さよなら日常
名前は、身を切るような寒さで目覚めた。

「……う、寒っ。ここどこだ……?」

辺りは薄暗く、目が慣れるまで少々の時間を要した。
辛抱すること数分。やがて見えてきたのは、灰色の床と格子状に組まれた木枠。それから、到底手が届かぬ高所に設けられた、小さな天窓ーーまるで、牢屋の中のように殺風景な光景だった。

「って、まるでじゃないわ!まるきり牢屋じゃん!」

みるみるうちに顔から血の気が引いていく。
果たして自分は、裁判も経ずにいきなり牢屋にぶち込まれる程の悪事を働いたのだろうか?混乱のさなか名前は自問自答しーーそして、一つの結論に達した。「働いたかもしれねぇ」と。
パッと思いつく余罪だけでも、十は下らぬ気がする。心当たりが多すぎて、一体どの罪状が決定打になったのかも分からないが。

「でもせめて……でもせめて一回くらい言い訳させて欲しい。弁護士を呼んでください……神よ……」
「またおかしなことを言っていますね」

天窓から僅かに差し込む月光に祈りを捧げていると、嫌というほど聞き慣れた声が降ってきた。
名前は、うっすらと涙の膜が張った目で彼を見やる。

「ううう、出たな山田利吉……」
「また随分な言われようですね」

苦虫を噛み潰したような顔で、山田利吉は腕を組んだ。
最後に見た時、奴は全身を黒衣で覆っていたが、今は見慣れた護衛姿だ。そのことに少しだけ安堵して、名前は緊張を和らげる。

「あの、なんで天女こんな所にいるの?」

おずおずと尋ねると、山田利吉はまた少し難しい顔をした。

「覚えていらっしゃらないのですか?……まぁ、無理もないですね。途中で気絶なさいましたから」
「いや、なんとなくは覚えてるんだけどさ、ここに来る過程がどうも」
「……左様でございますか」

名前が覚えている一番最後の記憶は、山田利吉のとんでもない無礼発言である。今もまだ、胸の奥に怒りの残火が燻っているが、現状が現状なだけに、再び燃え上がるまでは至らない。
山田利吉もそれを察したのか、幾分穏やかな表情で頷きーー

「天女様は、対外的に天女としての資質を剥奪されたことになっておりますので。現在、天女を騙る不届き者として、牢屋に囚われている次第です」
「…………は?」

ーーまたしても、随分とんでもないことを言い出した。

***

「天女の資質を剥奪……って、え???」

山田利吉の言葉を反芻し、名前は白目を剥きそうになった。
天女の資質ーーつまり、名前の体が清らかであること。それが失われたということは、“そういうこと”を意味しているわけだが、

「な、何もなかったのに!?マジで何もなかったのに!?」

いよいよ真っ青になった顔で、名前は悲鳴をあげた。

ーー何もなかった。その言葉通り、名前の記憶が確かならば、あの“とんでも発言”の後、山田利吉は静かに身を引き、名前に指一本触れようとしなかったのだ。
名前が意識を失ってからも奴は静観を決め込み、手出しは一切していない……と、思う。
何故なら、いくら山田利吉が鬼とはいえ、気絶した乙女相手に狼藉を働くほど落ちぶれてはいないだろうし、さすがに何かされていれば、他ならぬ名前が体の異変を覚えるはずなので。
つまり、名前が今こうしてピンピンしていることが、何よりの証拠ということなのだ。だよね?そうであってくれ。希望的観測。

「そうですね、事実はその通りです」
「ほんと!?ほんとに!?良かったー!!」
「…………何ですか、その反応は」

内心ヒヤヒヤしていた名前は、当事者にお墨付きを貰ったことで、心の底から安堵した。首の皮一枚繋がった気分。

しかし、やはり現実はどこまでも世知辛い。
人知れず……というか、結構大っぴらに喜ぶ名前を裏切るように、ふと、山田利吉は酷薄な笑みを浮かべたのだ。

「ですが、それはあくまで私達だけが知る事実。……私は最初に申し上げたはずです。あなたが持つ天女としての資質が、“対外的に”剥奪されたと」

そこまで言われて、名前はようやく事実の重さに気がついた。
古今東西、“何かあったこと”を捏造することは容易くとも、“何もなかったこと”を証明することは、非常に困難を極めるのだ。
その観点から言うと、名前と山田利吉との間に起きた出来事は、当事者間でしか知り得ない。ただ一つ確かなことは、二人が同じ部屋で一夜を過ごしたと言う、その揺るぎない事実だけーー

