高校三年生の三学期がついに始まって、すでに二週間。窓の外は寒そうだ、と学ランの下にカーディガンを着込んだ土方は机に頬杖をつく。
 センター試験もつい先日に終わった。土方の手応えとしては上場。翌朝の新聞で自己採点した結果も飛び抜けてよかったと言うわけではなかったが、希望していた点数には到達することができた。
 例の初詣からはもう三週間が経とうとしている。
 その担任教師である銀八との初詣はクラスメイトたちには秘密であった。担任である銀八が特定の生徒と合格祈願の初詣に行ったとなれば少し角が立つからだ。だがそれは別段、銀八に口止めされているわけではなく、ただ土方の個人的な判断である。
 そして初詣では些細だが、現状を打破できるような出来事があった。
 銀八の私服が想像していたものと違って落ち着いたお洒落なものだったということ、だがそんな私服の下にカイロを貼っていること、そして自販機のコーンポタージュは案外おいしいのだということを知った。
 こうして振り返ってみるとそれは現状を特には何も変えていない気もするが、確かに土方は『近づいた』と感じたのだ。それだけで十分過ぎるほどに現状打破はできたのではないだろうか。
 土方は大きな欠伸をする。教室内は自由登校とあって生徒数はかなり少なく、半分以上の椅子が空いていた。ぱらぱらと赤本を捲るが、ここまでテストが直前となれば勉強をする気が起きない。本命の国立大学の入試まではあと一ヶ月。今こそサボると結果に繋がるとはよく言われることだが、どうしたってセンターと言う大きな試験を過ぎるとやる気がしぼんでしまったようだった。
 登校して来ていない生徒はもちろん来ている生徒でも同じ考えの者が多いのだろう。切羽詰まった様子で机に齧りついている者は少ない。
 土方がもういいか、とパタンとテキストを閉じるとちょうどタイミング良くチャイムが鳴った。自由登校とは言え、他の学年は授業があるし、チャイムで時間を区切ることによって自習の効率も上がるため三年生もその鐘に従って行動している。その音が告げたのは昼休み。昼食の時間だ。
 食堂に連れだって行く者や、その場で弁当を広げる者など様々だ。土方は後者であり、カバンを漁る。無言で弁当を食べるが、冷たいそれはどこか味気ない。いつもと味は変わらない母の手作りなのだが、冷たいと言うだけでここまで味が変わってしまう。だが他に食べるものもなく、せっかく朝早くから作ってくれた弁当を残すわけにもいかず、ゆっくりとそれを食す。箸の進みが遅いが、何とか全てを食べきることができた。土方は手を合わし、それをカバンに戻す。そしてその手で代わりに財布を取り出した。
 自販機で暖かい飲み物でも買おうとコートを掴み、教室を出る。自販機は校舎の外なのだ。廊下に出るだけで気温が一気に下がった。息が白くなる。
 何を飲もうかと、ポケットに入れた指先を擦り合わせていると背後から声をかけられた。
 なぜ廊下にいるのだろうか。銀八は白衣を纏い、寒そうに腕を組んでいた。小さく縮こまりながら土方を呼ぶ。

「どこ行くの?寒いのに」
「…ちょっと、自販機まで」

 土方はポケットから両手を出しながら答えた。冷たい空気が指先を撫でる。ふーんと銀八は頷き、土方の隣に並んだ。白衣の裾がひらりと舞う。

「行かないの?」

 動かない土方に銀八は首を傾げ、問いかける。だが土方も同じく首をひねった。銀八の意図がわからない。

「自販機」
「え、先生も行くんですか」
「え、奢ってくれねぇの」
「奢らねぇよ」
「いや、まぁそれは冗談だけど、ココア飲みたくなったから」

 だから行こうよ、と銀八は顎で正面を真っ直ぐ示す。寒いため腕組みをほどきたくないのだろう。 この寒い廊下にその白衣は視覚的にもより一層寒いものがあった。土方は自分のコートを見下ろす。厚手のこれは確実に白衣より暖かいだろう。
 土方は出しっぱなしの指で白色を指差す。

「その格好、寒くないんですか」
「ンなには寒くねぇよ?背中にカイロ貼ってるし」

 そう言えば初詣でもこの男はカイロを貼っていたなと思い出す。土方は貼るカイロどころか、普通のカイロすら持ち歩いていない。どうも男でカイロを持つと言うのはかっこ悪い気がするのだ。

「それに中に分厚いセーター着てるからな」

 銀八はポンと胸を叩き、威張るように少し反り返った。言われてみれば白衣はいつもより動きにくそうである。腕周りが特に、と土方は視線を外した。

「…ああ、太ったのかと思ってました」
「ひっでぇー」

 太ってないからココア飲むんだよ、と銀八は腕組みを解き土方の頭を小突く。たいして痛みを伴わないそれはただの教師と生徒のコミュニケーションなのだろう。
 土方は思わず歩く速度を速めた。

