まだ冷たい風が吹く二月なのに、空気の色がどこかピンク色に染まっているように思うのは気のせいだろうか。気のせいだろう。ピンクに染まっているのはきっと空気ではなくて自分の頭の方だ。
二月も中旬なこの時期、受け持ちのクラスで自主登校する生徒は一月と比べても格段に減る。
大学受験で授業日数が削られている状況に教育者としてはしぶい顔もしたくなるがまあ仕方ない。根が不真面目なので、授業数が少ないこと自体にはさして不満もないのだ。
そんな中、今日のこの日だけは三年生の教室が一時賑やかさを取り戻す。
バレンタインデーなるこの行事は高校生のなかでは独特の位置づけにあるらしく、女子は手作りの菓子を弁当代わりに持って来たりとそれはもう好き放題に菓子業界の思惑に身を任せている。
もちろんそんなのんきな華やかさを謳歌していられるのは一足先に合格を勝ち取ったAO組や私立単願組で、国公立狙いの生徒たちは今日も今日とて黙々と自習に励んでいる。
そのせいで教室の勢力図は今日だけ普段と一転し、受験の終わった生徒が幅をきかせるのだ。
バレンタイン連中とて無神経ではないので、表面上は大人しく教師にチョコを渡したり身内でこそこそ話し込むだけで際だってうるさくなるわけではない。
それでも自習組にしてみればそうやって気を使われるのもそれはそれでわずらわしい、あるいは申し訳ないようで、彼らは彼らでバレンタインの日は学校に登校せずに家で自習する、というのが暗黙の了解になっているらしい。
(高校生ってのはいろいろ気をまわさなきゃいけなくって大変だねほんと)
銀八は、出勤早々に二年の女生徒に渡されたチョコレートドリンクの素をマグに注ぎながら、準備室の窓から寒そうな校庭を見つめた。
「お湯お湯……」
旧式のポットからお湯を注いでマドラーでまぜると、ほどけたようにチョコレートの香りがひろがる。
いかにも甘そうな匂いをによによと楽しんでから、ずっと音をたてて啜ると、意外にも甘味より苦味が勝った味が口のなかを蹂躙した。
「おげっ」
思わず声をあげてマグのなかを見る。市販のココアよりも艶のある黒をした液体がてらりと光っている。
「おげえ…」
決してまずいわけではないが、甘さ控えめ大人の味といった趣のその飲み物に、銀八はげっそりした視線を送った。
ドリンクの素の袋の、おさとうひかえめ、のうたい文句を読んで、ため息をつきながら空袋をゴミ箱へ放った。
「……いやいや、なんで甘い物の砂糖をわざわざ控えるのよ…」
これを渡してきた女生徒には悪いが、このままでは甘党舌の銀八には飲めたものではない。仕方なく砂糖を足そうと準備室の戸棚をあさるが、魔法の白い粉は普段の濫用がたたってスプーン一杯にも満たない量しか残っていなかった。
「…くそう」
文句を言って砂糖が出てくるわけでもない。あたたかい準備室から出るのは惜しいが、職員室に備え付けの給湯室まで行けば砂糖があるのはわかっている。
マグを持ったまま行くか置いていくか迷ったあげく、どうせ授業時間中の今なら誰も廊下にいるまいと、マグを片手に部屋のドアを開けた。
途端に外気温と同程度につめたい廊下の空気に首をすくませる。
(くそ、ちょっと見栄はって前よりカイロ減らしてるからな)
まだ相当に熱いマグを両手で抱えるように持って手をぬくめながら、職員室へつづく廊下を歩く。
(今年はぜんぜんあったかくなんねーなあ…)
リノリウムの床とスリッパがすれあってぺたぺたとなさけない音をたてた。
(春はとおいねえ…)
銀八は歩きながら窓から外を見る。春になれば桜が見える窓辺も、今時分はただうらさみしいだけだ。
春は遠い。
それでも銀八は、すでに春を待つ季節になったことに少なからずおどろいていた。
桜の咲く中で新しい担当のクラスを受け持ってから、すでに11ヶ月が経過している。つまりそれは、彼と出会ってからの時間でもある。
それは思えば速すぎる時間の流れのようでもあった。
(春は遠くて、いいのかもなあ…)
自分が妙に一生徒を意識していると気付いたのは去年のいつ頃だっただろうか。真面目なようで間抜けなようで大人びているようでやっぱりただの高校生である土方という存在が、銀八を変えてしまったのはいつからだったろう。
