目が醒めた時には既に二度寝をしてから数時間も経っていた。
日の高さから昼を大幅にすぎていることを悟る。
障子のすぐ前に置かれているおにぎりは海苔がしなびているが、空いた腹がぐぅ、と間抜けに反応した。

また勝手に部屋に入り世話を焼いていったらしい。
何もかけずに寝たはずなのに腹には薄い布団がかけられ、枕元にはきちんと畳まれた私の着物がそこにある。
勝手に仕事を放棄して二度寝をしたのに。
その優しさにむず痒くなり、私は緩みそうになる顔を敢えて険しく作り込んだ。
握り飯は梅と鮭で、着替えを後回しにした私は障子の前に膝をつき、至極ゆっくりとそれを口に運ぶ。

静かに障子を開けて廊下に出る。
開け放たれたままの同田貫の部屋をちらりと覗くも、その姿は見当たらない。
身構えていた分思わず拍子抜けして、普段は殆ど避けるように通る同田貫の部屋の中に半歩、足を踏み入れる。
爽やかなお香の匂いが微かに残っていたが、机の上の分厚い書類は相も変わらず質素な石に押さえ込まれたまま、襖の前にかけられた戦装束以外何もなかった。

「……同田貫?」

寂しい部屋の中に小声で呼び掛ける。
反応はない。

「いないの」

初めてのことだった。
誰もいない部屋がただ冷たく私の動向を見守っている。
声が部屋の隅々に吸い込まれて消えていく。
私は返事を期待してぼんやりと美しい畳を見つめた。

変になりそうだ。
いや、もう既に変になっているのか。
よく分からない感情とよく分からない苛立ちとよく分からない文句が次から次へと沸き上がる。

同田貫のいない部屋を後にし、私は長い廊下へと向き直った。
柔らかい風に金木犀の香りが漂っている。
いい匂い、と思うのに、何故か熱くなった目頭にぎゅ、と力を込めた。
両側に見える景色はいつも通り美しく、いつも通り静かだ。
母屋へと辿り着くと、一際広くなった廊下に誰かの話し声が近付いてくる。

「それも土産か?」
「喜ぶだろう」
「さぁなぁ、分かんねぇ」
「あんなに一緒にいるくせに分からんのか」
「一緒にいてもよく分かんねぇよ。女は弱ぇ癖に、我が儘で、扱いづれぇ」
「知ったような口をきくなぁ」
「まぁ、お前よりは知ってるさ」

廊下の曲がり角から聞こえてくるその声が同田貫のものだとすぐに分かった。
途端にどくりと強く脈が波打って、突然熱く燃え上がるように私の身体が反応する。
反射的に隠れようとするもなんの躊躇もなく曲がり角から現れた同田貫と、はた、と目が合ってしまった。

「……う、」
「……っ、あんた、」
「おぉ、主!長曽祢部隊、先程帰還したぞ」

同田貫の後ろから続けざまに現れたのは長曽祢で、昨日の遠征から今やっと帰ってきたらしい。
細すぎる柱に隠れる私を同田貫が呆れたように見つめて、遮られた言葉をため息に混じらせた。
そんなことはお構い無しに長曽祢は同田貫を押しやり、私の前へと歩み寄る。

「お、おかえりなさい」
「うん。どうした、疲れているか」
「朝から今まで五時間も寝てんだから元気だろ」
「言わないでよ!」
「夜遊びでもしてたか?まぁいい、土産だ」

長曽祢が握りしめた右こぶしを私に突き出した。
咄嗟に両手をその下に広げると、大きな黒い石が乗せられる。
私の両手でちょうど持てる程の大きい石は、長曽祢にかかれば片手だけで足りるらしい。
同田貫の手も大きいとは思っていたのに上には上がいるものだ。

「桜?」
「文鎮らしいな。誉の証だから縁起がいいだろう」

黒い石には見事な桜の絵が金で描かれている。
どこかで拾ってきたのだろうか、尋ねようとしたら長曽祢が大きく伸びをして元来た廊下へと踵を返した。

「報告はもう同田貫にしたからな、俺は休ませてもらうぞ」
「あぁ。お疲れさん」
「あ、ありがとうね、これ」

ひらひらと手を振りながら曲がり角の先へと消えた長曽祢を見送ると、同田貫が不意にこちらに振り返った。

「握り飯の皿は」
「え、あ、部屋だ。ごめんなさい」
「それ、あんた嬉しいのか」

探していたわけではないはずなのに目の前にいる同田貫に私はとんでもなく安心してしまっている。
どこにいたのかとかいつからあの部屋にいなかったのかとか、聞きたいことは山ほどあったが口から上手く出てこない。
遠征部隊を迎えに行っていたのなら私も起こしてほしかった。
そんな文句が頭に浮かぶと同時に、私の鼓動は不自然に早くなっていく。

同田貫が視線だけを私の手元に落として呟いた。
それ、とはこの黒い石のことだろうか。

「え?うーん、どうだろ」

胸の高鳴りを誤魔化しながら私は平静を取り繕って応えた。
ずっしりと重たい文鎮を確かに綺麗だとは思うが貰ったからといって涙するほど嬉しいわけではない。
勿論お土産をくれた行為そのものはとんでもなく嬉しい、けれど、それだけに留まる。

私が首を傾げて立派な石を改めて眺めると、同田貫が突然大袈裟に吹き出した。
唾までこちらに飛んできそうなほど豪快に。
初めて見る、思い切り瞳を細めた楽しそうな笑顔で。

