おはなし | ナノ
嘘吐きと豆腐6
先輩、と菖蒲色の制服を遠慮がちに引いたのは、今年入ったばかりの委員会の後輩だった。
「どうした」
「えっと、池のところで五年の先輩がこれをくれたんですが」
池にいる五年生。とても覚えがあった。
三郎次が差し出したのは、ほかほかと湯気を立てた田楽豆腐が二串。今日、食堂のおばちゃんはいなかった筈。何処で入手してきたのだろう、あの人は。兵助は呆れたのか感心したのか、自分でも分からぬうちに溜息を吐いていた。
それをどう勘違いしたのか、三郎次が焦る。
「い、いりませんって言ったんですけど、先輩命令だって言われて!」
「落ち着け三郎次。あの人はいつもそうだから」
「…知り合い、ですか?」
「ああ。梅雨時の火薬委員会が湿気対策で夜中まで忙しいことを知って、毎年それとなく差し入れしてくれる程度には、知り合いだ。ですよね、先輩」
「豆腐は年々可愛げが無くなっていく」
「ひっ!?」
蔵の梁に寝そべる名前を見上げて、喉を引き攣らせる三郎次。暗闇に暗い髪と瞳が溶け込んで、怖い。
「まぁ少し休憩しろ。根を詰めると良くない」
「それを言う為だけに梁に登ったんですか」
「ここはよし子と僕の休憩スポットだ」
「焔硝蔵に生物を持ちこまないでください」
「大丈夫、大丈夫」
「根拠のない発言は止めてください」
困惑する三郎次に田楽豆腐を食べるよう促し、自身も口をつけていた兵助は、ふと気付いて梁を見上げる。
「もしかして名前先輩、落ち込んでいらっしゃるのですか」
梁の上の名前が、ぴたりと止まった。
「…もしかしなくとも、落ち込んでいる。可愛い豆腐に慰めて貰おう、と忍んで来るぐらいには」
「…名前先輩」
「ははは、どうした豆腐。顔が赤い」
からかうような声に、兵助は自分の頬が熱を持っていることを知った。だが名前の瞳を見て、ふわふわした熱は一気に冷めてしまう。
暗い闇から、今にも雨が降りそうな気がした。
「せんぱ、」
何か言わないといけない気がして、思わず口を開いた瞬間、
「あーーー!!こんな所にいたっ」
その声は入口から響いた大声にかき消された。
「おや、どうしたは組コンビ」
「お前が突然消えたせいで報告が出来ねぇンだバカ!」
「仙ちゃんカンカンだよバカ!ほら、早く戻った戻った!」
「何が『妹が絶体絶命のピンチなので後は任せた』だ!やっぱり嘘じゃねぇか!!」
梁から引き摺り下ろした名前を引っ張っていく留三郎と伊作。見れば二人ともぼろぼろで、かすかに火薬と嫌な臭いもした。三郎次が気付かないほど、ほんの微かだが。
暗闇から引きずり出された名前も、よく見れば泥や色々なもので汚れている。
咄嗟に三郎次の前に立って隠しながら、恐る恐る兵助は伊作に声をかけた。
「あの、名前先輩が何かしたんですか」
「ああ、久々知。騒いでごめんね。実は今日いろは混合試験だったんだけどさ、終わった瞬間に、名前が突然消えちゃって」
「え」
「けど幾ら終わってるといったって、全員揃わないと報告出来ないからね」
伊作は「何の用があったんだか。本当に仕様がない奴」といつかの様に苦笑う。
まさか名前は、夜通し働く火薬委員に差し入れを持ってくるため、試験を切り上げてきたのだろうか?…いや、違う。兵助は思考の中で頭を振った。違うはずだ…いつだって妙な行動ばかりの名前だけれど、理由なく試験を放り出したりはしないはず。
そしてそんなことは、兵助より一年多く接してきた先輩達なら言わなくても分かっているのだろう。その目は心配そうに名前を見ている。
兵助は不意に泣きたくなった。
この人の内側を見ることが出来るのは、何も自分だけではない。それどころか…
「豆腐、僕に何を言いたい」
そんな後輩の様子に気づいたように、火薬庫の入り口まで引き摺られた辺りで、それまで大人しく留三郎の文句を聞いていた名前が兵助を見て言った。
「何も、」
「僕に嘘を吐くなと言ったはずだ」
真っ黒な目が、真っ直ぐに兵助を射抜く。
『豆腐は僕に嘘をついてはいけない』と言ったあの日と同じ無表情なその顔に、不意に気持ちが爆発した。
そうだ。自分は、もうずっと前から、この人のことを。
「………」
「豆腐」
「っ先輩を、」
「うん?」
「先輩を、お慕いしております」
「……おやまぁ」
作法の三年の口癖を呟く名前は、真っ暗な目を大きく開けて、茫然と兵助を見る。見られている。カッと顔が熱くなった。
「じゃあ、今日から豆腐は僕の恋人だ」
「…は?」
「恋仲になると逢瀬をするべきか。よし豆腐、今度の休日は空けておけ。豆腐屋巡りをするぞ」
「え?」
「ははは、どうやら僕にも春が来たらしい」
相変わらず本気か嘘か分からない顔で、己を捕獲する留三郎に報告する名前。
報告された留三郎といえば、ぷるぷると震えだした。
「お、まええぇぇ!!俺達が必至こいて探してる間、イチャついてやがったのかこの野郎ぉぉぉ!?」
「いやいや、ははは。青春というものだ」
「留さん押さえて!」
「あれ、伊作?抑えてじゃなく押さえて?読み間違い?」
「さっき使わなかった薬が余ってたんだ。是非とも効果が知りたい」
「ならば仕方ない。とでも言うと思ったか。それ毒薬だろっと」
「あ!」
「逃げた!」
「サラダバー」
拘束から瞬時に抜け出した名前は、さすが五年と言うべきか。
静かな夜を踏み潰していた三人組が駆け去ると、途端に焔硝蔵に静寂が戻ってきた。
「…久々知先輩」
「三郎次、何も言うな、聞くな」
「…おめでとうございます」
「忘れてくれ」
残ったのは微妙な空気と、冷えた田楽豆腐だけ。
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