裏切りの果てに
「苗字さん!すみません遅れてしまって…」
「いえ、今着いたところなので大丈夫ですよ」
とある駅前、人でごった返す金曜の夜。これからどこで飲みましょうか、あそこ美味しいんですよ、と話し始める土井に名前は緊張していた。
これから縁談も何もかも断ろうと決心していた。
(バーボンの方が大切だし、もう親のいいなりになんてならない…!)
あんなに大切にしてくれる人をほっとけない。バーボンには今日は家に来てもいいと言ってあるから来てくれるだろう。だから早く帰らねば。
「あのっ、」
「そうだ。少し離れてますが、おすすめの居酒屋あるんです。そこにしませんか?」
「わ、わかりました…」
言えない
、押しに弱いのどうにかしたい…と心の中で泣く。
街中を歩く人達の中を紛れる白い車…に乗る1人の男が1人の女性を視界に入れる。
「…は?」
と思わずと声を漏らしてしまう。
とりあえず離れてるのなら時間稼げる…と歩いてみたものの…
「あの、本当にこの辺りですか?人通りがないようなのですが、」
「あれー、でも確かにこの辺りなんですよね…」
地図アプリを見せてもらったが確かにこの辺り。
もう店はないのだろうか、別の場所に…と怖くなってきた彼女は別の提案をしようとスマホを取り出すと、電話が鳴った。バーボンからだ。
ひっと声が出そうだった。え、バレた?友達とじゃなくて土井さんだってバレた?いや、そんなことないか。と彼女は土井に断りを入れて路地裏に入って距離を取る。段々暗くなるその道の奥へ入っていくが、彼女は通話の奥にいる彼に気を取られて気づかない。
「バーボン?もしもし?」
返事がない。何かあったのだろうか、と心配になる。
「もしもし?どうしま」
後ろから腕が伸びてきて、口元に何かの薬品を嗅がされる。そのまま眠りにつくと地面には倒れず、後ろにいた男に抱きしめられる。
「僕の名前さん…」
大事に大切に呟かれたその言葉はこの状況と似合わない。すり、と頬擦りするとそのまま彼女を抱きかかえて、落ちていた彼女のスマホも拾って足音を立てず静かな闇に消えた。
「貴方がいけないんですよ」
目を真っ暗にして彼は言う。
「僕は貴方のこと信じてたのに裏切るから」
今日友人と会う予定だったのに男と会っていたことなんてどうでもいい。なんで嘘をついてまでその男と会いたかったのか。そんなこと、考えるだけで気持ち悪い。
「僕の事好きじゃなかったんですか。なのにあんな思わせぶりなことしたんですか」
ねえ、と苛立った声で彼女に問いかける。
けど彼女は眠っていて応えられない。ここは彼の部屋。彼女に馬乗りになると震える右手で彼女の頬を撫でる。
「嫌だ、そんなの嫌だ。あの男の元に行かせない。貴方は僕のものだ。一生、ずっと、死ぬまで」
目がもっともっと闇に染まってしまう。
彼にとって彼女は神であって、その神が信仰していいのは自分だけだ。
でも彼女は神になったつもりはないし、彼とは同じ人間。
「名前さん、好きだ、愛してる。僕のことを好きになって」
彼女を抱きかかえて抱きしめる。彼女がいるだけで安心して眠れる筈なのに、不安で仕方ない。彼女が離れてしまう、どこかへ行ってしまう。
「お願い、僕の名前さん」
ずっとそばにいて。
「ぅ、ん……、」
彼女が起きたのか彼の腕の中でもぞもぞと動き始める。目が開くと目の前にいたバーボンに理解が追いつかずボーっと眺める。
「バー、ボン?」
「…名前さん」
「あ、れ…ここは…?」
「…」
辺りを見回す彼女に彼は黙った。生活感のないマンションの一室。
正直に言えば嫌われる。ぱっと貼り付けた笑顔で彼はこう言った。
「名前さん、具合悪くなってしまったみたいで。僕がたまたま通りかかってここまで連れてきたんです。ここは僕の部屋です」
「そ、そうなんですか。土井さんには悪いことしたな…」
土井さんには。その言葉で貼り付けた笑顔にヒビが入る。
そうですよね、彼のことが心配ですよね。
彼の心の奥深くに黒い渦ができる。
「何故、彼といたんですか?」
「え、えと…それは…」
「友人といる筈では?」
