人の唇というものがこんなにも柔らかいとは。

薄く、かさついて見えた同田貫の唇は驚くほどに柔らかく、驚くほどに冷たかった。
私から押し付けた唇を同田貫が拒否もせずに受け入れる。
触れたは良いがこのあとどうすればいいのかも分からず、重ねただけのそれが呼吸と共にぎこちなく震えた。
左手を伸ばして同田貫の首筋に触れる。
同田貫は逃げも抵抗もせず、諦めたのか静かに目を瞑った。
いつ離れればいいのだろう。
ぼんやりとそんなことを思いながら、けれどまだ、離れたくもなくて、私もゆっくりと目を瞑る。
口付けを交わす前に見た同田貫の表情は、躊躇いがちで困惑ばかりが広がる複雑なものだった。
私と恋仲になるのを手放しで喜んでもくれない、私の幸せは今この瞬間なのに。
私が他の誰かと恋仲になる方が同田貫にとっては嬉しいことだったのだろうか。
それはまたいつか聞くとして、それよりもなぜいつも同田貫の体は冷たいのだろう。
せめて今初めて繋がったここから私の体温を分けてあげられたらいいのに。
そうしたら私を守りたい、という根拠が、後悔と自責から、恋慕と慈愛に塗り変わってくれるかもしれないのに。

同田貫の鎖骨を撫でると、その冷たい右手が私の手をゆるく拒否した。

「……あんたなぁ」

これ以上は触れるな、ということだろうか。
心底困ったように眉を歪ませた同田貫は、私の手をひどく優しく払いのけると、ため息と共に私から唇を離してそう言った。
私の気持ちを否定された気がしてぐっと胸が締め上げられるように痛む。

「……喜んで、よ」

同田貫はごろりと仰向けに体をひねり、私の小さな声を何か言いたそうに唇を小さく開けたまま聞いていた。
私は同田貫と恋仲になれたら嬉しい。
絶望しかなかった審神者の就任に一縷の希望が見出だせたのは同田貫のおかげだから。
同田貫がいてくれたからこの本丸でも頑張れた。
同田貫がいてくれたから、夜、眠ることができた。
だから、同田貫が好き。
私の気持ちに間違いはない、のに。

はぁー、と長いため息を天井に向けて大きく吐き出した同田貫は、右腕で自身の目元を覆い隠す。

「……俺は、あんたを守りたいだけだ」

さっき触れたばかりのその唇が、そんな優しい言葉を吐き出した。
優しい、筈なのに、私にとってはひどく冷たい。
込み上げてくる胸の痛みに私が涙をこぼしそうになった時、同田貫が突然がばりと起き上がった。

「誰か来る。あんた、隠れろ」
「……、え、」
「早く、俺の服の後ろ行け」
「えっ、ま、待って」
「早く!」

突然の剣幕に私も慌てて起き上がり、戦装束が無造作にかけられている衣桁の後ろへと身を隠す。
真っ黒の戦装束は私と出会ってから着ているところを見たことがない。
投げ出されていた長い黒の布で足元までなんとか隠してみたが、もし誰かが横から覗けばすぐばれてしまう。
というかそもそも、何故慌てて隠れてしまったのか、堂々と一緒にいてもあまり問題がなかったのでは。
確かに寝転がって並んでいたら気まずい気もするけれど。

ごった返す気持ちの整理もつかぬまま、息の音で気付かれるかも、と私は口元を両手で押さえ込む。
なにが原因の動悸なのか、止まりそうにない心音が苦しかった。
暫くして私の耳にも聞こえる程度の足音が近付き、その音が不意に近くで止まった。

「何してるんですか」

堀川くんの声だ。

「なんにもしてねぇよ」

同田貫がいつもの抑揚のない声でそう静かに返す。

「主さんは?」
「寝てるんじゃねぇか」

さっきまでよく分からない動悸のはずだったのに、今この大きすぎる心音は堀川くんにばれることへの緊張だけになっている。
私は一層頑張って息を殺し、微動だにしないよう体に力を込めた。