「えっ、何でそんな、笑うとこ?」
「ははっ、いや、悪い。あんたすぐ顔に出るなぁと思って」

ひとしきり笑った同田貫は穏やかに瞳を細めて私の横をすり抜ける。
向かう先は私の部屋へと続く長廊下で、きっと握り飯の皿でも取りに行くかもしれないし、自室で仕事をするのかもしれない。
私の足も条件反射的に同田貫の後ろへと向きを変えた。
一緒に皿を取ってきて、一緒に仕事を片付けて、そうだ、同田貫の部屋の書類に置かれるあの、質素な重し代わりの石をこの文鎮に替えてあげよう。
ぎしりと床が僅かに軋んだ。

同時に同田貫は立ち止まり、振り向きもせず低い声で穏やかに言った。

「あんた、母屋に用事があるんじゃねぇの」

この本丸へ来てから三ヶ月。
私のそばを片時も同田貫は離れなかった。

「え、」
「母屋に用事があるからこっち来たんじゃねぇのか。皿なら俺が後で片付けておくから、あんたは好きに、行ったらどうだ」

突き放すような言葉に、同田貫の後ろに続こうとしていた足が不自然に止まった。
あれ、何で今私はこんなにも悲しくなっているのだろう、今まで散々同田貫から離れたがっていたくせに。

「……え、同田貫は?」

食事は勿論風呂場にも厠にもついてくる。
近侍はそうなのかと反論もしなかったのは一ヶ月前までで、その異常性に気付かされてからは同田貫が思い出す、前の審神者が突然ちらついて無性に苛ついた。
まだ小さな子どものように、駄々をこねる赤子のように、理由も分からないのに嫌で嫌で仕方なかった。
前の審神者がいるから同田貫は私に優しくしてくれる。
きっと同田貫が優しくしたかった相手は私ではない。
それに気付いてしまってから、私を見るたび眉間にしわを寄せる同田貫に守ってもらうのが嫌になった。

同田貫は一呼吸置いてから、いつもの口調で平然と応える。

「俺は部屋で仕事、片付ける」
「……私は?そばにいなくていいの?離れていいの?」
「離れたくねぇけどさぁ。あんたは俺を嫌いだろ。長曽祢の部隊が大分強くなったから、晩飯まであいつらがお前のそばにいるってよ」
「……な、何それ。勝手、じゃない?今まで散々付け回してた癖に」
「人聞き悪ぃなぁ。あんたがそう思ってたんならまぁ、仕方ねぇか」
「だって、前の審神者は?だから私を守るんでしょ、違うの?」
「守るさ。でも、流石にやりすぎじゃねぇかって。もう他のやつらも大分強くなってきてるし、なんかな、そんなことを、」

手の中の黒い石が少し、重い。
お土産を貰ったことは嬉しい。
真っ黒な石に描かれた金の桜が同田貫に似合うと思った。
文鎮などとりわけ欲しいわけでもなかったけれど、この石に同田貫を重ねてしまうほど、私は同田貫のことばかり考えてしまっている。

「……そんなことを色々とな、色んなやつに言われて。長曽祢にまでなぁ。あいつ遠征帰りの癖に今までずっとあいつの説教だ。俺の方がまだ強ぇのによ」

広い背中が私に突きつけられる。
今までの気持ちの悪い苛立ちが胸の奥をぐっと押し込み苦しくなった。

「だから、当分近侍はまだ俺のままだろうが、」

この石、十両はあるだろうか。
片手で持てるだろうか。
力強く握り締めて、投げられるだろうか。
同田貫にぶつけても大丈夫だろうか大丈夫だろうな大丈夫でなくても私の腕はもう、大きく振りかぶっている。

十両の石が空を割る音が響いた。
久々に物を投げたせいで手首がしびれているけれど。
同田貫の後頭部めがけて投げた黒い石は、何かを察知したのだろう人間にはない反応速度でそれを避けた傷だらけの左頬を微かに掠め、後ろの柱へと鈍い音を出してぶつかると力無く床に転がった。

同田貫が振り向いたまま、ぽかんと口を開けて私を見つめる。

「……っ、おい、流石の俺でもこの距離であれに当たったら痛ぇだろうが」

安心していたんだ。
見渡す山全てが本丸の敷地だと聞いた。
仰々しい門扉をくぐれば現世とは異なる雰囲気に圧倒される。
審神者として成功する他、私に残された道はない。
敵に襲われるのは勿論、顕現した刀剣に殺される審神者も多いと聞いていた。
審神者としての能力がとりわけて高い訳でもない私が、この本丸に辿り着いた時の絶望を、同田貫は知らない。

そんな私にとって同田貫がどれほどの存在になり得たのか。
そんなこときっと、想像もしないんだ。


「……な、んで、泣いてんだ」

私には同田貫しかいなかった。
同田貫が支えてくれたから、頑張れた。
刀と人間が契ることはないと信じて、それならば私が今の同田貫にとっての唯一になれたのだと信じて。
近侍と審神者としての関係が私たちにとっての最高なら、それを受け入れて、沸き上がる恋慕を奥深くにちゃんと、きちんとしまったのに。
それなのに。

「そばに、いてよ」

押し込めていた感情が暴れまわってもう、限界だ。

「……私のそばにいてよ、同田貫」

しゃくりあげる痛みが喉を焼く。
思わず漏れた本音に、同田貫は長い間顔を強張らせて私を睨むように見つめたまま、微動だにしなかった。





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