距離を取ろうと思ったのに結局耐えきれず、なんだか以前より親密になった関係に、正直悩む気もなくなってきたのが最近の一番の悩みだ。
子供のいない銀八にとっては、あるいはただの父性本能なのかもしれない。
ほかの生徒よりちょっと出来が良くて、でもどこか不器用で、ついでに顔もなかなか整った土方に理想の息子像みたいな気持ちの悪いものを投影して、優しく親身になることで悦に入っているのかもしれない。
そうではない、と、どこかでわかっていながら銀八は自分をごまかす。
土方のためにもごまかさなくてはいけない気持ちだ。
この思いに春は来なくていい。
(ただなあ)
銀八は両手で持ったマグに顔をよせて、甘い匂いだけをかいだ。
(土方くんには春が来てほしいもんだ)
ぼんやりとそんなことを考えながら歩いていると、突如、銀八は後ろから突かれるような衝撃を受けて前へつんのめった。
持ったマグから熱い液体がちょっとこぼれて、よせていた顔面に飛沫がかかる。
「どああっちいい!」
「あ、ごめんね先生っ」
「ごめんなさーいっ」
どうやら後ろからタックルをかましてきた張本人らしい女生徒がまったく悪びれずに、走る速度もゆるめずちょっと振り向いた。連れの生徒が手を合わせて謝罪のポーズをしている。
「こらおまえらーっ、廊下は走っちゃいけないって教えなかったか」
「えーだって急いでるんだもーん」
「そうだよそうだよ。帰っちゃったらどうすんのー」
注意すると速度こそ落とすがまだ軽やかに足踏みをして今にも走り出しそうにしている。
顔に見覚えのある、どうやら受験も終えた三年生らしい彼女たちは不満そうに唇をとがらせた。
「帰っちゃうって、誰が。つーか、三年も授業時間中は教室から出ちゃダメだろ」
「だってえ、今日土方くんが学校来てるんだもーん」
「今年はチョコ渡せないと思ってたのに、運命だよね運命」
「えーちょっとあんたとあたしどっちの運命よ」
銀八を置いて話を進める二人に、ちょっとちょっと、と割り込む。
「土方って、オレのクラスの土方のこと?」
「え、あ、そうじゃん先生担任じゃんうける」
「いやなんもうけるとこないけどさ、なに土方今日登校してんの?」
「そうだよーってかなんで先生よりうちらのがくわしいのマジうける」
「いやだから自主登校でHRないからっていうかおまえうけてるならせめてちょっと笑えよ」
「あははー」
「ねーでも先生もびっくりだよねー。土方くんしかもちゃんと自習してるらしいよ」
「え、まじそうなのあたしもそれ知らん。チョコもらいにきたんじゃないの」
「や、それはあたしも知らん。でも今んとこチョコ断ってるって。だからほんとに単に勉強してるらしいよ」
「え、そしたらあたしたちのチョコも受け取ってもらえなくない?」
「え、いやあたしたちのは…どうなの?」
ゆるい会話からはそれ以上の情報は引き出せそうにない。銀八が土方の登校理由に首をひねっていると、もうその場にとどまる必要はないと判断したのか、じゃあとりあえずもう行くね、と言い残して彼女たちは走り去っていった。
「あこら走るなって」
小さくなる彼女たちの背中を見送り、ようやく鼻にかかった液体を白衣の袖で拭うと、銀八は考え込んだ。
今まで見てきた土方の性格からして、バレンタインのような浮ついた行事を好みそうにはない。年相応にロマンチックな所はあるが、土方はどちらかといえば硬派なロマンチストだ。
あのご面相ならバレンタインなど百戦錬磨だろうが、甘い物好きとはいいがたいあの趣味嗜好で、この行事を楽しめるとも思えない。
(あ……)
待てよ。
無理に難しい結論を導こうとしていた脳みそが動きを止めた。
銀八のなかでバレンタインは男性が甘味を貰いまくる日になっていたが、世間一般には、女性が男性へ、好意を持って甘味を贈る日、という位置づけのはずだ。
そして先程の女生徒たちのように、土方に毎年好意と共にチョコを渡す女性は何人もいるにちがいない。
それを待っている、という考え方はないだろうか。
不特定多数のチョコを目当てにのこのこ登校するような軟派な男ではないが、一人の女性からの愛の告白のために学校まで来る、というのは、なんとなく硬派な土方に似合う気もする。
そういうことだろうか?
