなぞり、頬をなぞり、前髪を撫でた。

「わたし、あなたの薔薇の花になれたかしら。あなたの希望になれていたかしら」

 言葉につまりながら、それでも土方が頷くと、彼女は笑った。花のような笑顔だった。

「薔薇に、水、あげすぎちゃダメよ」

 彼女はそうして、目を閉じた。
 そうして、そうして、二度と目を覚ますことはなかった。

(ミツバ)

 土方はそれから三日三晩嘆きつづけ、目が涙と一緒に流れ落ちてしまったのではないかと思われた頃、魔法の手鏡を手に取った。

(ミツバ、ミツバ)

 願いを込めて鏡をのぞきこんでも、もう鏡は愛する人を映してはくれず、そこに映ったのは一匹の野獣の姿だった。
 絶望が彼を獣にした。
 彼は人の心を無くしたのだった。

(ミツバ)

 それ以来、鏡はただの鏡でしかなく、手袋はただの手袋でしかなくなった。
 それが土方が会いたい人を失ったからなのか、魔法が力を失ったからなのかはわからない。
 残されたのは宝物庫へ続く扉を開ける金の鍵と、土方の絶望のために影になってしまった使用人たちだけだった。
 今も屋敷には、数え切れないほどのダイヤモンドと、影になって働く使用人たちと、醜い野獣が棲んでいる。
 それを護るように、薔薇の花が咲いている。
 残されたのは、ただ、それだけだ。




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