「おーい、君の馬がまだ戻ってないぞ」

部屋へと続く長廊下へ差し掛かった時、不意に後ろから声がした。
今の今まで一言も喋らず早歩きに私を引っ張っていた同田貫は、その言葉にやっと足を止めて振り返る。
つられて振り向くと、そこには髪の毛から足の先まで泥だらけの鶴丸がいつものように柔らかい笑みを口元に浮かべて立っていた。

同田貫は一瞬、鶴丸を見つめると、何かを振り払うように頭を振った。

「あぁ……、堀川から聞いた。俺があとで探しておくよ」
「どこに行ったんだろうなぁ……、ずっと探していたがどこにも見つけられなくて困ったよ。ところで、もう君らは朝御飯を食べたのか」
「まだだ。部屋で食べる」
「ふうん。そうか」

鶴丸は何の気なしにそう言うと、やけに楽しそうに汚れた服をたくし上げながら「そういえば」と、先へ進もうとした同田貫に柔らかな言葉を投げかけた。

「同田貫。君はまた、なんでそんなに怖い顔してるんだ」

ざわりと、またあの違和感が背中をずるずると這い登る。

「主と喧嘩の真っ最中か?」

真っ白な服は何をしたらそうなるのか、笑えるほど泥にまみれて汚れている。
色素の薄い瞳が真っ直ぐに同田貫に向けられた。
穏やかな表情は変わることなく、軽口を叩く割には見透かすような瞳が私と同田貫を捉えている。

同田貫は進みかけた足を中途半端に止めた。
私の腕を持つ手に急に力が込められた。

「っあ、ううん、何にもないよ。部屋にいるから、えっと、朝御飯、お願いね」

背中を撫で付ける違和感が私に無理矢理笑顔を作らせた。
初めて感じる気持ち悪さなのに、ずっと昔からこの感覚を知っていたような気もする。
同田貫の冷たい手に捕まる自身の腕を思い切り引っ張ると、なんともあっけなくその無骨な掌は私を手放した。
私の表情をじい、と眺めていた鶴丸は途端に腹を抱えるほど吹き出して目に浮かんだ涙を楽しそうに拭った。

「はっはは、主は嘘が下手だなぁ。まったく、恋仲になってまで……。ほらほら、俺の主にそんな顔をさせるなよ、同田貫」

鶴丸の言葉に同田貫の眉が小さく歪んだ。
途端、空気がざわりと、暗い塊に呑み込まれた。

背後に突如として現れたその暗い塊に突然私は息が苦しくなるほどの威圧的な恐怖を感じて思わず蹲ってしまう。
その暗い塊はそんなこと御構い無しに、私を通り越してざわざわと鶴丸の方へとにじり寄っていった。
違う、突然現れたわけではない。
それは、この暗い塊はきっと初めから。
あの日初めて出会ったあの日から、ずっと私のそばで燻り続けていたんだろう。
同田貫が必死で隠していた暗い塊の正体はひどく寂しい、憤怒と焦燥と後悔の感情。
咄嗟に視線だけを動かし同田貫を見ると、あの日と同じ、憎々しい顔付きで今にも鶴丸に飛びかかりそうな程その怒りを露わにしていた。

怖い、と、初めて同田貫を、そう思った。

こんな時、寝室に飾られたあの青い花瓶と美しい竜胆の花が不意に私の頭に浮かぶ。
あぁ、今思えばあの時きちんと同田貫に伝えるべきだった。
そんな想いが、今更胸の中に溢れてくる。

今朝目を覚ました時、同田貫は御手杵と話してて、私は顔を整えようと慌てて鏡台の前に座って、そしたら、その時にね、とても嬉しいものを見つけたんだよ。
同田貫に見られる前に少しでも顔を整えようと焦っていたから言うのを忘れていたけれど。
別に髪をといたくらいで今更私が可愛くなるとも思っていないけど。
でも少しでもあなたに可愛いと思ってもらいたくて、だから急いで髪をといて、それで忘れてしまっていた。
わざわざ、鏡台の鏡に映るように青い花瓶を置いてくれたんだね。
私がいつもあの鏡とにらめっこをしているのを知っていて、だから、あんな絶妙な位置にあの花瓶を置いてくれたんだよね。
とても嬉しかった。
ありがとう、と、すぐに言えばいいのにいつも後回しにしてごめんなさい。
同田貫の心遣いがとても嬉しかった。
本当はいつもありがとうって言いたいんだよ。
だから、どうか、泣かないで。

恋仲になったのだから、私は私の気持ちをその瞬間その刹那に、きちんと同田貫に伝えるべきだった。
それが後悔のない生き方だと、それを頭では分かっていたはずなのに。



暗い感情が突然勢いを増し鶴丸へとものすごい速さで伸びていく。
それは気味の悪い金切り声のような大きな叫び声を上げながら、鶴丸に覆いかぶさるように広がると尚も狂ったように叫び続けた。
まるで真っ黒い化け物のようだった。

「……何言ってんだ?……あんたがさぁ、それを言うのかよ。あんたが、弱かったからこうなったのに」

息が出来なくて苦しい。
咳き込んだ喉は尚痛みを増した。

「主に一番愛されていたのは真っ白いあんただった。近侍はいつもあんたで、当たり前のような顔してあんたは主の側に居て、当たり前に俺より強くて、あの夜修行に出る俺をあんたはへらへらしながら見送ったよな」

同田貫の声が静かに響いた。
遠くから長曽祢と浦島くんの声がぼんやりと聞こえた。

「あんたは、俺より強かっただろう。……強かった癖に。……この女にそんな顔をさせるなだぁ?そもそも誰だよこの女は。なんでこんな女がここにいて、なんで俺の主はいないんだ」