(考えたって、わかんねーんだけどさ)
銀八はますます背中をまるめて廊下を歩く。すぐそこに近づいた職員室への道のりがやけに遠い。
***
職員室から砂糖を袋ごとうばった銀八は、そのまま教師連中に交じって過ごそうかと思ったが、今日は職員室さえチョコレートの話題が飛び交って落ち着けない。
チョコレートドリンクなんか抱えていたものだから、それは誰にもらっただのなんだのと絡まれて、ゆっくりと甘味タイムも取れない。話のついでにチョコレートのひとつでも恵んでもらえるなら別だが、職員室に残っている教師陣がそろってチョコには縁のないメンツだったからたまらない。
職員室での収穫といえば砂糖袋と、体育教師の月詠からすこしは健康に気をつかえと、学校備品のお古の万歩計を渡されただけだった。
「かわいくて若い女教師ってどこの世界の伝説だよな……」
腰の万歩計をかしゃかしゃ言わせながら、廊下を準備室に向かって帰る。
どうせ準備室に帰るならマグを置いてくればよかった、と思うが、それなりに良いカイロ代わりになったからよしとする。
ぺたぺたと歩く道中、銀八の頭に浮かぶのはどうしても先程聞いた女生徒たちの会話だった。
土方が学校にいる、というのがなんとなくまだ腑に落ちない。
もしかしたらバレンタインで頭のわいた女生徒たちのただの噂話とか、そんなレベルかもしれない。あるいは、忘れ物か何かで本当に一度学校には来たがすでに帰っている、とか。
願望半分の想像をしているのはむずがゆい。
ぺた、と一歩進めた足を、準備室とは違う方向へ向ける。
(ちょっと教室のぞいてみりゃいーだけじゃねえか)
声はかけずに、ドアのガラスごしに確認すればいい。いなければそれまでで、いたらいたで、土方にだって土方なりの事情があるのだろう。
(それだけだ)
それだけ。
(ただ、顔が見たいだけだ)
方向転換して教室を目指す自分に今回ばかりは言い訳はできない。
歩くたびにからかうように万歩計が鳴って、今だけは変な沈黙がないのがありがたかった。
(ちらっと見るだけ。見るだけ)
自分に言い聞かせながら廊下を歩いて、そう距離もなく教室へとさしかかる。
偶然通りかかった体で教室前の廊下を歩き去る横目に、しっかりと、自分の席で机に向かう土方のうつむいた顔が見えた。
(いたよいたよ。今日もまた、キレイなお顔ですね)
思いながら教室を通り過ぎようとした瞬間に、その内心の声が聞こえたように土方が顔をあげた。
はかったようにばっちりと目が合う。
「うおえ」
驚きのあまり吐きそうな声を出してしまった銀八は、ちょっと決まりが悪くて立ち止まれずに廊下を過ぎる。
たかが目があったくらいで心臓が一回大きく跳ねて、もう若くはない身体には結構な負担だ。
猛烈なスピードで準備室までの道のりを辿ると、見慣れた扉の前で息を整える。
(なんだこれ…なんか心臓に不治の病とか抱えてんじゃねーのこれ)
ぶへあ、と大きく息を吐いてから準備室のドアを開ける。人心地つこうと苦いままのチョコレートドリンクに口をつけるが、やっぱり苦いだけでまったく心は安まらなかった。
「おげっ」
本日数回目となる奇声を発した銀八の後ろから、その濁った声とは比ぶべくもなく澄んだ声がした。
「なにしてんですか」
その聞き覚えのある声にあわてて振り返ると、準備室の前に、不審げに佇む土方がいた。
「おえ、土方くん」
「おえって……二日酔いですか?」
「や、違うって全然。さすがにこんな時間まで酒のこさないって」
「先生ならやりかねないから、言ってるんです」
呆れたふうに言う土方をまじまじと見る。幻覚ではないようだ。
スクールバックを肩にかけているのを見ると、もう帰り際らしい。自主登校の日は登校時間も下校時間も決まっていない。授業時間に廊下へ出るのは基本的に禁止されているが、登下校のためなら別段問題はない。
問題はないが、教室から靴箱へ向かう動線に、どうしたって準備室は入ってこない。
「どうしたの、今日は」
今、準備室にいることだけではなく、今日という日に登校してきたことも含めて聞いたつもりだったが、土方はその問いをどちらの意味であっても答える気はないようで、無言のまま、それ、と銀八の持つマグを指さした。
「バレンタインですか」
「え?お?おお」
土方の口からバレンタイン、という単語が出るとは思わなかった銀八は一瞬とまどった後にうなづく。
土方が言うとバレンタインはバレンタインでも敬虔なキリスト教徒でも出てきそうだから困ってしまう。やっぱり彼に浮ついた行事は似合わない。
