おはなし | ナノ
02 闇にうかぶ桃色
「名前、聞いた?奥庭の桜が咲いたそうよ」
「奥庭の、桜、ですか?…この時期に?」
扇子を弄りながら楽しそうに話す姫様に、僕は首を傾げた。
中秋も近いこの季節に、桜が咲くとはどういうことか。
「あら……ああ、そうね。名前は去年のこの時期、お父様の遠征について行ってたもの。知らなくともおかしくないわ。もう、それにしても名前を戦場に連れて行くなんて!名前が代わる者のない唯一無二の名医だと、お父様は理解しておられるのかしら。いつも胃痛だ腹痛だと、少しの障りで名前を連れ回して、挙句陣幕の内に控えさせるなんて…!」
段々と興奮して声を怒らせる姫を「まぁまぁ」と宥める。
「殿は治ったとはいえ長患いの経験からどうしてもご不安になるのでしょう。僕は薬師として雇われた者ですし、殿の傍近くあるのは当然のこと。陣幕の内にて控えさせて頂けたことこそ破格の扱いだと思います」
「…名前は戦いが怖くはないの」
「怖くないわけではないのです。ですが僕は、医を志す者なので。そこに診るべき患者がいるというのなら何処へなりと参ります」
そう言うと、姫様は眉を顰めた。
この美しい姫様は以前見せて頂いたかの方の素顔と面差が似ていらっしゃるが、こういう所は似ていないな、と頭の片隅で考える。かの方なら、主に付いて戦場へ赴くのも当然だと言うだろう。
彼女から香るのは優しく雅な香の匂いで、血も硝煙も土も鉄も匂わない。
戦う事で生きる道を定められていたかの方と違い、彼女は戦わない事を定められているのだ。
僕はぼんやりと浮かびそうになった幻影を振り払い、姫に首を傾げて見せた。
「桜は、毎年この時期に?」
「ええ。元々ここは北で桜が咲くのは遅いのだけれど、それでもこの季節でしょう?狂い咲きの桜としてこの辺りじゃ有名よ。それもね、あの桜は、夜が一番美しいの」
「夜桜ですか」
「月明かりでぼんやりと光るのよ。嘘じゃないわよ。何代か前の先祖がその桜を気にいってここに城を建てたのですって」
「ふわぁ…」
なんとも凄い話だ。誰しも気にいった草花を手折り持ち帰ったりはするが…さすが一城の主ともなると規模が違う。
驚いて目を丸くする僕を見て、楽しそうな姫様は花見に僕を招待してくれると言った。僕みたいな一介の薬師が…いいのかな?
「本当ですか?」
「あら、私が嘘を吐いたことがあって?」
「いつもじゃないですか…」
懐かしい遣り取りに、一瞬弾んだ心が真っ直ぐに落ちて行くのを感じた。ここに来て以来何度も味わうその空虚な感覚は、きっといつまで経っても消えないんだろう。
ふわりと香る姫様の香り。
優しい香に混ざって、あの人と同じ、日々服用している薬と白粉の香りがした。
prev/top/next