池を眺められる雪見障子から朝の光が差し込む。
少し寒くなってきたのか、けれど寝るときはまだ暑いような、そんな気温の変化にきちんと眠れた気もしない。
乱れた髪を手ぐしで適当に撫で付け、私の趣味とは異なる少し厳つい化粧鏡にちらりと顔を覗かせた。
驚くほどの美女になっているわけはないのだが、自分の中ではまだまともな寝起きの顔であることを確認し、ふぅ、と一度呼吸を整える。
立ち上がり寝衣を正し、私は廊下側の障子を静かに開けた。

廊下を挟んだ真正面の部屋には障子を開け放ったまま座る同田貫の姿が見えた。
既に動きやすい服装に着替えていて、今日の当番でも決めているのか机に向かっている。
どうしたって同田貫の部屋の前を通らなければどこにも行けない私の動向はいつも筒抜けだ。

「起きたか」

机に俯いたまま、何かを書きながら同田貫が小さな声で言った。
おはよう、と言おうと思ったのに。
昨夜のこともあってなんとなく気まずいまま、言えない挨拶を無理に喉奥にしまいこむ。

「……うん」
「めし、もう食べるか。また朝風呂とやらでもするか?」

こちらに目を向けない同田貫に私はやっぱり言葉が出なくてただ、その旋毛を見つめた。


一人でこの本丸に二年間も取り残された同田貫は、何が不安なのか片時も私のそばを離れない。
今では部屋は別々だが、なんとほんの一ヶ月前までは間仕切りを挟んで同じ部屋に並んで眠っていた。
「近侍だから当たり前だ」と強く言われたからそういうものなのかなと何も疑わずにいたが、政府からの言付けを仰せ遣う式神、こんのすけが、緊急の用事で真夜中に私の部屋を開け放ちこう言った。

「お二人、男女の仲でしたか。お戯れの最中大変申し訳ありませんが、政府から緊急で、」

間仕切りの向こうから「余計なこと言うなよ、狐」と、いまだ寝ぼけ眼の私とは正反対にものすごくはっきりとした言葉が聞こえてきたから、流石の私も一瞬にして目が醒めてしまった。
その時私は初めて同田貫に怒りをぶつけた。
同田貫は声を荒げることはしなかったが私の喚きを聞き流すこともなく、だからこそ余計に怒りがおさまらなくて、とうとうこんのすけが本気でお怒りになるまで私と同田貫は激しく言い争ってしまった。
多分その日からだ。
向かいの部屋に移動した同田貫の顔を見るのが、どうしてだか苦しくなってしまったのは。



「どうした」
「え?……あ、いや」

何も答えない私にやっと同田貫が顔を上げた。
初めて出会った日には既にとんでもないほど強くなっていた同田貫は、この本丸の雑務をすべてこなしてくれている。
机に乗せられたたくさんの書類を前に手を止めた同田貫は、不審そうに私の顔を覗き見た。

「寝不足か。お茶漬けなら食べれるか」
「……うん」
「小夜が葡萄採ってきたって言ってたな」
「食べたい」
「食ったら寝てもいいぞ。獅子王も今日寝不足だろうしな。出陣、別に明日にしてもいいだろ」

同田貫はのっそりと立ち上がって自身の刀を拾い上げ、少し気だるそうに廊下へと足を踏み出した。
私が葡萄に食い気味に反応したことを僅かに笑った気がして、けれど誤魔化すように背を向けて歩き出す。
同田貫の刀がかしゃりと冷たい金属音で啼いた。
机の上の書類が柔らかな風にぱたぱたとはためいている。
それを押さえる質素な石を睨んでから、少し距離を置いて同田貫の後に続いた。

私と同田貫の部屋から伸びる長い廊下は母屋にまで繋がり、その両側には見事なほどに整えられた庭が延々と遠くまで広がっている。
右手にしっかりと握り締められる刀をぼんやり眺めながら歩いていると、不意に懐かしい香りが鼻に届いた。

