おはなし | ナノ
05 散りゆく姿を月が見ていた



最初は気にいらなかった。
父親ばかりか姫である自分にまでずっと頭を伏せて接してくる同じ年頃の薬師。腕は確かだと言われ、後にそれは本当だと分かったが、その時はとにかく腹立たしかった。
無理矢理顔を上げさせてもまるでこちらなんて見ていない。その視界に入っていても、心が何処か遠くにあるのなんて丸わかりだった。そんな事が、無性に悔しかった。


だから城の周りに桜が咲いた日、部屋として与えた一室に籠り薬を煎じ続ける名前の腕を引っ張って無理矢理連れ出した。外の空気に触れれば、少しは明るくなるでしょうと。



さぶろうさま』



桜を見上げて呆然と呟いた名前の言葉は、残念ながら擦れて聞き取れなかった。
いや、それよりも自分の意識は、まるで燃えるようにギラリと光った名前の目に釘付けだった。いつも空虚な硝子玉のような名前の瞳が何かに焦がれるように、何かを愛しむように。


それを見た瞬間、名前がとても欲しくなった。








「お父様、名前を探してください!」
「ならぬ」


あの夜、名前が突然城から消えた。
探し出そうと城に勤める忍を呼べば、「大殿からの命令でそれは出来ません」と頭を下げられた。
どういうことだと父親に詰めよれば、「奴を探すことは許さぬ。薬師ならまた探せばよい。姫の病に詳しい者を探させておる」と顔を合わせることなく告げられた。


「どうしてでございますか!名前ほどの名医が居なくなったのですよ!?私の病だって、名前の薬で大分…」
「そうだ。もう大分快方に向かっておる。後はもう、名前である必要はないだろう」
「お父様!」


そうじゃない。ぞうじゃないのだ。
首を勢いよく振れば、頭が幾分冷めたのか冷静になってきた。名前ほどの腕を持つ者が消えたというのに、この落ち着きよう…名前は消えたのじゃなくて、城を出された?


「お父様…名前は何か粗相をしたのですか」
「いいや。奴は儂の病を癒し、また姫も癒してくれた。感謝こそすれ、怒る理由など無い。なぁ、姫。違うのだ。儂は名前を放逐したのではない」


観念したのか、城の主は扇子を閉じて体を乗り出し声を落とした。



「奴の主に返したまで」



頭を文箱で殴られたような衝撃が走った。


「名前の主が…来たのですか」
「今年の春から何度も文を送ってきていた。それも必ず大きな城を介して。儂ごときなど、一息で掃われるような城ばかりだ」
「それほどの…お父様、名前を紹介してくれた城は何か言ってなかったのですか」
「深入りはするなと言われた。長患いが治ったことを喜んで、どうか納めてくれと」


そこで言おうか言うまいか逡巡した後、唇を噛みしめた愛娘の姿に何を思ったのか。
城主は父親の顔でのそりと立ち上がると、わざわざ近付いて目線を合わせて「諦めよ」と穏やかに告げた。


「名前が消えた夜、儂の寝所に名前の主の使いと名乗る男がやって来てかなりの額を置いて行った。名前は名前の意志で元いた所に戻るから、決して探してくれるな、と。我が城の警備は決して手薄ではない。それを忍の一人にも気付かれることなく忍んで来るのだ。なぁ、姫。諦めておくれ。お前が名前を殊に可愛がっておったのは知っておる。だが、その名前が選んだのだ。そして、相手はこちらを潰すことなど容易いと、行動で示しておる。儂は城主として、この城、ひいてはお主やここに住まう者達を守る義務があるのだ。さあ、ここでこの話は終わりだ。もう困らせてくれるな。あれは酷く優秀であったが、同時にとても恐ろしいものに魅入られておったのだ」
「恐ろしいものに…」
「姫、お主はいずれ嫁ぎ、夫となる者を支える宿命。…お主は恐ろしいものになどなってはならぬ」


父であり城主である男は、姫である娘の赤くなった目元を見て、ゆっくりと釘を刺す。


「…最後に一つだけ。ねぇ、お父様……名前は、幸せかしら」
「だといい。あれは、いい薬師であったからな」


決して断言しない父の優しさに堪えていた涙がこぼれた。
幸せなら、いい。あんなに焦がれていた者の元へ帰れたのなら、あの孤独に焼かれそうな瞳が満たされたのなら。
もう散り始めたあの奥庭の桜の下で告げたことは本当だ。名前の主になりたかった。こちらを向いて欲しかった。あの瞳を向けられてみたかった。



もしかしたら、恋に近かったのかもしれない。



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