暗い塊が痛々しい金切り声で叫び続けた。
淡々と語る同田貫は蹲る私のことなんて見ていない。
同田貫にとって私はただの女で、同田貫が真に命を賭して守りたかった人はもういない。
そんなこと重々承知の上だったはずなのに、成り代われた、と勘違いをしたのはきっと、私だけではなく同田貫も同じだったのだろう。
溢れる感情が止まらないのか同田貫は大声を張り上げて怒鳴った。
泣き出しそうな苦々しい顔で。

「俺の主だと。じゃあ俺の主はどこだ?なぁ、あんたらだろ。あんたらが俺の主を守れなかったんだろうが!なんで誰もあの日のことを覚えてねぇんだよ!なんで俺を忘れてるんだよ!この女は俺の主じゃねぇ、こいつを主というあんたらは!」

青い花瓶ばかりが頭の中に浮かぶ。
同田貫が初めて吐露した本音が、私の頭の中に深く沈み込んでいく。
重ね合わせたはずのかさついた唇から寂しい怒りが次々に吐き出された。
同田貫がこんなことを思っているだなんて今まで知らなかったのだから、主と認めてもらえなくても仕方がない。
思わず込み上げてくる涙を無理矢理堪えると、私のすぐ脇に、ぽたりと、一粒の雫が落ちたのが見えた。

「あんたらは……、……違う、あんたらじゃねぇ……。……あいつらは、なんであの日、俺を残して消えたんだ」

ぽたり、と、もう一粒、木目に雫が染み込む。
同田貫が泣いているのに気付いて、私は目一杯の力を振り絞り立ち上がった。

「同田貫、何やってる!」
「主さん大丈夫!?」

庭の方から駆けてきた長曽祢と浦島くんがそう叫んでいるのがはっきりと聞こえた。
何か特別な力でも働いているのか、一定の距離からこちらには入れないらしく二人で同じくらいのところに立ち止まっている。
高くなった視界の片隅にはさっき大広間にいた面々も見えて、あぁこれは尋常なことではないのだと改めて理解した。

廊下の先にいる鶴丸は大きな暗い塊を前にしても微動だにせず、口元にはいつも通りの優しい笑みを浮かべている。
何をどこまでどうしたのか、折角美しい身体なのに泥だらけで、それを隠そうとも嫌がる様子もない。
きっと同田貫の馬を探し回っていたのだろう。
よく見れば足袋もその細い手もぼろぼろになっていた。

鶴丸は同田貫の言葉がやっと途切れたのを待っていたのか、余裕のある顔で「はは、驚いたなぁ」と至極のんびりと笑った。
泥だらけの手が暗い塊に優しく手を伸ばした。

「えぇと。あぁ、朝御飯、持っていくんだったな。その間に少し落ち着いて、ちゃんと休んだらどうだ。主、君もなぁ、そんな顔するのはやめてもっと笑え。はは、俺がとっておきの驚きを用意しておいてやるから」

慈しむように銀の瞳を細めながら鶴丸は暗い塊に更に手を伸ばした。
その細い手に触れられそうになった途端、暗い塊はざわりと音を立てて広がると、突然風に舞って宙に消える。

同時に、ぐらりと力なく傾いた同田貫を、私は慌てて抱きとめた。

「同田貫!」
「君の主を守れなくて悪かったよ。その悲しみを、せめて覚えていたら良かったんだけどなぁ」

同田貫の冷たい体からは大量の汗が噴き出ている。
私の肩にもたれた同田貫の体をなんとか抱き起こすと、短い息を吐きながら同田貫が苦しそうに呟いた。

「……俺こそ、あんたらの主を不安にさせてばっかだ。悪い、思ったより動揺してんだなぁ……。別にいいんだ、あんたらがあの日の事を覚えていない方が。その方がいいに決まってる」
「そんな寂しい事を言うなよ」

鶴丸は穏やかな声音のままそう返すと、不意にパン、と両手を大きく叩いた。
空気を割く音がこの場を支配していた恐怖を霧散させる。
突然軽くなった体に私は思わず息を大きく吸い込んだ。
大きく吸った息を反射的に吐き出すと、私の肩にもたれる同田貫が心配そうに私の顔を覗き込んできた。
不安そうに揺れる金の瞳は、いつもの見慣れた同田貫のそれに戻っている。

「……悪かった」
「う……、ううん、全然。それより、大丈夫?」
「……あー、気持ちが悪ぃなぁ」
「吐く?」
「吐くほどではない、けど」
「歩ける?」
「……あんた、怒んねぇんだな」
「えっ、まぁ、……怒るわけないよ。もう、ほんとに、寂しい事ばっかり言うんだから」

頭の中に沈み込んだ言葉を無視して私は極力自然に見えるように笑顔を作った。
同田貫は虚ろに庭を眺めていたが、何かを諦めたのかゆっくりと目を閉じ、それから私の肩にもたれたまま離れの部屋の方へと目線をやった。

長廊下の先で鶴丸が長曽祢や浦島くんや慌てて大広間から出てきた面々に何か軽口を叩いて笑わせている楽しそうな声が聞こえてくる。

「あんたも、鶴丸みてぇに綺麗なやつの方が似合ってんのに」

ぽつりと消え入りそうな声で呟いた同田貫の言葉があまりに寂しくて、私は泣きそうになってしまった。

「私は、情緒不安定で世話焼きでぶっきらぼうで冷たくて黒くて怖くて優しい同田貫のことが好きなの」

早口にまくしたてると同田貫が「物好きだなぁ」と、小さく息を吐いて笑った。





back



×
- ナノ -