ご褒美

お風呂から上がって髪を乾かしていると、彼がお茶が入ったコップを持ってきた。彼女がいつも風呂上がりにお茶を飲んでいるから。「ありがとうございます」と彼女は乾いた喉を潤した。飲み切ったところで彼が口を開く。


「…それで、名前さん」
「はい、どうしました?」
「…」
「?」


あれ、黙った。名前は乾いた髪を梳かしながら「何か気になることでもありましたか?」と今日会った男性…土井のことなのかと思い聞いたが、彼は頬を赤くして言いづらそうにしている。


「あの、…」
「ん?」
「…命令聞いたからご褒美ください……」
「え?」
「だっ、だめですか…?」


きょとんとして少しびっくりしたが、彼女はすぐに優しく微笑んだ。


「そうですね、何か欲しいものとか…して欲しいこととかありますか?」
「…名前さんが欲し」
「却下」
「…そしたら」


彼はスッと掌を合わせて前に出した。何か欲しいものがあるらしい。


「唾液ください」
「…は?」
「唾液」


今なんて…?と理解するのに数秒かかった。ドン引きした。名前は真っ青になって固まって「ひい…」と声を漏らした。しかし、彼はうっとりとした表情で迫る。思わず退いてしまう彼女。


「唾液欲しいです」
「き、汚いですよ」
「そんなことないです。僕にとってはご褒美です」
「や、やだ、絶対あげないです」
「じゃあ口移しで」
「やだやだやだやだ…!」


本当に口移しするつもりなのかバーボンは彼女の肩に手を置いて顔を近づけてくる。微かに息が荒いのは気のせいだろうか。いや気のせいじゃない。熱い吐息を吐くバーボンに冷や汗が止まらない。逃げないと、でも肩をがっちり掴まれて逃げられない。


「名前さんとキス…キス…」
「いぃいいいい…!」
「はあ、はあ」
「やめてー!」


我慢できない、と言うまでもない興奮した表情が怖くて名前は半泣きになる。
後1cm、唇がくっつくところで名前は勇気を振り絞って言った。


「そんなことしたら嫌いになります…!」
「!!!!!!」


バーボンは素早く離れると「ご、ごめんなさい」と真っ青になった。
彼女に嫌われるのは絶対に阻止しなければならないのに、暴走してしまった。時間を戻したい。


「き、嫌いにならないで」
「バ、バーボン?」
「おねが、貴方に嫌われたら僕は」
「ごめんね。嫌わない、大好きだからおいで?」


彼女がバーボンを抱きしめると不安に駆られていた心が静かになる。
そりゃ、好きな人に嫌いと言われたら不安になるよね、と彼女は反省しつつ彼の頭を撫でた。


「すみません、もう言いません」
「…僕は貴方がいないと生きていけないんです」
「うん」
「貴方はこんなこと言われて嫌かもしれないけど、こんな僕を受け入れてくれるのは貴方だけなんです」
「そ、そんなことは」
「あるんです。名前さん大好き、早く僕の籍に入って欲しい」
「ん?」


なんか余計な一言混じってた気がする。

バーボンの好意って凄く重いんだよなあ…としみじみと思う。普通の好きと違うのは前から気づいてた。というかこの口調だと昔の彼女には受け入れられなかったみたいな感じだけど…。そういえばバーボンの昔の恋愛とか聞いたことない。

そう思った名前は彼と顔を見合わせて話しかけた。


「バーボンは今まで彼女何人いましたか?」
「…」
「え、なんで黙るんです?」
「忘れました」
「忘れる程の経験人数…!」


そんなチャラッチャラな…!とショックを受ける。いやいや、ショック受けなくていい。


「違います。僕は貴方だけを必要としてるんですから、昔の女なんかどうでもいいんです」
「成る程、つまり私が貴方を受け入れられなかったらどうでもいい人間になると」
「!?なんでそうなるんです!貴方は天使!僕と付き合って結婚して一緒の墓に入るんです!」
「え、人生終わっちゃってる」


バーボンの頭の中ではそこまで進んでる…!とギョッとする。
彼の中では私はずっと一緒にいるらしい。正直そこまでは想像してなかったから引いた。最近メンヘラ超えてきたなあと他人事のように思う名前であった。