「あ……、この匂い」

二年間、誰も住んでいないから覚悟しておいて、と言われた私が辿り着いたのは、あまりに豪華で美しいままのこの本丸で、それを維持していたのが目の前の人だとはいまだに信じられない。
出会ってから今まで真っ黒な服を着ているところしか見たこともなく、そういうことに興味もないらしい。
それでも、この美しい本丸を守ったのは目の前にいるこの、同田貫なんだ。

「あぁ。金木犀か」
「聞いたことある。なんか、懐かしい匂い」
「今日咲き初めたみてぇだなぁ。ほら、あそこの黄色い小せぇやつ」
「あ、あれかぁ。すごいいい匂いだね」

私の言葉に同田貫は立ち止まった。
私も歩みを止め、同田貫が示した方へと首を伸ばす。
まだ三分咲き程度なのに強い匂いを、大きく吸い込んで吐き出すと同田貫が小さく吹き出した。

「えっ、何で笑うの」
「いや。そういえば秋桜も結構咲いてんの、まだ見せてなかったなぁ」
「秋桜畑まであるの?この本丸」
「畑とまではでかくねぇけど。あと池の周りに竜胆も咲き始めてる」
「竜胆?見てみたい」
「もっと秋が深まればすぐだめになっちまうから、切り花にしてあんたのとこに飾ってもいいな。花瓶なら良いのが蔵にあるから、後で俺が取ってきてやるよ」
「同田貫は、花にも詳しいんだね」



同じ部屋で寝ていたことに嫌悪感はなかった。
現代から突然過去に送られ天涯孤独で、泣き出してしまいそうなのを必死にこらえていたものだから、あの日同田貫がこの本丸にいてくれたことも夜も一緒に寝てくれたことも本当はとても安心だったし嬉しかった。

「余計なこと言うなよ、狐」
「えっ、余計なこと、って」
「無粋なことは言いませんよ。刀剣と審神者で恋仲になる方々も大勢いらっしゃいますから。とにかく、政府からの言付けで、」
「えっ?恋仲って、私達、なんにも」
「なんにもねぇよ、だから間仕切りしてんだろ」
「で、でも、刀剣が人間にそういう感情抱くことはないって、だから一緒に寝るって、近侍は当たり前だって、言ってたのに」

私があの時怒ってしまったのは、私を騙して同じ部屋に寝ていたからではない。

「いえ、そういう方々も割と多く見受けられますよ。恋仲でもないのに同じ部屋に寝ていらっしゃるお二人は初めて見ましたけどね」
「喋んな、狐」
「え……、近侍だからって一緒に寝ないの?元刀でも、人に恋すること、あるの?」

何に混乱したのかはよく分からない。
けれど突然動揺してしまった私に、同田貫が言い放った言葉が忘れられない。

「あのなぁ、俺はあんたが初めてじゃねぇんだ。主のことは守れなかった、だからあんたのことは守る。二ヶ月過ごしてあんたが俺に欲情することもなかっただろ。それとおんなじで、俺があんたにそういう感情を抱くことも誓ってねぇから、だから、女だろうがなんだろうが一緒の部屋で寝た方が、守るのに効率がいいだろ」

刀剣と審神者が恋仲になることはないと言っていたことが嘘だったから。
同田貫が私をそういう対象として見ることはないと、堂々と宣言したから。
他の審神者とはそうなるかもしれないのに、私とは二ヶ月間片時も離れずそばにいて同じ部屋で眠っても、同田貫が私を女として意識したことはないと明言したから。

前の審神者とはそうだったかもしれないから、だ。



金木犀の香りが強く鼻を刺激する。
この本丸に来た頃は良かった。
押し潰されそうな重圧も、寂しさも、全部同田貫がいてくれたから忘れられた。
私の言葉に、やはり抑揚のない声で同田貫がぽつりと応える。

「あぁ。主が、花に詳しかったから」

同田貫は私のことを『主』とは呼んでくれない。
同田貫にとっての『主』は、死んでしまったという前の審神者だけなんだ。

「……今の主は私なのに」

ただの嫉妬、だと、気付いているけれど認めたくない。
聞こえているくせに何も言わず、同田貫はぼんやりと金木犀を眺めている。
その横顔を見つめても、同田貫が私を見ることはないと分かっている、のに。




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