普段から比較的距離の近い男女が、二人きりで一晩を共にしたのだ。実際がどうあれ、仲を邪推されても文句は言えまい。
おまけに、山田利吉に悪意があった場合は尚更最悪だ。
奴の手にかかれば、さも“何かあった”かのように現場を整え、本人の性根と同様、真実を捻じ曲げることなど造作もないだろう。

「まずいですね」

名前は潔く白旗を上げた。
今思うと、あの絶妙なタイミングで名前が気絶したことも、非常に不自然に思える。十中八九、山田利吉が一枚噛んでいるな。

「これも大間賀時公の差し金なんだろうけど、だとしても牢屋入りは納得いかない。天女に子供を産ませる気なら、こんな体に悪そうな所に放り込むのは逆効果だと思いますし、殺すにしたって表向きだけでも丁重に扱わないと、皆んなが怖がってる天女の祟りとやらが襲いかかってくるんじゃないの?」
「……普段は驚くほどアホなくせに、こんな時ばかり勘が働く」
「それって、“何かある”と言っているも同然ですけど」

探るような目で山田利吉を睨むと、奴は忌々しげに舌打ちした。

「つべこべ言わず、あなたは黙ってここに囚われていれば良いのです。ヘタに頭を働かせるな。動くな。喋るな。余計なことをするな」
「んなー!?なんだと!?」

やんのかオラ!と、名前が鼻息荒く腕まくりするのと、通路の奥から第三者が現れるのとは、ほぼ同時だった。
ーー鈴を鳴らすような可憐な声に、名前は一瞬気を取られる。

「うふふ、天女様ったら鈍いんですのね。この人は、あなたを逃がそうとしてくれてるんですよ」
「えっ、侍女Aが何でここに?」
「“えい”?」

相変わらずお色気たっぷりな風情で現れたのは、こんな場末の牢屋には相応しくない、天女お付きの侍女だった。
具体的には、名前にありがた迷惑な豆知識を授けたり、大間賀時公に賄賂を運んだりしてくれた、“あの”侍女Aである。

天女専属の侍女は全部で十人いるため、識別記号はAからJまで用意しているが、B以下は見分けがつかぬので、その都度対応するアルファベットが変動する。
要するに侍女Aとは、人の顔と名前を覚えるのが壊滅的に苦手な名前が、個として認識している貴重な人材なのだ!……が。

「ん、んんん?ん〜〜〜?」

その顔に何か引っかかりを覚え、名前は首を90度に傾げた。

ーー美人薄幸の象徴か、幸薄そうな下がり眉。少しだけ跳ねた両の目尻。緩やかに波打つ緑がかった黒髪。

「あ、あれ……?あれれ……?」

どこかで聞いたような描写の数々に、名前は声を震わせる。

「あ、あの……え、えっと……」
「………………プッ」

その時、明らかに名前ではない。……ついでに、山田利吉でもなければ侍女Aでもない“男の声”で、小さく吹き出す音がした。

「くっ、くくく、あはははは!嘘でしょ天女様、ほんと鈍すぎですよ!ふふふ……私です私、五条弾です。本当に気づきませんでした?面白いですけど、さすがに少し傷付きますよ。ね?言われてみれば分かったでしょ?私です」

唖然とする名前の前で、彼女はーー否。“彼”は鮮やかに着物を脱ぎ捨て、その下に纏う黒尽くめの服で、場違いなほど晴々とした笑みを浮かべたのだった。

「だから言ったんですよ。天女様とは、結構頻繁に顔を合わせているって」

侍女A改め五条弾は、最後に長い髪を結い直し、どこからどう見てもただの不審者になってしまった。……この、節穴天女ッ!!

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