*同田貫視点。




「人間は、悲しいときと嬉しいときに泣くものだ」

主が俺に教えてくれた。

「あと子どもはよく泣く。お前は分からないかもしれないが、もし泣いている人がいれば優しくしてやれ」

こいつを見ていると本当によく分かる、主がどれだけ力を持った審神者だったのか。
人間として、どれだけ完成されていたのか。
俺には勿体無いくらいの人であったと。

「いつかお前が誰かに恋でもして、その人が泣いていたら尚更、優しくしてあげたらいい」

主がいて、皆がいる。
何処に行っても煩わしいくらいに誰かがいて、一人の時間なんかほとんどなかった。
寂しい、と初めて知ったあの日、この本丸がどれだけ広いかを俺は知った。
あいつらと騒ぐのを俺がどれだけ楽しんでいたか、あの日初めて知った。
主を、俺がどれだけ大切に思っていたか。
そんなことまで、あの日初めて知ったんだ。


隣で真面目に筆を走らせるこの女の横顔を盗み見た。
何の変哲もない、町中に紛れ込まれたら見失いそうなほどの平々凡々な顔立ちをじっとりと眺める。
俺の視線に気付いたこの女が、なに、という顔で小首を傾げた。

「終わったぞ」
「え、早い。私まだ」
「手伝うか」
「ううん。すぐ終わらせる」

そういえば探してやると言った花瓶をまだ探せていない。
主が竜胆を飾っていた濃い青の花瓶を、確か冬になって蔵にしまったのは俺だった。

「終わったら、朝言っていた竜胆、探しにいくか」

まだ机に向かったままのこの女を差し置いて、俺はそのまま後ろへと寝転がる。
畳の匂いが心地いい。
俺の部屋にこの女が入ったのは部屋を追い出されてから一ヶ月にして初めてのことだった。
いつもの畳の匂いと朝焚いた香の匂い、それから少しの甘い匂いが空気に混ざる。
ぼんやりと天井を眺めていたが、この女が振り撒くなんとも眠くなる甘い柔らかな匂いはなぜかいつも落ち着かなかった。

「竜胆も、前の審神者が好きだったの?」
「どうだろうな。あの人は、花ならなんでも好きだった気がするなぁ」
「ふぅん」

少し拗ねた風に聞こえたこの女の声を俺は無意識に聞き流す。
俺はこいつを守りたいだけで、けれど避けられる上に他のやつらから毎日嫌味を言われ続けると心というものが萎縮してしまうらしい。
少しこいつと距離を置こうと、あいつらのことも信じてみようと決心した矢先、先程の出来事が起こったものだから割と胸中は穏やかではない。

主は俺にたくさんのことを教えてくれた。
知っている気になっていた人間の機微を沢山教わった。
人間とは泣くものだから優しくしろ。
人間とは恋をするものだから好きな女ができたら優しくしろ。
好きな女とは、触れたくなり守りたくなり抱き締めたくなる、その人といると心がざわつくのにどうしてだか穏やかにもなる、そんな相手だと。

突然俺を抱き締めたこの女は、つまり俺のことを男として見ていると思って間違いないのか。
動揺していて咄嗟に反応できなかったが、俺を避ける理由は片思いで悔しい、と、その理由で正しいのか。
だとしたら、片思いだとしたら、片思いではないと伝えていいのか。
そう告げたら俺とこの女はどうなるのか。
考えれば考えるほどよく分からなくなって、俺は内心冷や汗をかきながら黙って天井を睨み付ける。

「前の審神者のこと、まだ、好き?」

少しの間を置いてから、この女が突然ぽつりと呟いた。

本当に驚くことばかりだ、飛び出しそうになった心臓が痛い。
心がざわついて仕方がない。
思いがけない言葉に体がぎしりと固まった。

「……まだ、好きだよね。私のこと主って呼んでくれないし、一緒に寝てもどうも思わないんだもんね。……それは私のこと、単に女と見れないだけかもしれないけど」

主は俺にたくさんのことを教えてくれた。
俺が人間として生き続けられるように。
大広間で酒を酌み交わす時が一番饒舌に話してくれた。
五人程度の少数で、真面目に語り合うこともあった。
風呂場でふざけあいながら騒ぐのは本当に楽しかった。

「……は?」
「私、努力するから、その、少しでも私を好きになってくれたら……、少しでも私を女として見てくれたら、すぐに教えて。ね」

風呂場で色々な話を聞くのが好きだった。
主は色んな話をしてくれたし色んなことを教えてくれた。
皆が主を好きで主も俺たちを大切にしてくれた。

主は俺より背が高かった。
広い背中と肩幅に似合わずあばらが浮き出ていたから、俺や山伏の体をよく風呂場で羨ましがった。
よく笑い、穏やかにゆっくりと話す優しい人だった。
俺が守れなかった、憧れの人間。
憧れの、男。

「ちょ、……っと、待て」
「あ、それから私のこと主って呼びたくないならせめて名前で呼んでよ」
「いや、ちょっと待て。あんた、前の主に俺が恋慕を抱いてると思ってんのか?」
「だからあんたじゃなくて。私の名前はアカネだから」
「おい真名簡単に晒すな。つうかそれはどうでもいいんだ、あのな、あんたすげぇ誤解してるけど、」
「待ってよまたあんたって言った。あんたって言わないでアカネって、」
「俺は男色には興味がねぇんだよ!」

上半身を勢いよく起こしてこの女、今の主であるアカネに叫ぶ。
三ヶ月前、初めて出会ったときからなんとなく話の噛み合わない女だなと思ったんだ。
女とは、男よりも小さくか細く非力でそれからいい匂いがすると知ったのは、女を間近で初めて見たあの日だった。

「……え?」
「主は男で、好きは好きだが親しみこそあれ恋心ではない」
「……え、どういうこと?」

顕現してから人間と暮らしていたんだ。
守るために一緒に眠るといったのは俺の方で、けれど寝衣に着替えて髪を下ろしたこの女の首筋とか胸元とかふとももとか、見えそうになるたびに良からぬ衝動が突き上げてくる。
間仕切りを用意したのにいらないと言われて、正直初めの数日は眠った心地が全くしなかった。
何日かしてこの女も見られたくない用意でもあるのか間仕切りをしてくれと言ってきたから本当に助かったと思った。
そばにいなければ守れない。
けれどそばにいると触れそうになる。
押し殺した欲求に守らなければと言う使命感の方がまだ勝っていたから、間仕切りさえあれば俺は冷静でいられた。

「前の主は男だ」

例え嫌われていても、この女がいつか他の誰かと結ばれたとしても、守ることができるならなんでも良かった。
俺の気持ちなんて、どうでもよかった。

「俺は初めから、あんたのこと女としか見てねぇよ」

中途半端に筆を宙で止めたこの女は、目を丸く見開いた真顔のまま、「うそだぁ」と小さく呟いた。





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