「それより、ご褒美ください」
「忘れてました。はい、クッキー」
「なんです、これは」
「土井さんから貰いました」
「いりません。捨てます」


缶に入ったクッキーを渡すが、めちゃくちゃ嫌そうな表情をしてバーボンはすす…と避けた。彼女は少し汗を流しながら、彼を怪しみながら言った。


「まともなのでお願いします」
「うーん…?」
「いやいや、何を言ってるのかわからないって顔やめてください」
「髪の毛もらう、とか?」
「だめです」
「…爪」
「だめです」
「…」


むす、と不機嫌になるバーボンに彼女はどうしたものかと悩む。そんなものもらってどうするのかと。聞くのも怖い。


「何かをあげる系はなしでお願いします」
「…」
「はい、は?」
「はい…」


渋々、頷いた彼を名前は撫でる。流石にあれもダメ、これもダメと言い過ぎたか。うーん…とどうしようかと考える。


「…添い寝」
「え?添い寝?」
「少しだけ一緒に横になりたい」
「まあ少しだけなら…」
「ふふ、」
「変なことしないでくださいね」
「はい」


一瞬、怪しくなったけどまあいいか、と彼女はベッドに横になるとポンポンとシーツを優しく叩いた。じーっとその手を見つめるバーボンに名前は微笑んだ。


「おいで」


その言葉にぱあ、と顔を明るくすると彼がベットに手をかけて彼女の隣で横になった。
幸せ…と彼女を見つめると名前は彼のさらさらの髪を撫で始めた。


「最近のバーボンは隙あらばアピールしてきますね」
「だって早く貴方を恋人にしたい…」
「うん、知ってますよ」
「あの男の方に行って欲しくない…」
「うん」
「…名前さん」
「ん?」


少し目を泳がせて、彼は彼女の顔を見た。


「どうしたら僕と付き合ってくれますか?」


その問いに彼女は目を見開いて、すぐに困ったように微笑むと彼の後頭部を撫でて、自分の方へと寄せた。その力に抗うことなく彼は彼女の胸に抱かれると寂しそうに呟いた。


「…名前さん、好き」


その言葉に彼女は答えることなく、彼の頭を撫で続けた。





それから何分経っただろう。どちらとも喋らず、静かにしているとその内、頭を撫でる手が止まった。肩にかかるその腕を彼女の胸元に置くと、彼は音を立てないように体を起こす。じい…と彼女を見ると、寝ているのか寝息を立てていた。疲れてしまったのだろう、そのまま寝てしまった。

寝てくれたらいいなと思って飲み物に軽い睡眠剤入れていたが、寝てくれてよかった。


「…」


そのまま視線を逸らしてベットから降り、足音を立てずにテーブルに置いてある彼女のスマホに手を伸ばす。慣れた手つきでパスワードを解いて、操作するとすぐにメールボックスを開く。


「……」


気持ち悪い、と閉じる。


「…」


スマホを戻して、ベットで眠る彼女の元へ。また静かにベットに乗るとそのまま彼女の上へ跨がる。


「……ふふ」


可愛い、可愛すぎる。
少し開いた唇も長いまつ毛も柔らかい頬も。ふにふにと頬を突くが起きる気配はない。


「名前さん、名前さん…」


彼女を求めるように呟くと彼女の顔の横に手をついて、顔を近づける。微かに呼吸が荒い。興奮しているのか頬も赤くなってきた。


「ん、…」


音を立てずに彼女の唇に自分のそれを重ねるとすぐ離して、れろ、と舐める。腹の底からぞくぞくとする感覚に自分が如何に彼女のことを好いているのか自覚する。
ずっと彼女を手に入れることだけを考えて、喉から手が出る程欲しい彼女が今の目の前で無防備に寝ている。
目をぎらつかせて、彼女を見下ろす。勝手に荒くなる呼吸を落ち着かせながら思う。

口の中が唾液で溢れそう、…早く、早く。起きないように、静かにしなきゃ。


「はあ…最高…」


これからじっくりと堪能しよう。
夜はまだ始まったばかり。



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