おはなし | ナノ
みやびだった人
野を越え山越え谷越えて、やっと見つけた長閑なこの地に根を降ろして早数年。私達をまったく知る者がいないこの土地では見るもの聞くもの全てが新鮮で、慣れない農作業や暮らしに落ち込むこともあったけど、それなりに楽しく暮らしていた。
「名前!今帰ったぞ!」
「お帰りなさい小平太。相変わらず元気ですねぇ」
「名前も変わらず貧弱だな!」
大きな声とともに襲い来る衝撃はいつものことだが、いつまで経っても慣れるものではない。抱きつかれるたびよろけてしまうのは同じ男として情けない限りだが、今ではもう諦めてもいた。小平太と私は違うのだ。主に野生動物と人間との違いである。年々大きくなる男の腕の中で、私は大人しく抱きしめられていた。
七松小平太との出会いは、私が爺やとこの山間の村に逃げ込んだ日のことであった。二人身を寄せ合うようにして訪れた私達に、爺やの遠い親戚はその吹けば飛ぶような縁だけで歓迎をしてくれた。食べるものを分け、寝る場所を確保してくれて、そして息子だという少年を紹介された。好奇心で目を輝かせた少年は、村に同い年の子供がいなかったせいか、私の名前と年を聞くなり外へ連れ出した。助けを求めた爺やは、にこにこと私達を見送っていた。
そしてそれからこいつが忍術学園に入学するまで、崖や滝壺といった場所で何度も死にかけたというわけだ。屋敷にいたら絶対出来なかった体験である。
「名前、私、そろそろ卒業するんだ」
「もうそんなに経つんですか…」
入学する前は涙どころか鼻水まで垂らして「俺、名前と離れたくないぃ…」と言っていた少年が、一人前の忍になる。月日とは凄いものだ。『俺』がいつの間にか『私』になり、見下ろしていた旋毛はこいつが寝転ばなければ見えなくなってしまった。納まっている体は筋肉で硬い。幾ら農具を振ってもちっとも肉のつかない私とは大違いだ。
「卒業したら、迎えに来るな」
「ああ、はいはい」
体は大きくなったといえど、未だ幼い頃の気持ちが抜けないのだろう。小平太は卒業したら私と共に住むと言い張っていた。爺やが死んで一人になった家は何処か寒々しいので、私としては大歓迎なのだが…それでいいのかい小平太。いざ嫁を貰おうというとき、家に他人の私がいると凄く気まずくないか?
私の密かな心配をよそに、満面の笑みの小平太は酷く満足そうに頬に口づけてきた。
「約束だぞ、名前!」
いい加減この約束の合図はどうかと思う。野性児の小平太にされると食べられてしまいそうで怖い。
まったく、村民の風習には驚かされるばかりである。
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