荒れ果てていると思っていた本丸は今まで見たどんなものよりも壮大で、美しかった。
険しかったのはほんの三十分ほど歩いたところで突然終わり、それからは私を迎え入れるように咲き誇る花々、囁き合う鳥達、優雅に舞う蝶、悠々と池を泳ぐ立派な鯉が私の目を次から次へと楽しませる。
感嘆の声を誰に聞かせるともなく呟きながら、散歩のようにのんびりと誰もいない廊下を進んだ。
母屋の端から伸びる少し狭い廊下を進むと、徐々に静かで物悲しい雰囲気へと変わっていく。
軋む床をゆっくりと踏みしめながら開け放たれた四畳半の部屋の前を通り過ぎ、とうとうこの本丸の最奥の部屋の前へと辿り着いた。
恐らく前任の審神者の部屋であったのだろう。
ここだけ柱の装飾から美しく施され、整然と整えられた部屋には不思議なことに爽やかなお香の残り香と、部屋の奥には白い布地に白い糸でなんとも細かく刺繍をされた美しい羽織が飾られていた。
鳥の声が遠くから聞こえてくるような、寂しい場所。
圧倒されたままぼんやりとそれを眺め立ちすくむ、と、突然、背後でがたりと大きな音が鳴った。
「主!」
私が入れるだけ小さく開けた障子を、その時同田貫は泣き出してしまいそうな複雑な笑顔で思い切り開け放ち、そう叫んだ。
「……えっ、あ、え?刀?」
「……主じゃ、ねぇ……、のか。……あんた、なんだよ?」
泣き出してしまいそうな笑顔。
私と目が合い豹変した憎々しい顔。
真っ黒な風貌と金の瞳と、痛々しい傷痕に低い声。
美し過ぎる本丸に似合わない同田貫は、私の言葉も聞かず瞬時に刀を抜いて私に構えた。
笑った顔、可愛かったのに。
泣き出しそうな顔に、ほんの刹那、母性のような柔らかな感情が沸いたのに。
この本丸に相反する同田貫を、名前も知らなかった貴方を、その時かっこいいと思ってしまったのに。
不意に鼻先に何かが触れた。
むず痒くて払おうと手を伸ばすと固い何かにぶつかる。
それを無意識に掴まえ、瞼を開けた。
眠っていたらしい、突然視界に飛び込んできたのは驚いた顔をした同田貫だった。
「……あ、れ?」
畳に右頬をつけ寝転がる私に、同田貫も同じように向き合って横になっている。
頭の上にも何かが触れて、視線を上げれば同田貫の腕がそこにあった。
「いや、あんたがここに寝たんだからな」
同田貫が抑揚もなくゆっくりと言った。
目の前には同田貫の顔と、胸板。
ちらりと視線を下ろすと触れあいそうなところに互いの腰と足が伸びている。
「うそ」
瞬時に頭が覚醒した。
ちょっとのつもりで同田貫の胸元へと顔を寄せ目を瞑ってしまったところから記憶がない。
思いがけず近い距離に今更心臓が飛び出しそうなほど大きく動いて、途端に熱くなった頭から煙が出そうだ。
「ご、ごめん」
「いや、いーけどよ」
「私寝ちゃって……」
「そんな寝てもねぇよ。ほんの数刻だな」
目の前に同田貫の顔がある。
金の瞳が細められたまま、じ、と私を見つめている。
起き上がろうと思えばできるのにどうしてだか体は動かず、私は同田貫の顔を見つめ返した。
「なんか、悲しい夢でも見たか」
右手に掴まえたままの何かが動いた。
真摯に見つめてくる金の瞳から目を放せない。
なんのこと、言おうとしたらぽたり、と畳に何かが落ちる。
それが自分の涙だと理解するのに少し、時間がかかった。
「手、放してくれねぇと、あんたの涙も拭いてやれねぇんだが」
あの日見た、泣き出しそうな笑顔には程遠い。
無表情なのに、私を見つめる瞳は優しく細められている。
刀剣達と喋る時には私と喋るときよりも饒舌で荒い言葉遣いもよく聞こえた。
私といる時だけこんなにも静かで穏やかに言葉を紡ぐ。
こんなにも優しい瞳で見てくれる。
右手に掴まえていた固い何かからゆっくりと力を抜いた。
冷たくかさついたそれは同田貫の右手で、私の目からは涙が溢れている。
「……ここに、初めて来た時の夢、だった」
ひどく緩慢な動きで同田貫が私の鼻先にそっと触れた。
太い指が器用に鼻先に乗る涙を拭き取る。
「泣くほど嫌な思い出にさせちまったな」
近付いた大好きな匂いに絆される。
もっと触れてほしい、もっと近付きたい、私からも触れてしまいたい。
「初対面で刀突きつけられたらね」
「あー、悪かったよ。まさか人間にまた会えると思ってなかったんだもんよ」
「ううん。……多分あの日からもうね、片思いで、悔しかっただけ」
同田貫が私の髪を掠める手を不自然に止めた。
ぼんやりと私を見つめる瞳がゆるく、揺れる。
畳をざり、と擦り付ける音が聞こえて、同田貫の右足が私の足に遠慮がちに触れてきた。
私がもう少し足を伸ばせば、絡まってしまいそうなほどの距離に。
「俺は、あんたを守りたい」
考える力が溶けていく。
無意識に伸ばした左手が同田貫の腰に触れた。
服の上からでも分かる力強い骨をなぞるも、同田貫は振り払いもしない。
「守れるなら別に、あんたが誰と恋しようが、誰と幸せになろうが、手放しで喜べるんだ」
徐々に顔を近づけてしまっているのが自分でも分かった。
けれどもう止められない。
私と同田貫の間には、何もない。
「それなら今、喜んで」
一瞬、同田貫が眉間にしわを寄せて、ふ、と小さく息を吐く。
それは私と口付けを交わすことへの躊躇いだったのか、触れた唇は驚くほどに消極的でたどたどしく、それでいてとても優しい、静かなものだった。
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