体育館には暖房器具がない。学生服の布地の薄さは教師にはわからないだろう、と土方は壁際のパイプ椅子に座る担任を見つめた。そして見慣れた銀髪を見つけ出す。ふわふわとしているのはすぐ側にある出入り口の隙間風のせいだろうか。
 卒業式と言えば桜とイメージがあるがまだそれは蕾すら見せてはくれない。
 まだ春は来ない。そんな肌寒い中の卒業式はメインの卒業証書授与を迎える。クラスメイトの名前が呼ばれていく。それはいつもより固い声だ。ア行から始まった名前はだんだんと土方に近づく。

「土方十四郎」

 耳にじんと染み込むような声だった。

「はい」

 口を大きく開き、返事をする。そうして立ち上がると、銀八からの視線を感じた。それは何の特別なことではなく、全員と目を合わせているのだろうが、土方は力強い視線で答える。何を伝えたいのだろう。もうわからない。
 次々に生徒が呼ばれ、クラス全員が立ち上がった。最前列の右端、その席に座る者がクラス代表として卒業証書を受けとる。校長の前に立ったZ組の代表は沖田だ。クラス一同の証書を受け取る。一切ふざけず、真面目な沖田と言うのはいつもとは違った意味で緊張する。いつスイッチが入り、何をしでかすか。
 だが、そんな心配は無用だったのか卒業式は順調に進む。学校長の話、保護者会の代表の話には有難みはほとんど感じなかったが、こうしてこの体育館で過ごすのは最後なのだと思うと寂しいものがあった。寒いがこの場所には思い出もたくさんある。入学式もここであったのだ。隣に座っている同級生も明日からはもう毎日会うことはない。
 それ以上に担任教師とは会う機会は減る。担任は高校にい続けるが、自分を含めて皆、卒業するのだ。
 もう会えない。
 卒業式では泣かないものだと思っていた。小学校も中学校も卒業をしたが、その時には一滴も涙が溢れることはなかった。仲の良い友人が揃って同じ学校に進学することもあったが、自分はドライなタイプの人間だと思っている。そう思っていたのだが、鼻の奥がつんと痛む。眼球が熱い。視界が歪むほどの涙ではないが、確かに泣いていた。
 寂しくなるな、と思ったからだ。
 卒業生は在校生の拍手で体育館から送り出される。ここから最後の教室に向かうのだ。思い出を振り返りながら廊下を歩く。

(カルピス、どれくらい飲んでくれたかな)

 それを渡したのは一ヶ月前のこの廊下だった。カルピスに込めた下心は気づかれただろうか。カルピスにしたのはバレンタインデーにチョコレートを渡す勇気がなかったと言うこともあるが、思い入れの差もあった。カルピスは二人にとって、意味がある。と、土方は思っている。
 体育館から教室まではほんの一瞬だ。廊下を歩いているとその列は妙な雰囲気だった。騒ぐわけでもなく、かといって静まり返っているわけでもない。微かにすすり泣く声も聞こえる。卒業するんだと土方はまた改めて思った。戻ってきた教室の黒板には『卒業!』とカラフルなチョークで大きく書かれている。式の前に誰かが書いていったのだろう。それを背後に銀八は教卓に立つ。

「卒業おめでとう」

 銀八は順に端から生徒の顔を見つめていく。土方も銀八と目が合った。ただの思い違いかもしれないが、眼鏡越しのその瞳はいつもより柔らかく感じた。

「…卒業証書は、まぁ、なくすな」

 誰がそんな大切なものをなくすのだ、と土方を含めクラス中がふっと笑った。空気ががらりと変わる。

「進学も就職組も、てきとうにがんばれ、ンで学校には帰ってくるなよ」
「先生に会いに来ちゃだめアルか?」
「生徒が帰ってくんのは基本的に悪い知らせが多いんだよ、先生のことなんか忘れるくらいに大学で楽しめバカヤロー」