「と、友達は急用でー…」
嘘つき。友達なんて元から会う予定なかったくせに。
彼女を抱きしめる腕の力が強くなる。
僕に嘘つくほど会いたかった。そんなの絶対許さない。
「…そんなに好きですか」
「…へ?」
「そんなに彼のことが好きですか。僕なんてどうでもいいんですね」
「バーボン…?」
彼の様子がおかしくて、彼女は恐る恐る名前を呼ぶが返事はない。怖い、と彼から離れようとすると勢いよく顎を掴まれた。思わず青ざめる彼女にバーボンは冷たく見下ろす。
「彼のことが好きだから僕に嘘をついてまで会いにいったんですよね」
「ち、ちが」
「何が違うんですか?他に理由があるんですか?」
「そ、それは…」
口籠る彼女に更にイライラする。ああもう気持ち悪いと吐き気がする。
一方彼女はバーボンが何かしでかすかもしれないと言えばまるで土井を守ってる風に聞こえてしまい、さらに怒らせてしまいそうで言えない。
ずっと黙ったままでいる彼女に痺れを切らしてそのまま無理やり押し倒した。
驚く彼女は口を開いた。
「な、ちょ、なにして」
「もう心が僕のものにならないのなら身体だけでも手に入れるまでです」
「あの、」
「今ここで孕ませます」
「んっ…!」
噛み付くようにキスされるとすぐに舌が捩じ込まれる。彼女は抵抗するように肩を押したり、顔を背けようとするが彼の力が強くて敵わない。
いやだ、こわいと必死に抵抗する。
「っ、…」
唇の右端を噛まれて顔を歪ませながら離れる。じっと彼女を見つめると酷く悲しい顔をしていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい…」
「…」
「本当にごめ」
「貴方は全く優しくないですね」
冷たく突き刺さるその言葉に彼女は目を見開いて彼を見る。
「ずっと思ってましたよ。優しいと言われるのは嫌だけど、本当はそう言われるように人に優しくしてるんだなと」
「そ、そんなことは」
「…」
青ざめている彼女からバーボンは退いて、腕を引っ張って座らせる。
「貴方は全然優しくない」
「…」
「親が…なんて言ってましたが、貴方が人に優しくしてるのは自分のためにですよね。人によく思われたいから優しくしてるだけで、見返りをもとめてるだけなんです」
「そ、そんなことない!」
反論してきた彼女は彼の胸ぐらを掴んだ。
「そんなこと思ってないです!そんな下心あって優しくしてるつもりはないです!」
「じゃあ何故優しいと言われても嬉しくないのですか?後ろめたいことがあるからでしょう?」
「ちが、ちがう」
「何が違うんです。親に言われて優しくしていたのは親に気に入られる為でしょう。彼との縁談も断れないのは優しさからではなく、自分の保身のため」
「ち、ちが」
「僕に優しくしているのも好きだと言われて断りきれないだけ。人に優しくしてる自分が好きなんでしょう」
「……」
汚い。汚い自分が曝け出されて、目の前が真っ暗になる。
他人に優しくしていたのは結局は自分のためでしかなくて。優しいと言われても心の奥底では罪悪感でいっぱいだった。だから素直に喜べない。
親が、なんて人のせいにすればそんな罪悪感から少し救われる気がした。
「バー、ボン」
「何ですか」
「……私のこと嫌いですか…?」
返事がない。聞くのが怖い、でも知りたくて仕方なかった。
「…僕は僕の全てを受け入れてくれる人が好きです」
「…」
「それが僕の為じゃなくて、自分の為にそうしてくれているのあっても僕は嬉しい」
「……」
「…名前さん」
バーボンが俯いた彼女に腕を伸ばし、抱きしめた。その表情はとても辛そうで。
「僕は貴方と初めて会った時からずっと好きです。自分の為に優しくする貴方が好き。それでも僕のそばにいてくれる貴方が欲しい」
「ぅ、…」
「僕と付き合ってくれますか…?」
月の光しか入らない部屋に彼女の涙が小さく光る。彼女は彼の胸に収まると嬉しそうに小さく呟いた。
「…勿論です」
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