ぜんぶしりたい
彼女が好きだ。
柄にもなく一目惚れした。
でもすぐに告白するなんて馬鹿なことはしない。彼女のことを全て調べた。職場も、家族構成、友人関係。
彼女の職場まで付けて行った、休日の様子、彼女の目を盗んでスマホだって盗み見た。
彼女のことは全部知りたい。
家に来るような恋人はいない。歯ブラシは一本のみ、食器も布団も全部。
「あの、少し寒いので…」
「ん?暖房強くしますね」
「そうじゃなくて…こっちがいいです」
「え?」
彼女の部屋に初めて来てから数日後のこと。彼がこの部屋に来て二度目。彼女は迷わず彼を迎い入れる。
彼がうっとりとした表情で近づくも彼女はニコニコして気づかない。彼の気持ちには気づかない。
だからびっくりした。こっちがいい、と言われて隣に座っていた彼に抱きしめられる。これはいけない。そんなつもりはない。
「ちょ、」
「はあ、温かいです…」
「いや、あの」
すー…と匂いを嗅がれる。嬉しくて思わず吐息が漏れてしまう。細い、小さい、好き。もうずっとこうしていたい。
しかし、離れようともがく彼女。
「ね?少し離れましょう?」
「僕寒いんです、離れたくないです…」
「暖房強くしますから、」
「やだ、くっつきた」
「こら」
彼女の声のトーンが少し低い。ビクと体を跳ねらせて彼は急いで離れた。嫌われたくない、死んでもそれだけは阻止しないと。嫌な汗を流して彼は真っ青になる。
彼女はというと普段全く怒らないせいか汗を流している。彼女も彼女でどうしていいのかわからないらしい。
「…そういうのはだめです、」
「わ、分かりました。もうしません…」
しゅん、とあからさまに小さくなる彼に彼女はどうしよ…と頭を回す。すると彼は重い口を開いた。
「あの、」
「は、はい、」
「…」
「どうしました?」
「寄りかかるのはだめですか…?」
きょとんとした。まあそれくらいならいいかと彼女は「それなら大丈夫ですよ」と微笑んで言うと彼はぱあと顔を明るくした後、ハッとして顔を引き締めた。その様子を見てた彼女は困ったように言った。彼はいつも緊張してるようだった。
「もっと気を抜いてもいいですよ?」
「それは…」
無理らしい。知り合って間もないのだから難しいだろう。
ぴと、彼が寄りかかってくる。彼女は本を読んでリラックス。
聞けない、恋人がいるかどうかなんて。好きな人がいたらどうしよう。そんな奴いたら消してやる。
彼女は僕が手に入れる。
じぃーっと彼女を見つめる彼に彼女は本を読みながら、凄い視線を感じる…と困っていた。
「そうだ、そろそろ名前を教えてくれませんか?」
「…」
あれ、黙った。
これまでに何度か彼に名前を聞いたが、目を逸らすだけで何も答えてくれない。まさか名前教えられない程やばい人…!?と思ったけどそうには見えない。
「あなたの名前は…」
「苗字名前です。好きなように呼んでくださいね」
「名前、さん」
「はい」
少し恥ずかしいのか彼は顔を赤くした。だけど彼女はニコニコと返事する。
「僕は…」
どれを言えばいい。本来ならあの名前を言うべき。でも、言うのは憚られる。
さっきまでバーボンとして仕事をしていた。初めて会った時もバーボンとして悪いことをしていた。彼女が知れば離れていってしまうこと。
でも彼女は僕に優しくしてくれた。
「バーボン…」
「?お酒の名前?」
「他の人には絶対に言わないでください」
「いいですよ、よろしくお願いします」
「はい…」
彼女だけ。彼女だけがこんな僕を受け入れてくれる。優しくしてくれる。
「バーボン」
「はい」
「ふふ、呼んでみただけです」
「…っ」
可愛い、もっと呼んでほしい。
*
「何してるんですか?」
ある日の夜、彼女の部屋を訪れれば散らかっていた。床には服や鞄、玄関の側に積まれた本が数冊。
彼女に近づいて聞けば「断捨離してるんです」と答えられた。
「使わないものとか要らないものが増えてきちゃって…」
「要らないものはどれですか?」
「え?そこに…」
彼女がベットの方を指差す。ベットの上にも服や鞄が積まれていた。それは小さな山になっていた。彼はそこに向かうと一枚のマフラーを引っ張り出した。彼女と初めて会った日に巻かれたマフラーだ。よく見ると毛玉ができていたり、薄くなっていたりボロボロだ。
「これください」
「結構ボロボロですよ?」
「これがいいんです」
じっと彼に見つめられる。なんでそれがいいんだろ?と思ったが、そんなに欲しいのならあげるけど…と彼女は頷いた。すると彼はぱあと顔を明るくするとマフラーを大事そうに鞄に入れた。
(要らないものは全部欲しいけど…流石に引かれてしまう)
彼女の物は全部欲しいけど、一番欲しいのは彼女の心。
「はー、疲れました」
「お疲れ様です」
ベットにだらんと横になる彼女。断捨離が終わってへとへとだ。彼はベットには乗らず床に座って彼女と目線を合わせる。一応は線引きしないと。