 銀八はもう終わりだ、と出席簿をパタンと閉じた。

「だから帰ってくるなよ、さよーなら」

 そんな言葉であっけなく高校生活は終わった。
 教室ではこの後の打ち上げの予定が立てられる。しばらくは会えないかもしれないクラスメイトたちとのお別れ会だ。学校近くの店をクラス人数で予約している用意の良い奴がいるらしく、彼を中心に話題が広がる。
 参加する者は夜の六時に学校での集合らしく、それまではいったん解散とのことだ。土方はカバンを背負い、教室を出ようと足を踏み出す。

(もう、卒業か)

 土方の脳内にはある男の背中が浮かび上がった。白衣を着て、髪はいつも好き勝手に跳ね返り、猫背な後ろ姿。ここ一年、それをずっと追いかけていた気がする。勝手に自分の中に入り込み、掻き乱すだけ乱していき、来るなと拒んだ先生だ。

(ホワイトデーにはもうここにいないよ、先生)

 三月上旬、重すぎる心は下に沈む。俯いた土方の前に沖田が立ちふさがった。

「その花、付けっぱなしで帰るんですかィ」

 沖田は土方の学ランの胸ポケットを指差す。そこには在校生から贈られた祝いの赤い花があった。式の前に下級生から付けてもらったものをすっかり忘れていた。

「お、おお」

 恥ずかしい思いをして帰るところだった、と土方はそれを外す。造花だが一応折れないようにと乱雑に扱うカバンではなく学ランのポケットに慎重に仕舞った。沖田はとっくに外していたのだろうもうそこには真っ黒な学生服だけで色はなかった。そこに土方は首を傾げる。

「…お前、そんなキャラだったか」
「は?なにがです?」
「ボタン」

 沖田の学ランの上から2つ目のボタンがなかった。それが今もある風習なのかは怪しいところだが、第二ボタンの意味することは土方だって知っている。

「あぁ、さすがに今日で卒業ですかからねィ」
「卒業…」
「まぁ、最後くらいは正直にわかりやすく形で示そうかと思いやして」

 押し付けてきた、と沖田は歯を見せながら笑う。相手はいつも帰りを待っていた神楽だろう。最初は一緒に帰ろうと誘ってもその成功率は高くなかったらしいが、だんだんと一緒に帰れるようになってきたようだ。本人たちは言わないが、よくその光景を見かけるようになった。

「へぇ」
「…言っときますけど土方さんも今日で卒業、ですよ」
「あぁ、ンなもん当たり前だろ」

 沖田と土方は同じ学年どころか、同じクラスだ。今日、一緒に卒業することは変わらない。

「…後悔しまくりで死ね、土方コノヤロー」
「ハァ?」

 土方の疑問には答えるつもりはないのだろう、沖田はバッと背を向けて教室を出ていった。土方はその背中を眺める。振り返ってほしい背中とは違うその姿には何も思うところはない。沖田とはこれからも何度だって会える。
 土方は心臓に近い第二ボタンを右手の指で触る。

(もらってほしい?誰に?)

 ――先生に。
 土方は教室を出る。向かうのは下足場ではなく、準備室だ。先生に会いたいと思った。早足で廊下を駆ける。途中、通った職員室の前は教師とも別れの挨拶をするためだろう生徒で溢れていた。同じように準備室も生徒がいるだろうか。
 だが、その予想に反して準備室の前には誰もいなかった。土方はドアをノックし、応答を待つ。しばらく戸を見つめたが、返事がない。聞えなかったのかと再度ノックし、扉に手をかける。が、鍵がかかっていて開かない。

(準備室にいないから、誰も会いに来ていないのか…)

 もしかしたら職員室にいると知れているからここに誰も来ないのだろうか。だが、土方には職員室にいる銀八が想像できなかった。そこでくつろいでいる姿は見たことがない。

「…先生、ほんとにいませんか」

 土方は開かない扉に向かって声をかけた。今日で卒業なのだと思えば、勇気を振り絞るのは簡単なことだった。きっと、ここにいるだろうと妙な勘が働いたのだ。
 誰もいないはずの中から、慌てたような足音が聞える。土方は思わず笑ってしまいそうになる口許を押さえた。予想は当たりだ。

