「あっ、主さん!」
「遅いよ主、ほら、早く!」
「大変だったんだぜ、堀川が中々寝なくて、」
「はっ、……はぁっ、つ、疲れた」

荒れた息を整える間もなく、獅子王が私の腕を引っ張った。
丑の刻を過ぎた頃、月明かりだけを頼りにこの広すぎる本丸をやっと下山し、獅子王、太鼓鐘、浦島の待つ調理場の蔵へと辿り着く。
ここまで歩いてきてもまだ本丸の中腹にも辿り着けていない高所なのだから恐ろしい。
就任してからもう三ヶ月、私は本丸の敷地外に出ていなかった。

「主、あいつ、まいてこれたか?」

獅子王が私の腕を引きながら四つの盃を手に取った。
あいつ、というのは、この本丸で彼を指す言葉でしかない。

「う、うん。今日こそは大丈夫」
「ほんとか?ちゃんと確認した?」
「今日は絶対!寝てるの確認したし何回も後ろ確認したし、もう忍より抜き足上手くなってるなって鶴丸に笑われたくらいで……」
「よっしゃー、早くあの岩行こうぜ。そんで酒盛りと月見だ!」
「ははっ、楽しみ!あの人さぁ、刀が酒呑むな、って酒いっぱいあんのにくれねぇもんなー」
「人間になったんだからそれなりに人間の楽しみを享受したいっつーの」
「あいつはきっと、酒呑んだことあるんだろうになぁ」

あいつ、とは、この本丸を引き継いだ時から既に存在していた、この本丸で一番強く、無愛想で無表情で冷たく寡黙な、彼のこと。
彼の話によるとこの本丸にも審神者がいたらしいが二年前に死んでしまったらしい。
それから二年、何故か消えずに残された彼はたった一人でこの本丸に存在していた。
二年間なんて刀にとっては一瞬なのかもしれないが、人間にとってはかなり長い時間だと私は思う。
その間、ばかみたいにだだっ広いこの本丸で、ただ一人存在していただなんて。
その寂しさも絶望も私には想像もつかない。

獅子王に引かれるまま、満月が眩しい空を見上げた。
長い廊下の先をちらりと振り返るが誰もいない。
どうやら今日こそ、息苦しく監視され付きまとわれ続けた監獄のような私の部屋から抜け出すことに成功したのかもしれない。
リー、と鳴る秋の虫の音が朧気に響いた。
秋のはじめのまだ生暖かい風に髪が撫でられる。
不意に、私の胸がちくりと小さく痛んだ。

今日は、ほんとに寝てるのか。

主語のない言葉が頭に浮かんだ。

「さぁー、主と月見宴会だ!」

獅子王が嬉しそうに私に振り返る。
同時に、眩しかった月が真っ黒な雲にするりと隠れた。
暗闇に目が奪われた途端、私の手首をかさついた冷たい掌がゆるく、掴む感触に、ぞくりと寒気がした。

「酒呑むなって、あんだけ言ってもわかんねぇのか」

低い声が私の背後から響く。
振り向いた獅子王が一瞬にして顔を引きつらせた。

「うわっ、同田貫!」

すぐさま私から手を離した獅子王はまるで敵にでも遭遇したかのような反応で私から距離を取った。
暗闇に染まる同田貫は、私の手を掴んだまま、はぁー、と盛大なため息をつく。

「ええっ、主さんまいたって言ったくせに!」

獅子王に引かれていた手首が熱い。
今私を掴む同田貫の手は、死人のように冷たいのに。
いつでもふりほどけそうなほどに緩く私の手を掴むその姿に驚きこそすれ、嫌悪感が沸かないのも事実だった。

「ま、まだ一滴も呑んでないのに!同田貫、せめて一口だけ!」
「頼むよ、明日の出陣いつもより頑張って資材集めてくるから!」
「あのなぁ」
「なんなら一週間馬当番頑張るし、頼むって!」

三人がそれぞれ必死に同田貫に手を合わせる。
同田貫は面倒くさそうにまたため息をこぼして、それから短い髪を乱暴にかきむしった。
その人間らしい癖に安堵してしまうのは私のどこががおかしいのかもしれない。

「あのなぁ。なんで酒呑むなって言うのか、わかんねぇのか」

私は別にお酒がとんでもなく飲みたかったわけではない。
ただ、いつも厠にまでついてくるこの鬱陶しい近侍を出し抜きたかっただけ。

ただ、夜ぐっすり眠っていてほしいだけ。

「……なんでだめなの?」

黙りこくる三人を見兼ねて私が小さく口を開く。
同田貫がゆっくりと、視線だけをこちらに向けた。
睨み付けるように瞳を細め、怒っているかのように眉間に深いしわを寄せる。
そのくせ、ひどくゆっくりと穏やかな声で言葉を紡ぐのが、私はどうしてだか、好きなんだ。

「酒呑んで、その時に敵がきたら?」

月を隠していた雲がゆっくりと晴れる。
同田貫の穏やかな言葉に、さっきまではしゃいでいたはずの三人は黙ったまま。

「酒呑んで、その時にあんたが襲われたら。お前ら、後悔しねぇのか」

獅子王が小さく舌打ちをした。
太鼓鐘が手に握る一升瓶を見つめる。
浦島はあからさまにしゅんと項垂れた。

「あんたも。こんな夜中にうろつかねぇで、寝ろ」

ゆるく私を握る固い手が私の手を引いた。
私は抵抗もせず、三人に小さく手を振る。
明日三人にちゃんと謝ろう。

明るい月が足元を照らしてくれるからなのか、同田貫が私の手を引いてくれるからなのか、部屋までの帰り道は来たときよりも歩きやすく感じた。
長いはずの道のりでも息切れする気がしない。
振り向きもせず、けれど私の歩幅に合わせてゆっくり歩く同田貫の背中に、私はぽつりと言葉を投げる。

「後悔、してるの?」

リー、と秋の虫が鳴く。

「してなかったら、あんたともっと上手くやれてるんだろうけどなぁ」

抑揚のない声で同田貫が応えた。
別に、上手くやれてないとか、そんなこと思ってないのに。
否定の言葉はついに喉から出ることをせず、私を部屋の前で不意に解放した同田貫は、大きなあくびをしながら自室へと入っていく。
薄い障子も閉めずに、同田貫は私に背を向けて横になった。

私の手を引くその理由が、後悔だけでしかないのが少し、寂しいだけ。

広い背中を睨んだつもりが見つめていただけかもしれない。
同田貫の部屋と向かい合わせにある自分の部屋に入り、私は力任せに障子を閉めた。





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