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一週間後、杯戸病院の一室でドアの横には『苗字名前様』と書かれてた名札がかけられていた。
看護師はドアをノックして「苗字さん、入りますよ。」と開けるとそこには誰もいなかった。外された点滴と捲られた布団が窓から入るそよ風に揺れている。看護師は慌てて部屋から出て「先生!苗字さんがいません!」と廊下を走った。

その数分後、安室は花束を持って病院にやってきた。この一週間、毎日彼女の元へ訪れていた。しかし彼女の目が覚めることはなかった。
高熱が続き、薬も飲めず点滴で投薬されて一週間。医師から「…何とも言えない状況です。」と言われた。

「いいから探せ!」「どこに行ったのかしら。」とバタバタすると院内。安室は何かあったのだろうかと近くにいた看護師に話しかけるとその女性は安室をみると目を見開いて言いづらそうに言った。


「こ、こんなこと、言えないのですが…。」


苗字さんがいなくなりました。その言葉に持っていた花束を落とした。
安室は走って院内を駆け巡った。彼女のいた個室は勿論誰もいなくて、何かヒントになるものは…と入るとベット横のチェストにスマホが置いてあるのを見つけた。
ロックはかかっていなかった。まるで見て下さいと言わんばかりに。
安室は躊躇なくそれを開いた。メールボックスに一件、通知が来ていた。


『これを見てるということはきっと私はもうどこにもいないでしょう。最後まで迷惑かけてごめんなさい。優しい安室さんだからきっと探してくれてるのは分かってます。でも探さないでください。』


これを読んで探さない、という方がおかしい。安室はスマホをポケットに入れて屋上を目指した。メールからしてこれから死ぬ予定なのだろう。死んでいたら大騒ぎになっているからまだ彼女は死んでいない。


「名前さん!」


屋上の扉を開けると洗濯されているシーツが干されてあった。そのシーツの間から見える彼女の後ろ姿。髪が風に乗って揺らいでいる。頭に包帯が巻かれている少女は屋上の高い柵に手をかけてそこから見える広い景色を眺めていた。
安室はよかった…と彼女に近づいた。


「名前さ、」
「安室さん。」


未来を見た…いや足音で気づいたのだろう。自分が近づいていると。安室は足を止め、彼女の言葉を待つ。


「お別れだね。」


名前はそれだけ言った。それは死を意味するのではなくて、きっと。
安室も分かっていた。この後の彼女の居場所を。もうあの住み慣れたマンションではないということを。


「…私ね、もう左目見えないの。失明しちゃった。今までの代償に耐えきれなかったみたい。」
「…。」
「右目は見えるから大丈夫。未来も試しに見てみたけど見えたから警察の役に立て、」


安室はいつの間にか後ろにいて彼女を抱きしめた。
その先の言葉を聞きたくなかった。やめてくれ、もう自分を傷つけるのはやめてくれ。


「安室さん。あのね、ママもお兄ちゃんもお姉ちゃんも怒ってた。」


あはは、と名前は笑った。でも声は震えていた。


「パパのことかなあ、パパは地獄に行っちゃったみたい。」
「名前さん、」
「当たり前だよね。私もね、行かなきゃ。パパ一人にはできないもん。」


だから離して、と彼女は言った。けど、安室は強く抱きしめて離そうとしない。寧ろ、ぐっと力を強くした。そうしないと彼女は今にも飛び降りそうで。


「皆怒ってませんよ。」


優しく暖かい言葉に名前は黙った。声を出せば涙が溢れてしまいそうだから。


「家族一緒にいたいと思うのは自然のことですよ。きっとお母さんもご兄姉も皆名前さんと一緒にいたかった。」
「でも、」
「そうです、残された者は生きていくしかないんです。」


だから、泣いていいんですよ、と安室は名前と向き直った。
少女は静かに泣いていた。ポロポロと大粒の涙を流していた。少女は安室の胸で蹲って目を瞑った。


「…天国、行きたかったなあ。」
「…そしたら残された人たちが悲しみますよ。」
「…。」


安室は彼女の頭を撫でた。

生きてくれてありがとう。

あの後、名前が自分のこめかみを撃ったと同時にガンと拳銃から鈍い音がした。どこからか銃弾が飛んできたのだ。
あいつだ、とそれ以外考えられなかった。
でもそのおかげで彼女が撃った銃弾の軌道はずれて頭に掠っただけだった。でも彼女は倒れて気を失った。その傷から出た血は額に流れ、顔に伝った。
生きた心地がしなかった。
慌てて彼女に触れた時、異様に体が熱かった。熱を出していた。僕は急いで救急車を呼んで彼女をこの病院に運ばせた。


「安室さん。」
「何ですか?」
「いつか迎えに来てくれる?」


突拍子のない話。いや、分かっている。もうお別れなのだ。
不安そうな彼女を安心させるように安室は背中を丸めてその柔らか唇にそっとキスをした。
離れると彼女は涙を拭いて、ふふと嬉しそうに微笑んだ後、安室に抱きついた。


「絶対迎えに行きますよ。」


絶対なんてない未来。いつか道端で死んでるかもしれない生活。

でも彼女を一人になんてしておけない。彼女の為にも自分の為にも。


「僕には貴方がいないとダメなんです。」
「…。」
「ずっと側にいてくれますか?隣で笑ってくれますか?」
「ふふ、」


小さく笑う名前に安室はそんな面白いこと言ったっけと首を傾げる。彼女は少し離れて安室の顔を見る。少女の頬は赤くなっていて恥ずかしそうだった。


「プロポーズみたいですね。」


プロポーズ…?と理解するのに数秒かかった。熱いくらい顔が赤くなる。「あ、いや、その、」そんなつもりで言った訳でない。でも、彼女が他の男のものになるなんて考えられない。
すると彼女は再び安室に抱きついた。体温がとても暖かくて、そうだ、彼女は熱を出していたんだと思い出される。


