それから同田貫が起き上がることは無かった。
こんもりと積まれた布団の中でただひたすらに目を瞑り、自身の冷たさに耐えていた。
暖めようにも冷たすぎて五分と触っていられず、運ばれるご飯を少しずつ口の中に押し込むことしかできない。
厠は部屋の外にあったからその用事だけ同田貫は瞳を開けて寂しそうに私を見ていたが、障子を開けたまま行くこととすぐに戻ってくること、絶対死なないこと、だなんていう馬鹿みたいな条件を飲み込んでやったら諦めたように笑った。
僅かな食事を摂る以外何もしない。
動かない同田貫をただ見つめ続ける日が、それから何日か続いた。

「え、温泉が湧いた?」
「はい。女湯のすぐ隣に。皆で温泉を女湯にも男湯にも引いてます」
「へぇー……、入りたいね」

夕飯を片付けに来てくれた堀川くんが淡々とそう告げた。
温泉、どころか最近風呂にも入っていない。
動いてもいないし冷たい同田貫といると汗などかくことがなかったが、だからこそ温泉という言葉に妙な懐かしさを覚えた。

「入ったらいいじゃないですか。同田貫さんと」
「……えっ、それは、無理だよ、まだ起き上がれてもいないのに」
「起き上がったら、の話ですよ」

望月の話はもう一度も出ていない。
母屋の方では割とのんびり楽しくやっているみたいで、たまに風に乗って皆の笑い声が離れのこの部屋にまで聞こえてくる。
出陣もさせてないから不満も出るかと思ったが、それはそれで別に何も困ることもないらしい。
用意される御飯は毎回異なり、たまに暇を持て余しすぎたのか餅や団子を大量に持ってきてくれることもあった。
材料はどうしているのかと尋ねたら、勝手に食料庫に増えてますよ、と堀川くんが教えてくれた。


「俺も入りてぇなぁ、温泉」

堀川くんと別れて部屋に戻ると同田貫が珍しく口を開いた。
薄く開けた瞳が天井を見つめ、がさついた唇はやんわりと開いている。
昨日はほとんど会話もせず静かに目を瞑っているばかりだったから、私は嬉しくなってすぐさま同田貫の側にすり寄った。

「今、温泉引いてるって」
「あぁ。聞いてた」
「明日の夜には出来るらしいよ」
「まぁ、起き上がれそうにねぇから無理だろうけどなぁ」
「……あ、うん、そうだよね」

隠し切れず項垂れた私を横目で見ていた同田貫は、あー、と唸ってからその冷たい手をゆっくりと布団から出した。
私の頬に伸びてくる手にはもう、少しの力さえ残っていないように見えて私は慌ててその手を握りしめる。

「あんたと、入りてぇなぁ」
「……えぇ、私と?」

慈しむように同田貫の指が私の頬を撫でた。

「折角さぁ、恋仲になったのにな。俺がこんなんになっちまって」
「そ、そんなの、別に」
「酒飲んだあの日、あんたを抱いときゃ良かった」

同田貫はそう言って深いため息をこぼした。
弱々しい手が小さく震えている。
私はその手を強く握り返して、自分にも言い聞かせるように囁いた。

「覚えていて欲しいから、そんなの嫌だよ」

部屋には満月の光が淡く同田貫の上に降り注いでいる。
何もない殺風景な部屋には私の気に入りの鏡台とそれに映る青い花瓶と青い竜胆。

それから、何もかけられていない衣桁が月明かりに照らされていた。

私の言葉に同田貫の表情が僅かに曇る。
金の瞳が寂しそうに揺らぎ、僅かに眉は下げられた。
小さな変化に気付き内心焦るも、何が同田貫を不安にさせてしまったのかわからず私は出来る限りの楽しい話を慌てて言葉にした。

「あ、……温泉だけじゃなくてね、二階も出来たんだって。二日前くらいに大広間の隣に階段が出来てて、上がったら立派な二階が出来てたって。それから、柿の木も倍くらいに増えてたらしいよ。すごいね、この神域。やっぱり、ほんとにすごいよ」

冷たい指先が私の頬にぐ、と力を込める。
眉を寄せて苦しそうに目を細めた同田貫が、私の顔をじっと見つめていた。
最早痛みしか感じないほどに冷たい手に無理に自身の掌を重ね、同田貫の不安そうな瞳を見つめ返してやる。
同田貫は消え入りそうな声でぽつりと、呟いた。

