優しい人

人に優しくなければならない、そう教えられてきた。

小さい頃からそうだった。でも始まり凄く些細なこと。幼稚園の頃、友達とうさぎのぬいぐるみの取り合いになった時、彼女の母親が迎えにきて幼い名前は母を見つけてこう言った。


「おかあさん!ユキちゃんがね、わたしのぬいぐるみちょうだいって!ひどいよね!」
「あらあら、そのぬいぐるみは名前のじゃないでしょ?」


そのぬいぐるみは幼稚園のものだった。名前が先に使っていたぬいぐるみを友達が欲しがっただけ。よくある光景、よくある出来事。


「でも、」
「そしたらそのぬいぐるみは友達に譲ってあげないとね」
「え、さきにわたしが」
「名前はもう使ったんでしょ?友達には優しくしないとダメよ」


さ、もう帰るよ?と母親は彼女の小さな手を引く。もう帰るからぬいぐるみは渡そう、ぬいぐるみは皆のものだから独り占めしてはだめ、そんなことは言われなかった。
ただひたすらに人に優しくすることを言われた。

それからいつもそうだった。何かある度に優しくしなさい、貴方は優しい、いつも言われる。彼女はうんざりしていた。でもそれに答えないと捨てられると思ってもいた。

だって親だから。

親が正しいのだから。実際、優しくして悪いことはない、寧ろ良いことだ。優しくして喜んでくれる人もいるのだから。

だからやめられなかった。

もし優しくすることをやめて母親に嫌われるのなら、優しくした方がいい。
見捨てられるのはとても怖い。

しかし、高校三年の夏に母から言われた言葉で段々それがおかしくなっていった。
部屋で勉強していた彼女の元に母親が困ったように入ってきた。


「お母さん、どうしたの?」
「ああ、名前。ちょっと話があるのだけれど…」
「うん?いいよ」


名前はシャーペンを机に置いて話を聞く姿勢になる。


「モエちゃんがグループの子と喧嘩したってモエちゃんのお母さんから聞いてたの」
「あー…そういえば今日の昼休みになんか言い争ってたな…」
「名前は何か聞いてないの?」
「?聞いてないよ。そもそもグループ違うし、モエちゃんも相手の子もそんな仲良くないし」


何の疑問も持たずに言った。母親はてっきりモエちゃんの母親が心配して詳しい状況が知りたいから自分の母親を通して私から話を聞きたいものだと思った。
しかし、母親の困惑した表情を見て一瞬で悟った。違うと。


「名前はモエちゃんに優しくしなかったの?」


なんで、どうして、と頭を巡る。顔を青くして俯く。
どこまで優しくすればいい、誰に優しくすればいい。優しくしたところでワンランク上の優しさを求められる。
当時の彼女は周りから優しい子だと評価されていた。


「や、優しくするつもり、だよ、」
「そう!モエちゃん、傷ついてるみたいだから優しくしてあげてね」
「う、うん」


よかったよかった、と母親は部屋を出て行った。

生きづらい、やりづらい、休みたい。
いつまで母親の機嫌を取ればいいのか、いつまで優しくあれと自分に言い続けなければならないのか。


「本当の私は面倒くさがり屋ですし、冷たいのにずっと優しいって思われてて疲れちゃうんです。でも心のどこかで母親は正しいのだから優しくしないといけないって思ってて…」
「…」
「…って凄く重い話になっちゃいましたね!すみません」
「名前さん」
「わっ」


バーボンは彼女を優しく抱きしめる。彼女の過去も想いも何もかも知って…嬉しかった。
名前も彼に抱きしめると、少し心が軽くなったのか表情が明るくなる。


「話してくれてありがとうございます」


感謝しないと、彼女の母親に。

まずこの世に彼女を産み落としてくれたこと。
そして今の優しい彼女を作ってくれたこと。
もしなんて話をすればキリがないが、そのくだらない拘りが無く、優しくない彼女が出来上がったとすればの話。初めて彼女に会った時、彼女は僕を助けてくれなかったかもしれない。そうなればこうやって一緒にいることも関わり合うこともなかった。
感謝しないと。