「勿論いいですよ、ずっと隣にいます。」


その優しい声に僕は安心して彼女を強く抱きしめた。


「安室さん!見つかりましたか!?」
屋上に名前を探していた看護師が勢いよくドアを開けて入ってくる。しかしそこにいたのは幸せように手を繋いで眠る名前と安室の姿があった。
看護師はあらあら、幸せそうね、とふっと微笑んだ。



それから3年後。
都内にある誰も知らない、誰も来れない場所に名前はいた。高いコンクリートの塀で囲われた広い敷地には草木が綺麗に整えられて生い茂っている。青い空をぼーっと見て名前はベンチに座っていた。腕の中には安室から初めてもらったクマのぬいぐるみがあった。今の彼女の唯一の友達はこれのみ。それ以外のぬいぐるみはかつて一緒に過ごしていた安室のマンションに全て置いてある。

(…今頃、皆どうしてるかなあ。)

チチチ、と小鳥が飛んでいる。

病院を退院した後、私は米花町に住むのは危険だと警察が判断してここに送られた。いや住むことになった。
最後に学校に行かせてくれと安室さんに願った時、彼はとても困った表情をしていた。自分の立場は分かってる。いつ組織に狙われているかわからない、殺されてもおかしくない。


「最後のわがまま聞いてほしいです!」


と言うと安室さんは言ったんだ。
最後だなんて言わないで、もっと言っていいんですよ、と。
嬉しかった。また会えると約束してくれて。
ううん、病院で約束したんだもん、迎えに来てくれるって。

左手の薬指に光る指輪。

これは最後の日…いや、また会おうと誓った日にあのマンションで安室さんが付けてくれた。
幸せの指輪らしい。


「名前さん、僕のこと忘れないでくださいね。」
「勿論!絶対忘れませんよ。」


笑顔で答えると安室は眉を下げてふっと微笑んだ。それはきっと悲しいのだろう。私もそうだ。ずっと側にいてくれた。忘れる訳がない。
私は安室さんに抱きついて、頬にキスした。ムッと唇を尖らせる安室さんに私は首を傾げる。


「ここ。」


と安室さんは自分の唇を指さした。ふふ、と私は甘えただなあ、と笑うと彼は「名前さんのせいです。」と拗ねたご様子。
どちらともなく唇を寄せてキスすると微笑み合う。
幸せだなあ。


(安室さん…。)

彼は私のことなんて忘れてしまったかな。それでもいいや。ちょっぴり寂しいけどお仕事忙しいもんね。もう3年も会ってないし。
スマホも使えないこの環境で、安室さんは勿論、蘭や園子とも連絡は取れなかった。
最後に学校に行った日、蘭と園子には転校すると嘘をついた。悲しむ二人を見て胸が痛んだけど仕方ない。いつか会えるよ、また遊ぼうと約束した。
それからその日は出会った人達と約束をした。絶対米花町に帰ってくると。

そうそう、退院した後コナン君の時計型麻酔銃は返したよ。コナン君は帰ってきてくれて良かったって安心した表情で言ってくれた。


「苗字さん、お時間です。」
「はい。」


私は今、この施設で暮している。
最初は警察のお偉いさんがよく来ていた。組織のことを詳しく聞きたいと。でもあの部屋に軟禁されていた私は詳しくは知らない。ある日、私が「右目だけでも未来は見えるので警察の役に立てますよ。」と言うと警察の方は困ったように微笑んで言ったんだ。


「貴方はこれから幸せになることだけを考えてください。」


その言葉はとても暖かくて組織の人間から聞いていた恐ろしい警察像からかけ離れていた。
その後は色んな医者が来た。精神科医、眼科、脳外科、詳しくないけどこんな感じ。未来見える私の構造を調べたいのだとか。

正直、安室さんがいない生活は退屈だ。

朝起きて、勉強して、ぬいぐるみと遊んで、ご飯食べて、また勉強して。夜になったらテレビを見てそのまま寝る。
でもいつか安室さん会える、友達に会える。そう思うと頑張れる。


私は前を歩く看護師についていく。果てしなく続く廊下。あれ、いつもの部屋とは反対の方向だ。どこにいくんだろう。この後、勉強じゃなかったのかな?
案内された小さな待合室。「ここで待っててね。」とソファに座らされて看護師は部屋を出た。
チクタクと時計の針が進む。
まだ慣れない左目の眼帯を弄る。もう左目は全く見えない。
部屋の外から聞き覚えのある足音が聞こえる。
誰だろう、未来を見てしまおう、と思った矢先とあることを思い出した。この施設に来る前、安室さんは言ったんだ。

もう二度と未来は見てはいけませんよ。

きっと右目も失明してしまわないようにと言いたかったのだろう。
もうそんなことしないのに、過保護だなあ。
と思いつつ私は未来を見るのをやめた。

ガラリとドアが開く。そこにいた人物に私は目を見開いた。だって、現れたのは…


「あ、安室さん…。」
「名前さん。」


涙が自然と流れる。これは夢?夢なの?
私はソファから立ち上がって彼を見る。変わっていない彼の姿にもう一度名前を呼んだ。


「…安室さん!!」


私は走って安室さんに抱きついた。懐かしい匂いと体温。…暖かい。私は離れたくない、嬉しいと涙を流しながらぎゅっと強く抱きしめた。
寂しかった、辛かった、覚えていてくれて嬉しい、色んな感情が混じる。
それに答えるように安室さんは私を抱きしめてくれる。

ずっと会いたかった。
会いたくて会いたくてしかたなかった。

安室さんはそう言ってくれた。
私だってそうだよ。

これからもずっと一緒だよ。



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