「何、飲むの?」
「…ホットコーヒー」
「また苦いやつか」
「苦いのがいいんじゃないですか」

 階段を下り、外に近づくにつれ寒さが増す。風が吹き上げてきているようだ。コートなど歯が立たず、冷たさが土方を襲う。う、とあまりの寒さに驚き、悲鳴めいた声が漏れた。

「カイロ貼らないから寒いんだよ、土方は」
「貼るカイロとかじじ臭いから嫌です」
「ひでぇ、じじ臭くなんかねぇよ」

 よっ、とかけ声を出しながら階段の最後二段を飛び降りる姿はじじ臭いと言うより子どもか、と土方は小さく笑った。そんな土方に銀八は不満そうに口を尖らせるがそれすらも子どもらしい。

「先生は大人じゃないんじゃないですか」

 自販機はもう目の前の扉を開ければすぐだ。戸の向こうはさらに寒いのだろう。

「いや、俺は大人だって」
「高校生ももう大人です」

 土方は外に通じる扉を開けた。冷たい風が二人に狙いをつけたかのように鋭く襲いかかる。自販機までなら下足に履き替えるまでもない。上履きのまま足を踏み出す。コンクリートから冷たさが伝わってくる。
 やはり寒いためだろう生徒はほとんどいない。隣の銀八はやはり強がっているだけで寒そうに腕を擦り合わせながら、自販機の前に立つ。どのコーヒーにしようか、と土方はコートの中から財布を出した。

「ホットカルピス…」

 財布も出さずに銀八はぼそりと呟いた。土方は告げられた商品を指差しながら聞き返す。

「え?カルピス?」
「いや、それは冷たいのだろ、温かいカルピスって自販機にねぇなっと思って」

 確かに銀八の求めているホットカルピスはこの自販機にはない。どころか土方はそんなカルピスを自販機で見たことがなかった。

「…温かいカルピスっておいしいんですか?」

 人気がないから置いてないのではないかと土方は指摘する。銀八ほど甘味飲料を好んでいる者は見たことがない。

「うまいよ、冷たいのよりももっと甘くて」
「あれより甘いのかよ」
「準備室でたまにカルピスの原液持ち込んでやるんだけども、冷たいのより甘いね」

 初詣の約束をしたきり準備室には入っていないが、あの部屋には水道が設備されていた。見たことはないがポットを持ち込むこともあるだろう。ポットを置く時期になってからあの部屋では過ごしていない。あそこで勉強をしたり、話したりしていたのはまだクーラーがついていた頃だ。

「いつか飲ませてやるよ」

 それはどういう意味なのか。準備室に遊びに行ってもいいのか、と再度問う勇気は土方にはなかった。

「…学校の自販機に入れてもらうように頼む権限はあるんですか?」

 放課後に空調を入れるのは無理でしたよね、と土方は笑う。銀八は目を見開いてから頷く。ひょっとして銀八はそこまで具体的には考えてはいなかったのかもしれない。ただ思いつきで、中身もなく喋っただけかもしれない。土方は少し気持ちが先走り、思考が飛躍したことを恥じた。

「…それくらいあるよ、大人だからな」

 銀八は土方の目を見て、答えた。土方はその目に耐えられず、財布から小銭を取り出す。百円を投入口に入れる。学校の自販機は少し安い。チャリンと硬貨を飲み込む音がし、ボタンが点灯する。一瞬、視線を上段の冷たいカルピスにやるが脳内で却下を下し、指をホットコーヒーへと伸ばす。
 が、推す前にボタンの明かりが消えた。

「えい」

 そんなかけ声と共に、ガコンと何かが取り口に落ちる。確実に土方が狙っていたコーヒーではない。そしてこんなことができる位置にいるのは一人しかいない。

「やっぱ子どもじゃねぇかァ!俺の百円に何しやがる!」
「そ、そう怒るな、ポタージュのが暖まるって」

 銀八は慌ててしゃがみ込み、缶を取り出す。それは黄色いデザインのコーンポタージュであった。確かに受け取ったそれは温かく、初詣の記憶が蘇る。
 『合格できますように』
 と銀八はそれを奢ってくれた。高価なものではないし、好きなものではないが嬉しかった。土方は思い出し、くすりと笑う。
 銀八は反論しない土方に首を傾げながら、白衣のポケットを漁り、小銭を投入した。同じようにチャリンと音が鳴る。その音に土方は我に帰った。仕返しをするなら今だ、と油断しきっている銀八の目に身を乗り出し勝手にボタンを押す。

「ッ俺のココアになにしやがる!?」
「仕返しです、コーヒーのがうまいですよ」
「苦いだけだろ」
「苦いのがいいんですよ」

 選んだものが無糖ではなく、微糖を選んだのは無意識だろうか。気付けばそれを押していた。
 少しでも自分の好きなものを飲んでほしいと思った。




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