アスファルトの割れ目に銀杏の葉が落ちている。黄変した葉は踏まれてさらに変色し、黒ずんで腐っていた。見上げても銀杏並木は丸裸なのはわかっていたから、下を向いたまま黙々と足を進めた。
 終業式のために午前中だけ行った学校からの帰り道、兼、休暇中にも拘わらず休みなく通うことになる予備校への行き道は、冬の風にさらされてびうびうと冷たい。
 予備校の講義が始まるまでにはまだたっぷり二時間ほどは時間がある。
 本来なら一旦家に帰り昼食をとってから予備校へ行くつもりだったが、講義の前に人と会う約束ができた土方は予備校へ向かっている。
 それは間違いなく楽しい部類の約束だったし、事実約束をした昨日の夜、気分は浮き立っていた。
 今だって楽しみなのは本当だ。
 それを覆い隠すほどの憂鬱が巣くっているだけのことで。

(ユーウツ、って、どんな漢字書くんだっけ)

 うっすらまぶたを閉じて脳内で漢字の書き取りをしようとすると、チョークを持つ骨張った指が思い出された。
 ユウウツの漢字が書けるかはあやしい、その国語教師の指。
 今の土方にとってはユウウツそのものの国語教師。

(もう二ヶ月)

 マラソン大会の日も、結局準備室には入らなかった。入れなかった。
 話せない日を指折り数えるような下らない真似はしたくないのに、律儀な脳みそは無意識のうちにもカウントを続けている。
 自分の愚かさが日に日に増しているようで気分が滅入る。

(……ぜんぶ、ひとりで舞い上がってた、だけ)

 足を一歩踏み出すと、かわいた落ち葉が靴の下で潰れた。その不快な感覚に眉をひそめて歩く。どうしたってこの並木道で、落ち葉を避けて歩くことなんてできやしない。


 ***

 ガラス張りの自動ドアをくぐって予備校のエントランスに入ると、ちらほらと人影が見える。
 その中の一人、備え付けのイスに座って文庫本に目を落とした男を見付けると、土方は足早に駆け寄った。

「悪い、近藤さん。待たせたか」

 正面に立って言うと、男の上げた視線がまっすぐ土方を見た。なつかしい笑顔が顔中に広がっている。

「ぜーんぜん。いやあ久しぶりだなあトシ。また背伸びたんじゃないか?」
「そんな親戚のおっさんみたいなこと言うなよ」

 男が立ち上がりながら笑って土方の肩を叩いた。背が伸びた、などと言った当人のほうがまだずっと土方より背が高い。
 近藤は土方の一学年上の先輩で、今は大学の一回生だ。
 高校に入学する前から近藤と親しくしていた土方は、今に至るまでずっと良くして貰っている。
 その近藤が土方の通う予備校でこの冬からアルバイトを始めると聞き、初日の今日会う約束をしたのだ。

「トシの授業は何時から?」
「午後最初のコマから」
「じゃあまだ時間あるな。どっか飯でも食いいくか」
「うん」

 連れられるままにまた外に出るが、身を切る寒さに予備校の入ったビルのすぐ隣の店で食事はすませることになった。
 注文も揃い、改めて向かい合って座ると、自分だけが学生服を着ているのに違和感を感じる。
 もうこの人は卒業した人なんだな、というのを、今更ながらに実感した。
 在学中は同じ学年の沖田や山崎も超えて強い繋がりを感じていた相手だったのに、三年に進学してからは近藤のことを考える時間はほとんど無いに等しかった。
 それは他の誰かに思考を占拠されていたからかも、しれない。
 無意識にため息を吐くと、正面の近藤も顔を曇らせた。

「体調でも悪いのか?」
「あ、いや、ちがうんだちょっと、」
「悩み事か」
「ああ、うん…」

 言葉を濁すと近藤はそれに深刻な面持ちでうなづいた。

「そうだよなあ、受験も間近に控えてるし、それでなくたって高校生は色々悩みがつきねえもんだもんなあ」

 自分のことのように真剣な表情で言う近藤に、はぐらかすように土方は訊く。

「近藤さんこそ、どうなんだよ。大学入って」
「オレか?オレは楽しいぞ!お妙さんの私服が毎日見られることがこんなに素晴らしいことだとは思ってもみなかったな」
「…ああ、そういえば大学までついてったんだよな…」
「いやいや第一志望がたまたま運命的に一緒だっただけでだな」

 運命を自らもぎ取りに行った彼の姿勢は、一種尊敬に値する。
 生傷の絶えない恋は高校時代の箱庭生活で終わりを告げるのだろうと、誰もが薄々そう思っていた。けれど近藤の純愛は、幸か不幸か大学に入学してからも弛まず続いている。

「……高校三年間ずっと殴られつづけたのに、それでも志村の姉を追っかけるのって何でなんだ?女なんて他にもいくらだっているのに」
「うーん…そうだなあ。オレは今まで会った大体の人のことをみんな好きなんだけど、そのいくらでもいる好きな人たちのなかで、お妙さんが特別だったんだろうなあ」

 さして悩みもせずに言う近藤に、土方は眉を寄せた難しい顔をしてコーヒーを一口すすった。

「特別って、何だ?好きって、よくわかんねえよ」
「好きの定義なんて人それぞれだろうからな。ただオレは、お妙さんには誰より幸せになってほしくて、今の所オレ以上にお妙さんを幸せにできるヤツを知らないから追い続けてるんだな!」
「もし自分と一緒にいることで、相手が不幸になってたらどうするんだよ」
「幸か不幸かなんて、大概は心持ち次第だろ?だから、もしお妙さんがちょっと不幸だと思ってるんだったらそれを幸せだと感じるくらいには彼女に変わってもらいたいな」
「横暴だな。横暴だし、矛盾してる」
「横暴になるくらいにはお妙さんのことが好きだからな」

