おはなし | ナノ
それでは春にまた会いましょう
『三郎さま、春ですよ。桜が綺麗です』
柔らかい声に顔を上げて、窓の外を見た。
窓を覆い隠すほどの桃色は、この家のすぐ傍を陣取る大きな桜の木から伸びてきている。
「こんなに大きかったか、この木」
『ええ。懐かしいですね。昔はよく木登りしたものです』
「お前、登るだけ登っておいて降りられないとか言うしなぁ」
『そ、それは、三郎さまが『もっと上に行くぞ』って勝手に登っちゃうから…!』
「放っておけば良かったじゃないか。下で大人しく待っておけば、怖い思いもしなかっただろうに」
『それは駄目です。三郎さまお一人では行かせられません』
目を通していた巻物をくるりと仕舞うと、ふうと溜息を吐いて「お前は昔から頑固者だ」とそれを部屋の片隅に放った。気付けばそこには、本の小山。
『ああ!また書庫から出しっぱなしで…あーもう、これなんて折り目がついちゃってるじゃないですか』
「お前まで雷蔵みたいなことを言うなよ」
『言いたくもなります。はぁ、雷蔵さまは普段、さぞご苦労をなさっておられるのでしょうね…』
「余計な御世話だ。ほら、暇ならそれを書庫に返してきてくれ」
綴本と巻物もぐちゃぐちゃに折り重なった山は、一向に片付けられる気配もない。
「それが終わったら、花見に付き合ってやろう。だからそうふくれるな」
『本当ですか!?』
「ああ。私が嘘を吐いたことがある、か…」
一向に返らない返事に、空耳も次第に掠れてきた。三郎は本の山から目を離して、桜に再度目を奪われた。
「……私より、お前の方が嘘吐きじゃないか」
春休み、いつものように少し遅れて家に戻ると、すでにそこに見慣れた姿はなかった。
当主の言葉では、遠い城の病弱な城主の主治医となったらしい。何処の城かは教えて貰えなかった。お前の主治医は他の者を当てる。あれにはもう会うな。その会話の後に雇われたのは見目麗しい女医で、つまりは、そういうことなのだろう。
三郎自身知らなかった感情は、周囲に駄々漏れだったと言うわけだ。
くっと口端が上がる。
『桜が咲くたびに思い出すでしょう』あの言葉通り、彼は何処かの城で自分のことを思い出しているだろうか。
手間のかかる主から離れて嬉しがっているのか、それとも。
「だいたい私の素顔を見ておいて、逃げられると思っているのか」
手を引いたのも、素顔を見せたのも、お前だけ。
三郎は手を伸ばして、桜の花びらをひとつ摘んだ。いつか一緒に木の登った時と、同じ色。今でもこんなに鮮明に思い出せるのに、忘れるなんて無理な話だ。
春が巡る頃、奪い返しに行こうじゃないか。
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