「こうやって話してくれて僕は凄く嬉しいです。辛かったですね、凄く辛かったですね」


彼女を手に入れる為なら、彼女の母親だって利用する。
その拘りも利用して、その縛っている鎖も利用させてもらう。
そして今度は僕だけの彼女になってもらう。





「バーボン、私頑張ろうと思います」
「?何をですか?」


彼女が少し自信満々に言うので彼は首を傾げた。親のことなのは予想がつくのだが、何を頑張るのだろうか。


「明後日、お相手の男性に会うんです」
「…」
「なので!直接会って私の気持ちを言おうと思います!」
「だめです」
「え!?」


即答したバーボンに名前はびっくりする。あれだけ自分ではっきり言わなきゃダメと言っていたのに。
すると、隣に座っていた彼が顔を近づけてきた。


「二人きりで会うんですか?そんなのだめに決まってます。襲われたらどうするんですか。僕の気持ち分かって言ってますよね。それともその男がもし良い人なら付き合おうなんて思ってます?」
「いや、そんなことは」
「それに明後日は僕、仕事で貴方の側にいれないんですよ。そんな状況で何かあったら僕…平静を装えない…」
「いや、目が怖い目が怖い」


何かしでかしそう。目を真っ黒にして言う彼に彼女は首を振る。最近とても怖い。結婚するとかそういうつもりはないが、…どうやらメンヘラ君を誕生させてしまったらしい。
名前は私のせいだ…と反省した。もっとしゃんとしよう。


「バーボン、大丈夫です!ちゃんと断ってきます!」


彼がメンヘラになるのは不安になっているから。不安になるのは私が曖昧な態度をとるから。
そう考えた名前は自信満々に言った。
しかし、彼の表情は青くなるばかり。


「せ、せめて僕がいる時にしてください」
「一人でも大丈夫です!信じてください!」
「い、いやだ、僕の名前さんが他の男と会うなんて、」
「いつから貴方のものになったんですか?」


あわあわと焦るバーボン。そんな彼の様子を見て名前は彼の頬を撫でる。


「ね、信じて?ちゃんとはっきり断りますから」
「…」
「嫌なのは分かります。バーボンの気持ちも分かってます。だから断ってきますから」
「…そ、それは、」


目に光を戻して、寧ろキラキラしてる彼は彼女に見惚れていた。
そんなことを言われると期待する…と見つめる。僕のために断ってくれる。


「…名前さんは僕のこと、好き?」
「…まだ言えないかな…」
「誑かされてる…」
「え!?あ、ご、ごめんなさい…」
「いいですよ、そんな扱いも嬉しいです…」
「うん?」


ん?と首を傾げる。照れ照れと嬉しそうにする彼を見て、なんだか何しても喜ばれるから逆に何が良いのかわからなくなる。そんな彼女に気づいたのか彼がべったりと抱きついてきた。


「僕は名前さんのこと大好きです」
「は、はい」
「貴方が思っている以上に貴方のことが好き。会った時からずっとどうやって手に入れようか考えてた。正直、無理矢理手に入れてもいいかなって思ってた。後で洗脳すればいいだけですし…」
「あの、」
「早く僕のこと好きになって下さいね…」


なんか怖いこと言った!と名前は青ざめる。これは大変そうだ。
バーボンはやはりメンヘラなのかもしれない。言動が怖い。


「だから絶対二人きりなんてだめですよ」
「わ、分かりました」


って言ってないと彼が何かしでかしそう。
少しでも穏便にことを進めたい。


「はあ…あの男どうにかしないと…」


ボソ、と聞こえた言葉に名前は脳裏にあの男性のことを思い出して南無阿弥陀と唱えた。



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