 胸を張って言う近藤は、本来ならただのストーカーなのだけれどなぜだかとてもきらきらと眩しい。大学に入っても変わらない。高校を出ても変わらない。
 そんな確固たる意思が自分にあるのかどうかはあやしい。

「トシもな、ちょっとくらい横暴になったって矛盾があったっていいと思うぞ」
「なんでオレ」
「こんな話するってことは、好きな人ができたんだろ?なあ、他人の気持ちなんてどうせわかりっこないんだから、変に気をまわしてたってしょうがないぞ」

 そういう話題にはうんざりするほど疎いはずの近藤に、胸の内を透かされたようで心臓が跳ねる。
 彼は近藤の言うように、好きな人、なのだろうか。

「……オレは、今まで会った大体の人のことが嫌いだよ」
「そんなトシに好かれたヤツは幸せ者だな」

 悪意なく笑う近藤に今まで何度も救われている。今度も、やはりそのようだった。

「オレ、変なんだ。これは、多分ただの憧れで、好きなのかどうかなんてわかんねーし、好きになって、いいのかわからない。好きになったらいけない人なんだ」

 吐き出すように言うと、近藤が黙ってひとつうなづく。

「……でも、やっぱり、話せないのは嫌だし、こんなふうにうじうじ悩んでるのが一番嫌なんだ」

 そこまで言って、言葉を切る。土方が近藤を見ると、彼はさっきと同じように笑っている。

「トシは素直なのに、ひねくれてるところがあるからなあ」
「…ひねくれてねーし…」
「話せないのが嫌で、悩むのも嫌なんだろ?」

 近藤が訊いてくるので、そう言ったのだ、と返す。
 銀八が、何を考えているのかわからないまま悩むのはもう疲れたし、それ以上にずっと話ができていない現状が辛い。

「好きかどうかなんて、置いといていいんじゃないか?」
「置いとくって……」
「現状ダハ!」

 近藤が言うと奇妙な掛け声にしか聞こえない。現状打破。
 それでいいのだろうか。打ち破った先に、もっともっと辛いことが待ち受けていたり、しないだろうか。それに耐えられるのだろうか。
 でも現状打破、は悪くない響きだ。

「……講義が始まるまでに、学校行って、戻ってこられるかな」

 予備校の講義開始まではもう一時間を切っている。
 でも今日を逃してしまえば、きっと、もう。

「遅刻しそうになったら原付出すよ」
「ちょっと、忘れ物」
「本当にトシは、素直なのにひねくれてるんだから」

 笑ってから近藤が、土方に向かって手を振る。

「いってらっしゃい」

 外へ出ると冬の風が剥き出しの頬に冷たい。
 それでも駆け出した。
 たとえばそれで風邪をひいたとしたって、何を後悔することがあるんだろう。


 ***


 なんとなく、なんとなくだ。なんとなく、彼は教室にいるのではないだろうかと感じた。
 終業式も終わって数時間たった学校に生徒の影はなく、校舎はひっそりとしている。
 階段を駆け上がって教室の扉に手をかけると、扉の磨りガラスごしに人影が見えた。
 ガラリ、音をたててドアを開けると、出席簿に書き付けをしていた担任教師がゆっくり視線だけでこちらを見た。最初は怠惰に開けられていた目が一瞬でまるく見開かれる。

「…え、あ、どした土方。忘れ物?」
「せん、せ、い…」

 マラソン大会で鍛えたはずの持久力は、たった一ヶ月弱の間で見る影もなく衰えている。肩で息をして、額に浮いた汗をぬぐう。

「あの、オレ、クリスマスちゃんと勉強するんで」
「え、はい」
「先生に、年賀状書きたいんで住所教えてください」

 道中考えてきた殺し文句なんかは一変に吹き飛んでしまった。
 先生、オレは先生がこうやってちゃんと二人で、話をしていてくれるならそれが一番嬉しい。
 銀八はまるく開いていた目をぱちりと一度閉じて、驚いた顔のまま、土方を見つめる。

「……初詣とか、いく?」
「え、」
「合格祈願。年賀状なんて書くのめんどくせえだろ。予備校って、元日もあるの?」
「…あ、二日まで、休みですけど」
「じゃあ、いく?」

 準備室へは来るなと言ってみたりホームルームには出ろと言ってみたり、明後日にせまったクリスマスは無視してみたり初詣に誘ってみたり。
 何を考えているのだか全くわからない銀八の言葉に、それでも土方は当然のように首肯した。

「いく」
「即答」
「……いく」
「ただしおまえ、ほんとちゃんと勉強しなさいよ」
「言われなくても自分の将来のことくらい考えてます」

 言われなくても、優先順位くらいは自分で決められるくらいには、高校生だって大人なのだ。
 その大人的思考で考えた結果、今日この日は受験勉強より銀八を一時間だけ優先しようと思ったのだ。

「オレにはおまえの大学合格が何より嬉しいんだから」

 白々しく言う銀八を、土方は睨むように挑むように見る。

「なんでそんなに大人ぶるんですか」
「大人だから」

 眼鏡の奥の目が本当は何を映しているのだか、土方にはわからない。他人の考えていることなんて、本当のことはひとつだってわかりはしないのだ。

「先生、ユウウツって漢字、書けますか」
「え?ユーウツ?ユーウツね、はいはい」

 銀八の骨張った指がチョークを手にして、かりかりと刻むように黒板に字を書いていく。
 憂、を書いたあとで止まった手に、土方はすこし笑う。

(現状、ダハ)




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