「……あんたは、俺を忘れるんだろうな」

前の審神者の手によって作り出されたこの神域はいつも穏やかな気温と穏やかな天気と豊富な自然と豊富な食料を与えてくれた。
それはこの本丸を維持して守ってきた同田貫の力によるものも大きいのだろうが、ここ数日は今まで育てていなかった野菜や食料が食料庫に勝手に置かれていたり、勝手に庭に増えていたり、不思議なことが続いている。
前に同田貫が「勝手に部屋が増えていることがあった」と言っていたから、そういうことなのだと思っていた。
沢山取れるであろう柿を元気になった同田貫と食べようと、そんなことばかりを楽しみにしていた。

「……え?」
「あの衣桁に何がかけられていたか、忘れちまったか」

月明かりに照らされた殺風景な部屋。
私のお気に入りの鏡台と、私の為に飾られた青い花瓶に青い竜胆。
同田貫が寝転がるその横には何もかけられていない衣桁が、寂しそうに立っている。

それに何がかけられていたか。

「……な、にも、かけられてなかった……ような」

満月が恐ろしいほどに大きく強く光り輝いていた。


同田貫は暫く私の顔をぼんやりと眺めていた。
かさついた指はもう私の頬を撫でてくれない。
あの衣桁に何がかけられていたか、何もかけられていなかった。
きっと。
その衣桁には何も、なかった。
来た時から。
そんなことなかったはずなのに。
そんなことなかった、はずなのに何も思い出せなくて私は、とうとう何かを、悟ってしまった。

「……柿に、二階に温泉に。それはあんたの力だよ。神域があんたを認めて呼応したんだ」

荒れ果てた神域にはもう神はいなくて、支配していた審神者も消えた。
政府は試験的にこの神域を私にくぐらせた。
消えてもいい存在だったから。
結局私は奇跡的にこの神域に辿り着き、荒れ果ててなどいない立派な本丸を見つけ、晴れて審神者になれたのに。

「……やだ、よ」
「この神域があんたを認めた。良かったなぁ……、打倒政府、夢じゃねぇな」
「こんなの、やだよ……」

今まで散々力のない審神者だと罵られて来たくせに、今ここで力を手に入れたところで私には何も残らないのに。

大きく息を吸い込むと、同田貫が辛そうに体をゆっくりと起こした。
積み重ねられていた布団がずるりと、私の方へ落ちてくる。

「朝まで、抱いていいか」

やつれた顔が私の近くに寄せられた。
ひどく傷んだ両手が私の頬を包み込む。

「……なんで、私、思い出せないんだろう」

目頭から鼻を伝って落ちた涙が僅かに口の中に入った。
しょっぱくて生温かくて嫌になる。

「深く考えんなよ。思い出せなくても別に、いいんだ。ちゃんと消えれんなら、そんなこと恨みもしねぇよ」
「……消えないでよ」
「きっとあんたは、俺を消しに来たんだ」
「ひどい……」

冷たい体が優しく私に近付いてくる。
その冷たい胸板に鼻を押し付けると、僅かにいつものお香の匂いがした。

「ひどくねぇさ。俺は、きっと消える日を待ち望んでいた。あんたが……アカネが来てくれなきゃ、後どれだけここで絶望と生きなきゃいけなかったか。それを終わらせてくれた」
「私のそばから離れてくれなかった癖に……。私が一人にしてって頼んでも、全然、言うこと聞いてくれなかった癖に」
「あんたに、置いていかれたく無かっただけなんだろうなぁ」

同田貫は私の頭をすっぽりと包み込んだ。
冷たい空気がこの瞬間だけ和らいだ心地がする。
窓から覗く大きな満月が同田貫を待っているようで、私はその背中に必死に手を回した。
しがみついているように不細工に同田貫を抱き締めると、同田貫が小さく笑った。

「あんた明日、風邪引くかもな」

首筋に唇が落とされる。
柔らかい癖に硬い舌先が私の鎖骨を遠慮がちになぞった。
まるで氷が這っているようなその冷たい感覚に、涙が止まらなくなって、私は冷たさと痛みにただ、されるがままに泣き続けた。




冷たい。

意識が覚醒する。
永遠に続けばいいと思った寒い寒い夜、満月が同田貫を攫おうとも渡さないと、そんな私の力なんて何の役にも立たなかった。

目覚めた朝には、冷たくて硬い刀がきちんと鞘に納められ、私の隣にぽつんと、横たわっていた。

私は裸のままぼんやりと、その刀を見つめ続けた。






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