どちらが上なのか
「さあ、名前さん。何なりと僕にお申し付けください」
「いや、でも悪いですし」
「遠慮しないで。僕は貴方の犬なんですから命令されることが幸せなんです」
グイグイと迫るバーボンに両手を握られて名前は後ずさる。あまりの彼の積極性に引いてしまい、言葉に詰まってどうしていいのか分からない。
ただ目の前にいる彼が何故こんなことをしているのか、疑問だった。
結婚の話をした途端に人が変わったように迫ってくる。
「ああ、名前さんは結婚をどうにかしたいんですよね」
「そ、そうですが」
「全て僕に任せてください。相手の男の知っている情報を教えてくれればすぐに消し」
「いやいやいやちょっと待ってください」
また怪しい言葉が出てきた。
彼女が急いで遮ると彼はニコニコして黙った。
「そんな物騒な言葉使っちゃ駄目ですよ」
「分かりました。気をつけます。貴方の命令は絶対ですから」
「…」
いやそこまででは…とまた引く。
犬というより…なんだろ、言葉が見つからない。可愛い犬ではない気がする。
「と、兎も角、犬とか命令とか…そういうのは無しにして下さい」
「駄目です」
「へ、?」
「貴方の犬じゃなくなったら僕は捨てられるんですか?それは駄目です、絶対許さない。そんなことしたら死にます。貴方を殺して僕も死ぬ」
「いいい…怖い…」
目が本気だった。「う、嘘です、冗談です」と名前は真っ青になって撤回した。すると彼はまたニコニコして「もう二度とそんな酷いこと言わないでくださいね」と釘を刺した。
なにこれ、メンヘラっていうの?そういうの分からない、でも先輩の昔話に似たような人聞いたことある。いやいやバーボンそんな人だったの!?と驚きを隠せない。今までちょっと変わってると思ってたけど!と。
そう目を泳がせているとバーボンは彼女の頬に手を添えて無理やり自分の方へと向けさせた。
「ねえ、名前さん。…名前さんは結婚したくないですよね?」
「へ?は、はい」
なんだろ、このはいかイエスしか答えがない質問。
「なら僕に命令出来ますよね?」
「…ん?」
「まあすぐに結婚とは流石にならないと思いますが、やるからには早いに越したことはないですし。早めに手を打っておきましょう」
「さっき私が物騒な言葉使っちゃ駄目って言ったからマイルドな言い方になってますけど、意味は一緒ですよね?」
「そんなことないですよ」
にっこにこな彼を彼女は疑うが、実際そういう意味で言った。でも彼女の命令は絶対なのだから、逆らう事はできない。
全ては彼女の為。
僕の体も心も好きに使ってほしい。
それが僕の幸せ。
早くそんな幸せが実現してほしい。まず、彼女を手に入れる前に僕が彼女のものにならなくては。
「さあ、僕に命令して?」
想像しただけで興奮する。大好きな彼女から初めての命令。嬉しすぎる。それは巡りに巡って僕の為になるのだから。
すると、難しい表情をして彼女は黙った。どんな命令を下すのか迷っているのだろう。
「…じゃあ、私の質問に答えてください」
「?分かりました。何ですか?」
結婚をどう阻止するつもりなのか、男をどう始末するつもりなのか、きっとそういうことを聞きたいんだと思った。
けど、違った。
「…」
「名前さん?」
「…いや、そのー…多分聞いて違ったらバーボンは引くと思うんですけど、…」
「僕が名前さんに引く訳ないじゃないですか。何でも聞いていいですよ」
「……」
「僕の気持ちとかそんなこと気にしなくていいんです。僕は貴方の思うままに動きたい」
名前さん早く、という言葉を飲み込んで急かす。隠し事なんてやめてほしい。僕は貴方の全てが知りたいのだから。
バーボンの好きは好きで収まりきらなかった。常に彼女の為に動いて、いつかは褒められたい認められたい。
その温かい手で僕の全てを受け入れてほしいとまで思っている。
「…バーボンは、その、私のこと好きなんですか?」
その瞬間、時が止まったように部屋が静かになった。斜め下を見て彼女は彼の顔を見ないように努力した。聞いてしまった…と後悔と期待。
しかし、彼から返事はない。いつの間にか頬にがっちりと添えられていた両手は離されていた。この空気…絶対聞いちゃいけなかったやつだ…と死ぬほど後悔する名前はやっぱり間違いだったんだと悟った。
いくらなんでも何もわからないままではなかった。流石にここまでされれば心の端で勘づいてしまう。
「あの、バーボン…忘れてください」
「…」
「…バ、バーボン…?」
ちらりと彼を見る。
すると彼は目を泳がせて顔を真っ赤にしていた。ぽかんとする名前に気づくと彼は焦って口を開いた。
「も、勿論です!な、何言ってるんですか、いつもす、好きって言ってるじゃないですか!」
「えと」
「名前さんだって僕の事好きですよね!?それと同じです!!」
「そ、そうですね」
あまりの彼の焦りように置いていかれる。
「そ、それじゃ僕はそろそろ帰ります!」とわたわたと彼は慌ただしく玄関に向かった。顔から火が出るくらい熱い。まさかそんな事を聞かれるとは思わなかった。でも確かにやり過ぎた。
(どうしようどうしよう、確実に彼女を手に入れられるまで隠しておくつもりだったのに…!)