「そうですか」
「ああ…うん、これ、あんまり甘くなくて好きじゃないから、あの、職員室から砂糖とってきたんだけどね」
そう言うと、我が意を得たりとばかりにそうですかそうでしょうと難しい顔で土方がうなずくので、ますます銀八は混乱する。
「え、ええと…」
「コレ」
差し出されたのは、白地に水玉の、ちょうど酒瓶一本くらいが入りそうな箱だった。
「…ええと」
差し出されたのは、土方が中身を入れ替えたりなんかしたりしていないかぎり、どう見てもカルピスの原液の入った箱だった。
「これは甘いんでしょう」
まだ渋面をした土方が低い声で言う。
箱を受け取った銀八は、なんだか脅されているような気分がしながらも甘いのは確かにその通りだったので、はいと答える。
「はい甘いです」
「じゃあそういうことなので」
どういうことだかさっぱりわからない銀八は、くるりと踵を返そうとする土方をちょっと待ってちょっと待ってと引き留めた。
土方がうっとうしそうに銀八を見る。
「あの、そういうことなんで」
「そういうっていわれてもあの全くわかんないんだけど、これ」
「え?」
土方がまた、いつになく低い声で聞き返してくる。ほとんどヤのつく自由業ほどドスのきいたその声に、なんで自分は責められているのだろうと銀八は肝を冷やした。
「あの、土方くんはこれをくれるの?」
「……そうです」
「ええと、ありがとう」
「…はい」
「それで、なんでくれるの?」
「なんで、って…」
土方は何か言いたそうにうつむき、でも言葉につまって口をつぐんだ。
「バ、ば、」
何か言いかけた途端に、土方の白い頬にみるみる赤みがさしていく。
耳まで赤くなったと思うと、急に顔をあげた。
「ばか野郎!」
罵倒された。
「ええええ」
「な、なんでこの流れでわかんないんですか!」
「今までのって罵倒される流れだったの?」
「ちがいますバカですかほんとに…っ」
肩をいからせた土方が、そう言ってからふっと急に顔をくもらせた。
今日の土方はひとり百面相で楽しそうなのは何よりだが、銀八は彼の真意がこれっぽっちもつかめない。
「…め、めいわく、なら」
「いやカルピスが迷惑だとは毛ほども思ってないんだけどね」
「……そ、そですか」
土方がほっとしたようにひとつ息をついた。
理由はわからないがひどく緊張している様子の彼を急かして話を聞くより、まずは落ち着かせたほうがよさそうだ。
思ったまま、片手のマグを差しだした。
「じゃこれでも飲んでちょっと落ち着いてみようか」
「え、あ、はい」
何が何だかわからないままマグを受け取ったらしい土方がそのまま硬直している。
渡したマグを持ったまま所在なさげにしている土方を放ってはおけないので、銀八は頭をかきながらくるりと準備室にの入口に向き直った。
「まー飲みかけはあれだよね。ああ、せっかくだから、ホットカルピスでも飲もうか」
もしかしたら土方は受験ノイローゼでちょっと混乱しているのかもしれないなあ、などと考えながら部屋へ招き入れると、入口で躊躇していた土方が意を決したように敷居をまたいだ。
「……失礼します」
「はいはい。しかしあれだねえ、土方くんがこんな甘いのもってくるなんて、珍しいこともあるもんだねえ。あ、そのチョコ、いやだったらそこらへん置いといてな」
いやではないです、と律儀に返答がかえってくる。
そーかそーか、とうなずきながら土方に背中を向けてカルピスの箱に手をかけた。
(土方なら、あの苦いのも平気かもな)
まったく、バレンタインデーだというのにあんな砂糖っけのない物を贈ってよこした女生徒に、しっかりとカルピスを持ってくる土方の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい。
そう思ったところで、ふと、カルピスの箱を開ける手が止まった。
おやそういえば、今日はバレンタインではないか。
するとどうだ、このカルピスの持つ意味合いが、なんだか変わってきやしないだろうか。
熟れたように赤くなった土方の顔が脳裏によみがえる。
銀八は、あやうく声が出てしまいそうな衝動をぐっと堪えた。
そんな銀八の心中を知ってか知らずか、土方が後ろでチョコレートドリンクを飲む気配がした。
「なんだこれ…甘いじゃないですか」
土方の声に、お願いだから今はちょっと黙っていてほしいと銀八はそう思った。
「先生、耳赤いけど、暖房熱いんですか」
お願いだから今はちょっと黙っていてほしい。
まだ汗ばむには早すぎる季節なのだから。