まぐわう、なんて、そんな言葉は審神者になってから初めて知った。
庭で大きく鳴く鈴虫の声が心地よかったはずなのに、私の前にいる同田貫のせいでその声がなんとも卑猥なものにしか感じない。
腹だけは包帯で隠されていたが、暑かったのか筆を持つのに邪魔だったのか、いつの間にか同田貫の肩に危うく引っかかっていた上着は部屋の隅に放られていた。
書類に目を落とすフリをして少しばかり視線をずらせば、露わになっている上半身にいちいち頬が熱くなる。
気付かれないようにしていたつもりだがばればれだったようで、仕事が一通り終わると同田貫が「すげぇ見てくるなぁ」と呟いた。

「えっ。だって、そんな裸で」
「服着てんだろ」
「……えぇ、下だけでしょ。見られたくないなら服着てよ」
「別に、見られたくないってほどでもねぇけど。すげぇ見てんなぁって思っただけで」

鈴虫の声がうるさいほどに鳴り響く。
秋の風情だとかそんな呑気なことに思えない。
季節の移ろいを感じさせる全てのもの、例えば春の鶯や梅雨の蛙、夏の蝉の声は全て求愛のための必死な叫びだし、満開に咲く花々も次の子孫を作るためのものでしかない。
私が今まで目にしてきた美しいものの全ては、同田貫の言うまぐわいあってのもので、私の感動は私が想像している卑猥なものの営みの上に成り立っている。
そんなことを突然自覚してしまったら、どうにも鈴虫の声を平然とは聞けなかった。

「そりゃ見ちゃうよ、好きな人が裸でいれば」

半ばヤケクソににそう言い捨てて私は立ち上がった。
私の動きを横目で見送ると、ぼんやりとした瞳をゆっくりと自身の胸へと落とした同田貫は、やはりいつも通りの抑揚のない淡々とした声音で呟く。

「そんなもんか」
「布団しか好きになれない人には分かんないでしょうね」

うるさいとしか思えない鈴虫の声を遮断しようと障子を勢いよく閉めた。
少しは遠くに聞こえるようになった気がしたが、それでも求愛の声はしつこく部屋に響いてくる。

「布団より出陣の方が好きだしなぁ」

体を伸ばして上着を持った同田貫は、徐にそれを着込むと少しだけ嬉しそうにそう言った。
今ここで私が裸になったところで、同田貫は露ほども動揺しないのは目に見えている。
動揺しないまま、けれど私が抱いて欲しいと言えば抱いてくれるのだろう。
何の感情もないままに。
鶯や蛙や蝉や鈴虫が行う本能的なものよりなお酷い、生理的にただ、私を抱くんだ、きっと。

「私が同田貫に刀でも振り下ろせば、好きになってくれるのかな」

好きの交わるところが全くかけ離れすぎていてどうしようもない。
私の欲しいものは絶対に手に入らないと分かっているのに、誘われるがままに抱かれたくなってしまっているからひどく虚しい。
私の言葉に同田貫は少し考えて、それから大きなあくびを一つした。

「女が刀なんか振るうんじゃねぇよ」

言葉と同時にのっそりと立ち上がって伸びをした同田貫は「さてと、風呂入って寝るかな」と、小さく呟く。
立ち竦んだままの私の横をすり抜け障子を開け放つと、大合唱の鈴虫の声に紛れるように部屋を出て行った。
部屋に残されたのは整えられた書類の山と、くぐもった鈴虫の音色だけ。
同田貫の言葉の意味を考えるも女扱いされた、というそのことしか理解できない。
好きにはなってくれないのに女としては見てくれているらしい。
そのことになんとなく気分が良くなって、部屋の隅に畳んでいた布団を呑気に私は引っ張り出した。

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早々に灯りを消し、柔らかく温かい布団の中で真っ暗な天井を睨みつけながら鈴虫の音色に耳を澄ます。
まだ早い夜だったが、私も同田貫もこのくらいの時間には布団に入ると決まっていた。
暫く待っていると隣の部屋の障子が開いた音が聞こえ、後から同田貫の足音がぺたぺたと畳の上を歩く音が聞こえる。
近侍は私の隣の部屋で待機するのが当たり前だったが、そこがいつからか同田貫の部屋として認識されるようになってからもう随分経つ。
隣の部屋、といっても普通の襖が部屋を分けているだけでその気になれば簡単に部屋を行き来できた。
けれど同田貫はこの襖を開けたことはないし、私もここを開けたことはない。
お互い用事があれば、きちんと障子を開けて一度廊下に出て、律儀に一声かけてからそれぞれの部屋に入るという暗黙のルールが存在していた。

顔だけを襖に向ければ、襖の隙間から灯りが漏れてくる。
影が僅かにゆらゆらとその灯りを横切ったり暗くしたり、風呂から帰ってきたのだろう同田貫が何やら動いているのが分かった。
不意に「んん」とくぐもった声が聞こえてきたが、恐らく日課の柔軟運動でもやっているのだろう。
初めて見たときあまりにも柔らかいから驚いたものだ。