気づかれて冷や汗が流れる。
彼女が結婚という耳に入れたくないワードのせいで空回った。先を急いでしまった。いつものどうでもいい女なら思い通りに動けるのに、彼女を目の前にするといつも調子が狂う…。
赤くなったり青くなったりするバーボンに彼女は申し訳なさそうに口を開いた。
「…バーボン、変なこと聞いてごめんなさい」
「い、いえ、…」
「…」
「…あの、また来てもいいですか…?」
このせいでこの関係が終わりになるのは絶対に嫌。告白はまだ早い。あともう少し頑張って彼女が惚れてくれるまでは待たなくては。
彼女はきょとんとしてふわりと微笑むと言った。
「はい、またおいで」
どき、と心臓が高鳴る。吸い込まれるように彼女に手を伸ばすと、彼女の腕に触れた。
だめだ、もう止まらない。
「そんなこと言われると期待してしまいます…」
「…、」
「名前さん、僕だけにそういうことしてくださいね。他の奴にはしないで」
「…」
困惑しているのだろう。彼女は困ったように微笑むと「寒いですから、帰ったらすぐに暖かくしてくださいね」と彼の頭を撫でた。
彼女のアパートを後にすると、彼は車に乗って自宅へと向かった。
頭の中がふわふわする。何だろう、これは。幸せ過ぎて麻痺してる感じ。有頂天になっているのか、お花畑になっているのか。どっちにしろ心地いい。
アパートに着くと彼は軽い足取りで部屋に向かう。仕事で疲れてる筈なのに足が軽い。彼女もきっと僕のことが…と期待してしまう。頑張ってきた甲斐があった。もっと、もっと頑張らないと。
部屋に入るとすぐに暖房をつけた。
「名前さんの命令は絶対…」
ああ、でもあの質問の答えはちゃんと言ってない。分かってた、恋愛的な意味で聞いたのだと。でも結果的に良い方向へと進んでいる。最高だと思う度に熱い吐息が漏れてしまう。
「名前さん、名前さん…」
テーブルに置いてあった一枚の写真を手に取る。それには彼女が映っている。
彼は彼女の写真を彼女の許可をもらって撮ったことはない。つまりこれは隠れて撮ったもの。初めて会った時、彼女を調べていく途中で撮った。
「すき…だいすき、名前さん、だいすき」
好きすぎて気持ちが止まらない。
可愛い、可愛すぎてそのままの意味で食べたい。早く欲しい。でももう少し我慢。そうすれば食べさせてくれる。
「待っていてくださいね、僕だけの名前さん…」
彼の視界の端に床に落ちているファイルから覗く何枚かの写真。
*
「で、僕考えたんです」
「何をですか?」
「名前さんが結婚しない方法」
何だか当初の趣旨から段々離れていってる気がする。
床に座っている彼女の後ろから当たり前のように抱きついている。
「一番はご両親に断ることですよ」
「…」
「名前さん?」
「…それは、そうなのですが…」
「正直な話、僕を使うにしろ何にしろ貴方がはっきりとしない限りこの話は終わりませんよ」
彼の言う通りだ。いくら彼が入ってこようが結局は彼女の問題。嫌なものは嫌とはっきり言わない限り両親は黙らない。
うう…と小さくなる彼女をバーボンはよしよしと撫でる。
「そんなにご両親に言うのは嫌なんですか?」
「…まあ、…」
「仲が悪いとか?」
「…そんなことは、ないです」
「話したくない?」
「…」
話したくないらしい。
正直、調べたが何も出てこないのはきっと彼女が誰にも話してないから。あの先輩にも脅し…聞いてみたが何も知らないと言っていた。ただ気になることは言っていた。
『…名前は…優しいって言われるのはあまり好きでは無い、みたいです、…』
確かにその節はなかったわけでは無い。
家庭内という閉鎖的な空間。外野からわかりづらく、当事者にとって気づきにくい。例えば親が子に間違ったことを教えても子は正しいと思ってしまう。大人になってそれが間違いだと気づいても子供の頃からの常識はそう簡単には消えない。しかも家庭内で行われていたことなら外野も気づかない。
「僕は何があっても名前さんの味方ですよ」
彼にとって彼女が正しいとか間違っているだとかは問題ではなかった。
彼女が他の男と結婚してしまうこと、それを阻止しなくては。
「…本当に?」
「勿論です。寧ろ離れるなんて言われたら…ふふ、どうしようかな」
「え、怖いです」
怪しい笑みが溢れて、バーボンは抱きしめる力をぎゅっと強くする。
「名前さんが僕のことどう思っているのかわかりませんが、名前さんが思っている以上に僕は貴方のことが好きですよ」
すると彼女はくるりとバーボンに向き合うように体を動かした。ニコニコしている彼に反してちょっと困った表情をする名前。彼女は少し黙って彼の顔を見つめたまま眉を下げて言った。
「…逃してくれなさそうですね」
「勿論です」
「…何だか深く考えてたのが馬鹿みたいです」
ぽすんと彼の肩に頭を乗せると彼女は顔を見せないように嬉しそうに笑う。頭を撫でられるとはあと一つため息を吐いた。
「いいですよ、教えます」
そして彼女はぽつりぽつりと話し始めた。
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