「ひ、土方、どうした?」
「きっといるんじゃないかと思って」
「あ、あぁ、居留守バレる?」
「まぁ、普段の先生を知ってればわかります」

 入ってもいいですか、と土方が訊く前に銀八は中に招く。その手に誘われ、土方は準備室に足を踏み入れた。いつか使わわせてもらっていたデスクはそのまま残っている。片付ける際に邪魔だと左右に積まれた本もそのままだ。
 座るように来客用のソファー指差す銀八を無視し、土方は仁王立ちだ。カバンを足元に下ろし、ボタンを握る。

「先生…、これ、もらってくれませんか」

 上からボタンを二つ外し、第二ボタンの裏側に指をかける。カチッとボタンの留め具を外す。学ランのボタンはこうやって卒業式に取り外すとめにこのような留め方になっているのだろうか。そんなわけはないだろうが、とすぐさま自分の中で否定する。だが、今はその性質が役立っている。ボタンは簡単に外れた。

「なにそれ?」
「第二ボタンです」
「…くれるの?」
「はい、もらってくれます?」
「それと一緒に何か言うことはある?」
「…今は、ありません」

 土方は少し色あせた金色ボタンを銀八の手のひらに乗せる。
 タイミングは、今ではないと思うのだ。
 銀八は、今度はソファーにかけるように声に出して伝えた。土方は素直に銀八の正面に座る。

「あ、カルピス」
「カルピス?」
「前に約束したホットカルピス飲ませてやるよ」

 土方が座ったことで視線の高さが揃ったのにすぐまた銀八は立ち上がった。すぐ側の棚からカルピスの瓶を取り出し、ポットの横に置く。その瓶の中身は半分ほどに減っていた。次いで銀八はマグカップを二つ取り出し、少量の原液を入れる。

「バレンタインのお返し、マシュマロじゃないけど白いからホワイトデーっぽいだろ」

 ホワイトデーは来週だけど、と銀八は笑う。ホワイトデーにはもうこの学校の生徒ではない。

「それ、甘いんでしょ」

 どころかそれは自分があげたものだ。お返しになるわけがない。だが、まさかバレンタインのお返しがもらえるとは思っていなかった。マグカップに湯が注がれていく。差し出されたのは真っ白な液体で、同じく白の湯気が昇っているマグカップだ。
 バレンタインに行った時はホットチョコを飲んだだけで終わったので、ホットカルピスはこれが初めてである。

「甘ェ…」
「な、甘くてうまいだろ」
「ただ甘いだけです」
「そうー?せっかくのホワイトデーなのに」

 初めて飲んだホットカルピスはとてつもなく甘かった。白さと甘さは銀八を連想させる。少しでも熱を冷まそうとふー、と息を吹きかけた。

「…先生こそ何か言うことないんですか?」

 ホワイトデーを前借りしてでもこれを飲ませてくれたのはどうしてなのか。

「んー、言いたいことはあんよ、でも今日この日に言うべきじゃないと思うわけよ」
「…なんかそれわかります」

 きっと考えていることは同じだ、と土方は考える。今日この日は、特別だ。だが、その場に流されて伝えるような気持ちではない。
 坂田銀八が好きだ。と言うことはもう少し後に伝えたい。今日を越えた後で、伝えたいのだ。

「先生、これからも会えますか?」
「…来年度もこの学校に勤務してるかはわかんねぇな、転勤は三月の中旬過ぎにしか出ねぇし」
「先生」
「ん?」
「メアド教えてもらってもいいですか?」

 銀八は頷いて携帯を取り出す。土方も自分のそれを取り出し、赤外線を起動させた。ピ、と電子音が個人情報の交換を完了させたことを知らせる。確認した電話帳には『坂田銀八』と保存されていた。繋がりを得た携帯をポケットに仕舞う。

「…また、来てもいですか?」
「あー…、もう生徒じゃねぇんだから、あんま学校には来ない方がいい」

 またの拒否に土方は肩を強張らせる。だが、以前とは違ってそんな土方に銀八は笑って手を伸ばした。髪に優しくその手が触れる。

「学校以外のとこ、メールくれれば行くから」

 顔を上げた先には笑顔があった。
 土方は立ち上がり、カバンを背負う。これ以上ここにいては何かを口走ってしまいそうで、泣いてしまいそうだ。

「先生、さようなら」
「ああ、卒業おめでとう」

 春はもうすぐ訪れる。






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