おはなし | ナノ
お役御免1



ぼくには兄さまがいました。
怖がりのぼくに添い寝してくれて、木の上に登れないぼくに柿を取って来てくれて、遊びに行く時は迷子にならないようにと手をひいてくれる兄さまでした。
優しくて格好良くて、強くて賢くて、やっぱり優しい兄さまでした。


兄さまはぼくが五つになる前、突然消えてしまいました。


父さまは『ほんけのおやくめのためなのだ』としかめっ面して言いました。
母さまは『おやくめをおえたら、かえってきますよ』と言って笑いました。


その夜、兄さまがいなくて一人で眠れずにいたぼくは、隣の部屋から母さまの泣き声を聞きました。
父さまの強張った声が『すまない』と繰り返しているのも聞きました。
ぼくは冷たい布団の中で目も口もぎゅっと閉じて体を丸め、悲しくて寂しくて耳を塞ぎました。


きっと兄さまは、もう戻って来ないのです。








「平太ー、桶の直し方教えるからこっち来ーい」


磨いていたクナイから目線を上げると、遠くで両足にしんべヱと喜三太を張り付けた食満先輩が手招きをしていた。
ぼくの前で虫かごを直していた富松先輩が笑う。


「ほら、行って来い」
「でもクナイが…」
「あとで大丈夫だから」


しっかり習ってこい、と先輩に背中を押されて、ぼくは食満先輩の方へ走った。


「よし、皆よく見てろよ〜」


その場に胡坐をかいた食満先輩は、膝の上にぼくを乗せて作業を説明しだした。
先輩の両肩に顎を置いたしんべヱと喜三太がくすぐったそうに笑う。ぼくもなんだかくすぐったくてふわふわした。


「どうした?」
「はにゃ〜。先輩、与四郎先輩みたいですぅ〜」
「パパみたいで〜す」
「はは、そうか?」


後者はともかく、前者は容姿も似ていると言われている。
でもぼくも、苦笑しながらぼくの頭を撫でてくる掌の温かさが、なんだか…


「兄さま、みたい」


ぽつり、呟いた言葉が聞こえていたのだろう。


「平太、兄ちゃんがいるのか」
「あ…、いいえ、いま…せん」


慌てて首を振ったぼくを不思議に思ったのか首を傾げながらも、食満先輩は桶の修理講座を再開した。
学園には色々な事情がある生徒も多いので、ぼくもそうだと思ったようだ。


直し終わった桶を倉庫に戻して、今日の委員会は終了。
終わった途端三年の先輩達がばたばたと現れてやれ迷子だ捜索だと富松先輩を連れて行き、ぼく達の方は午後をどうやって過ごそうかと相談していると、食満先輩が「時間もあるし、買い出しがてら茶屋にでも行くか。奢ってやるよ」と提案してくれた。しんべヱが真っ先に食い付き、つられるように喜三太、ぼくの順で返事をする。
じゃあ用意して門の前に集合な、という声に、ぼくらは浮足立って長屋に戻った。


着物を着換えて財布も持って、さぁ門へ行こう、と部屋を出れば、喜三太としんべヱが駆けてきた。


「はにゃ〜!平太、大変〜!」
「食満先輩が大喧嘩してるみたい〜!」
「えっ」


びっくりして障子に穴を開けてしまった。どうしよう、直せるかな。


結局その日のお出かけは中止になって、次の日傷だらけの食満先輩に謝られた。
怪我は大丈夫ですかって聞いたら、大丈夫だ、平太はいい子だな、ショタコンに気をつけろよ一見普通の奴には特に注意しろもがれるぞって頭を撫でてくれた変な、だけど優しい食満先輩。
その手がやっぱり兄さまの温度に似ていて、だから余計心配になってしまった。








ぼくの兄さま。
温かい手を持つ、大好きで優しい、ある日突然消えた兄さま。


ぼくが六つになる頃、『ほんけ』から難しい顔をしたおじさんが来ました。
父さまと母さまは笑顔でおじさんを迎え入れ、ぼくに外へ行ってなさいと言いました。
外に出されたぼくは庭の柿の木に登ろうとしたけれど、やっぱりずり落ちてしまいます。
何度か挑戦しているうちに、おじさんが帰って父さまと母さまに呼ばれました。二人の顔はもう笑顔じゃありませんでした。


父さまは『お前に兄はいない』と怖い顔して言いました。
母さまは『お前の兄は死んだのです』と言って泣きました。


ぼくはその夜、いつも通り冷えた布団にくるまって一人で眠りました。
隣の部屋からは何も聞こえません。
しんとした暗闇は、とても怖かったはずなのに、もう昔ほど怖くはありませんでした。それよりも怖いことがあると、ぼくは知ってしまいました。


兄さまは、『ほんけのおやくめ』で死んでしまったのです。



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