「んー…」
「眠いですか?」
「少し…」
「ふふ、可愛い。寝てもいいですよ」
彼が頬を撫でるとうとうとと彼女の目は閉じかかる。でも彼女は耐えて起き上がった。
「バーボンは普段何してるんですか?」
「…えと」
名前を教えてからよくバーボンのことを聞かれる。今日は何をしたのかとか、来なかった日は何をしてたのかとか。答えられない。人に言えるようなことはしてない。でも答えないと怪しまれる。
「情報収集というか…、……」
「あ、企業秘密だったりします?」
「はい…」
「じゃあ聞かなかったことにしますね」
よしよし、と頭を撫でられる。嬉しい、もっと撫でられたい。するとすぐにその手は離れた。彼女がぽんぽんと自分が座っているベットの横を叩く。座れということだろう。彼は素直に言うこと聞く。ベットに二人…と彼に邪な気持ちが過ぎる。
「変なことしたら怒りますよ?」
「はい」
バレた。冷や汗が流れる。で、でも少しくらい…とちらりと彼は彼女を見る。
じーっと彼女が怪しむ。
「ほ、ほんとに何もしません、し、しんじて、」
わたわたと慌てるバーボンに彼女はおかしくてつい笑いが溢れる。
いつもクールで喜怒哀楽が顔に出ない彼が慌てるのはいつもこういう時。私に嫌われると思った時。
「ふふ、冗談ですよ。からかっただけです」
「…心臓に悪い」
「可愛くてつい、ごめんなさい」
くすくすと笑う彼女。今度は彼がじーっと彼女を見る。拗ねてる、可愛いと彼女はにこにこ。
すると彼は黙ったまま、彼女の太ももに頭を預けた。へっ?と声が出る。
「罰として膝枕してください」
「…もうしてる…」
「頭も撫でて」
「…もう、今日だけですよ」
「…ん」
優しく頭を撫でられる。気持ちいい、ずっとこうしていたい。好きで好きで仕方ない人に優しくしてもらえるのがこんなに幸せなことだなんて。
顔を緩みそうになるのを必死に抑える。
「…(太もも撫でたい)」
「何もしないって約束したのは誰だったかな…」
「!し、しません」
さっと右手を下げる。いつの間にか太ももに伸びていた右手。
でも好きな女性の膝枕でそういう気持ちにならない方がおかしい。いや、我慢しないと嫌われる…。
「…」
「あれ、やめるんですか?」
「……」
生殺し…と彼は耐えきれなくなって彼女から離れた。
彼女に嫌われるのは絶対だめ。無理やりなことをして嫌われるなんて想像したくもない。
「名前呼んで」
「え?」
「名前」
「バーボン?」
「はい」
「ふふ、バーボン」
「うん」
嬉しそう。表情が緩むのを必死に抑えてて可愛い。
「名前さん」
「はい、名前さんですよ」
「名前さん、」
「ふふ、可愛い」
「…」
にこにこしている彼女に彼は見惚れる。いつも笑顔な彼女。
楽しい?僕と一緒にいて楽しい?いつも突然来る男に嫌味ひとつ言わない。いつもにこにこして迎い入れてくれる。
「あの…」
「ん?」
「…初めて会った時、なんで僕を助けようと思ったんですか?」
街中で見た彼女は知らない人を簡単に助けてしまう人だった。怪我した人、道に迷った人…困った人に手を貸す。
そんな有り得ないくらい優しい人がこんな汚い人間のそばに居てくれる。
今でも自分でも信じられない。
「バーボンが困ってたみたいだから」
「…」
「え?もしかして困ってなかったんですか?」
「…別に」
あの時は汚れ仕事をして真っ直ぐ家に帰るのは不味かったから路地裏で時間を潰していた。
困っていたと言えば困っていたけど…。
「…僕と一緒にいて楽しい…?」
恐る恐る聞いた。怖い、返事を聞くのが怖い。
彼女は他の人より優しいだけ。他の人にも優しくする。けど限度があるはず。よく知らない男にしょっちゅう来られては迷惑だ。
怖い、怖い。どくんどくんと心臓が嫌な音を立てる。
聞きたくないけど聞かないと不安になる。
「…」
俯いている彼の頬に彼女は暖かい掌を当てた。彼がハッとして顔を上げると彼女は優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ。バーボンが遊びにきてくれるのとても嬉しいです」
頬を撫でられる。
「ぁ、…」と声が漏れると彼はぶわと顔を赤くした。冷や汗も大量に流れる。それに気づくと彼は素早く反対の方へと顔を向けた。恥ずかしすぎて見せられない。
「バーボン?」
「い、いや、何でもないです」
嬉しい…!嬉しいって言ってくれた…!
僕も嬉しい…!!毎日会いたくて仕方ない。彼女はとても優しいから受け入れてくれる。どんなに僕が汚くても彼女は全て笑顔で受け止めてくれる。
はあ、と熱いため息が出る。
だめだ、もっと好きになる。
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