「ふーん。そういう?あれですか」
「いいから、用はなんだよ」
「いいですよ、それなら。へぇー、同田貫さんが主の動向を知らないなんて珍しいですねー」
「……この、っ、やめろめんどくせぇ」
「ははは。えーっと、じゃあ本題なんですが、第三部隊は明日出陣で良いですか」
「あー……。第三、太鼓鐘外して長曽祢。で、太鼓鐘をお前んとこ入れとけ。お前んとこ明日遠征な」
「了解です。じゃあ内番はー、」

この本丸の殆ど全てのことを決めているのは同田貫だったが、他の刀剣への連絡や相談は堀川くんを通じて行うのが一番多い。
明日の予定を淡々と決める二人の声に耳を澄ましていると、堀川くんが「じゃあ、」と呟く。

「これで、皆に伝えておきます」
「おー、ご苦労さん」
「他に伝えることは?」
「はぁ?……まだ、何もねぇからな」
「了解です。また後でお聞きしますね」

その会話を最後に、堀川くんの足音が静かに遠ざかっていった。

しん、と張り詰めた静寂が訪れる。
もう出てもいいのだろうか、躊躇していると、突然同田貫が私の前に顔を出してきた。
戦装束と壁の間に蹲る私を少し呆れたような顔で見下ろした同田貫の金の瞳に捕まる。

「あ、……ち、ちゃんと、隠れてたよ」

同田貫は私の顔をじ、と睨み付けるように眺めてから、不意に小さく、笑った。
これが本来の表情なのだろうなと思う。
いつも無表情の中に厳しさと悲しさがある、その表情は同田貫の本来の顔ではない。
きっとこの分かりづらく楽しそうな気の抜けた顔が、同田貫の本来の表情なのだろう。

「堀川に、ばれてんなぁ」

抑揚のない声がそう言った。

「……え?」

突拍子のない言葉に思考が止まる。

「まぁ、ばれるだろうな」
「え……、えぇ。息まで我慢してたのに」 
「あいつ、ずっと笑いこらえてた」
「うそ、夕飯の時気まずいじゃん」
「知るか。俺の方が気まずかったっての」

一度も着ていない戦装束と、壁の間に蹲る私の前に、同田貫がゆっくりと腰を下ろす。

本丸を離れたら私が死ぬとでも思っているのだろうか。
使われていない戦装束を一瞬ちらりと見た同田貫は、大きく息を吐いてから視線を下に落とした。
本来なら好戦的な性格をしているらしい同田貫が、出陣したいと言うのを私は聞いたことがない。

「何で俺なんだ」

同田貫が蹲る私の前に手をついた。
障子から入る光がここまでは届かない。
この戦装束を着る同田貫を笑って見送り笑って出迎えたい、と何度思ったことか。
同田貫のことを一番に分かっているつもりだから、口にしたことはないけれど。

「え、」
「なんで俺なんだろうな」

同田貫が頭を小さくかいた。
金の瞳が不安そうに揺れる。

「あんたにはずっと、嫌われてると思ってた」

出会った頃のように、ゆらゆらと不安そうに揺れる瞳は私の目を見ようとしない。

「……厠にまでついてくるのは、流石にどうかと思う」

何がそんなに不安なのだろう。
何をそんなに迷っているのだろう。
私に恋心を抱けないのならそう言って突き放せば良い。
昔のことが怖いのならそう言って頼ってくれれば良い。
そのどれもが出来なくなるほど、使い込まれた戦装束を忘れられるほど、不安なら、悲しいなら、私の前で泣いてくれたら良い。

「……は、そんなら厠で無様に殺されても知らねぇからな」

私の前で泣いていいのに。

「うん。そんなこと、同田貫は知らなくていいよ」

私の前に手をついた同田貫は、少し驚いたように目を見開き、私の目を暫く虚ろに見つめた。
それから突然、音もなくゆっくりと、覆い被さるように私の体を抱き締めた。





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