好き、と、まぐわい、とは、何が違うのだろう。
体を重ねることは勿論好きの証だが、好きでなくても体は重ねられる。
どうしたら同田貫の心が私を向くのか考えながら、私は襖の向こう側にいる同田貫へと思いを馳せた。
そうしてそのうち、いつの間にか眠ってしまった。


「触って」

私が同田貫の頬に触れると、同田貫は何も言わずに少し寂しそうな顔で私を見つめた。
これは夢だと、すぐに分かった。

「触ってよ」

眉を小さく顰めて泣き出しそうな顔で私を見つめる同田貫に、私は努めて優しくそう呟く。
いつもは無表情の同田貫が何故こんなにも寂しそうな顔をしているのか分からなかった。

「どこを触って欲しいんだ」

同田貫は絞り出すように言った。
私は嬉しくなって、同田貫のかさついた掌を私の胸に押し当てる。

「どこでも」

同田貫になら触って欲しい。
同じくらい同田貫にも触りたい。
それが下心だとしても、そうすることでしか私は同田貫への愛を形に出来ない。

私の言葉に、夢の中のはずなのに同田貫はひどくリアルに、ぐしゃりと顔を崩して歯を食いしばった。
眉は益々深く顰められ苦しそうに細めた視線は私から逸らされる。
泣き出しそうな、ともすれば苦しんでいるような辛い表情なんて見たことがなかったから、私は驚いて同田貫の頭を思わず抱きしめた。
柔らかな髪の毛が鼻に当たってくすぐったい。
初めての暖かさに尚きつく抱きしめてやると、同田貫は両手で自身の顔を覆い隠して、苦しそうに呟いた。

「俺は刀で、あんたを抱き締められる訳がねぇんだ」

夢、の筈だ。
耳に響いた声は体の奥にじんわりと染み込み、抱き締めた体は硬く、暖かい。
ふわりと香る優しい匂いが心地良くて、私は大きな呼吸とともに意識を手放した。

今意識を手放すなんて、それなら今までのことは夢ではなかったのか。

疑問はうつらうつらと頭の中に消え、朝起きた時にはもう、何に違和感を覚えているのかまったく持って思い出せなかった。

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「起きたか」

目を覚まして部屋へと柔らかな日差しを入れる飾り障子をぼんやりと眺める。
何か昨日、変な夢を見たような。
そんな思考も束の間、障子の前に現れた同田貫の影に、私ははっとして寝ぼけた声を上げた。

「起きて、た、よ」
「入るぞ」

嫌に熱い頭がひどく重くて、上半身を起こしただけなのにぐらぐらと覚束ない感覚にやっと私は気付いた。
障子を開けてのっそりと入ってきた同田貫は戦装束でも内番姿でもない、黒の着物をラフに着ていて、ぼんやりする私を少し驚いたように見下ろした。

「まだ熱ありそうだなぁ」
「え?」

突拍子もない言葉に首を傾げるも、枕の横に水の入った桶と嫌に綺麗な布巾がいくつか絞った状態で置かれているのにやっと気付く。
視線を下へ向けると、恐らく額から落ちたのだろう熱くなった布巾が、私の腹の辺りにぽつんとあった。

「……あれ?」
「熱出してうなされてたの、覚えてねぇのか」

同田貫は徐に私の傍に近付き、腹の上の布巾を取ると桶の中に放り投げた。
大きな掌が私の額に躊躇なく当てられる。
気持ちの良い筈なのにその感覚すらふわふわと現実味がなかった。

「……覚えてない」
「寝とけ。粥、持ってくる」

とん、と私の鎖骨の辺りを軽く押した同田貫は、そんな簡単な力に抗えもせず再び布団に寝た私にため息を溢した。
背中から優しく受け止めてくれた布団に感謝しつつ、気持ちの悪い感覚が今更現実味を帯びてきて、熱いのか寒いのかもよく分からない。

「風邪引いたの?」
「知らねぇよ。俺が聞きたい」
「うそ……、うー、なんかふわふわする」
「そりゃ、夜中に二度も吐いてるし熱も大分高いしな」
「えぇ、覚えてない」
「何にも覚えてねぇのか」
「……うん。あ、だからその、黒い着物?」
「あんたに二度も吐かれて服がねぇんだよ」
「……ごめん」

呟いた言葉に同田貫は面倒臭そうにため息を溢すと、ゆっくりと立ち上がる。
小さな風が巻き上がり、僅かに懐かしい匂いが私の記憶に小さく触れた。

「……あれ、夜中も介抱してくれたの?」
「あんだけでかい声で騒がれたらな」
「……わ、私、何か言った?」

同田貫は無表情のまま私を暫く見下ろして、それから少し口を開けると「あー…………」と、間抜けな声を歯切れ悪く伸ばした。

「覚えてないなら、その方がいいんじゃねぇの」

いつも通り淡々とそう言った同田貫は、けれど僅かに目を細めて、少しだけ拗ねているようにも見えた。


熱に消えた夢




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