32

心にポッカリと穴が空いた感じだ。
何も感じない、悲しみも嬉しさも、暖かさも。

またあの生活に戻るのか、あの組織の部屋にいた時のように。


「名前ちゃーん、よく眠れましたか?」
次の日の朝、田所は笑顔で名前の部屋をノックした。…返事がない。眠っているのだろうか。「名前ちゃーん?」とそろーと田所は部屋を開ける。部屋は窓から朝日が差し込んでいて明るかった。名前はじーとベットから窓の外を見ていた。目が反射して透き通るように輝いている。しかし、それとは正反対に表情は暗かった。


「…名前ちゃん、朝ご飯できました。一緒に食べましょう?」


名前は返事をしない。田所の方を向こうともしない。
ど、どうしよう、と田所は冷や汗を流す。
すると「いい加減にしなさい。」と太田の冷たい声。


「貴方、いつまでふてくされてるつもり?」
「ちょ、先輩…。」


それはキツいですよ…と田所は慌てる。名前ちゃんは傷ついてるんですから…。
太田ははあ、と溜息をついて名前を腕を無理やり引っ張ってリビングに入れた。
「ら、乱暴はだめですよ!」と田所は追いかける。
朝食は焼き魚だった。温かいのか湯気が出ている。しかし、名前は食べようとしない。


「焼き魚が好きって資料に書いてあったので、私が作ったんですよ!」


ずずーと太田は味噌汁を飲んでいる。「そうだ。」と話し始めた。


「この際だから言っておくはね。貴方はもう警察側の人間よ。組織の物じゃないの。"目"を使う時は私達の指示が絶対よ。」
「せ、先輩…!今はそんな話…!」
「じゃあ、いつするの?こういうのは早く理解させておくべきよ。」


田所は慌てて名前の方を向き直った。表情から気持ちは読み取れない。
まるで人形みたいな子だ…。





「あの子が"人形"?可愛いー!」
「まじで女の子だったんだ。」
「話してみたいなー。」


公安部は名前の話題で持ちきりだった。廊下には野次馬でごった返していた。
名前は本庁に連れてこられた。今日から毎日ここに通うのだ。警察の人間として。
仕事をしている太田の隣に座ってぬいぐるみを抱きしめている。誰とも目を合わさない。ここが怖いのだ。周りが敵だらけ。怖くない訳がない。
太田はというと名前を見ずにパソコンに集中している。田所は心配そうにちらちらと名前を見ている。
同じ部屋には降谷もいた。しかし、彼は名前を見ないどころか話しかけようともしない。


「お前ら、うるさいぞ。」


廊下にいた見かねた風見が野次馬に向かって注意した。ここは公安だぞ、と。やば、と野次馬は去っていった。はあ、と呆れた。風見は公安部に入ると降谷を見た。寝ていないのか目の下に隈が出来ている。
「降谷さん、休んで下さい。自分がやりますから。」と降谷に話しかけた。降谷は「悪い…。」と言って部屋を出た。チャンス!とばかりに田所は降谷を追いかけた。


「あのー…降谷さん、」
「…田所か。なんだ。」
「ちょっと相談が…。」


田所は降谷の隣を歩いた。お互い無言になる。
やばい、寝不足の降谷さんは超不機嫌だった。と田所は後悔していた。


「…名前ちゃんのことなんですけど…。」
「!…何かあったか?」
「い、いや、そのー…、」


田所は言うべきだろう、と口を開いた。


「泣かないんです。」


昨日の夜、田所はあまりにも心配になって名前の部屋に訪れた。勿論、彼女は何も話さなかった。震えてはいなかったが、確実に田所を、警察を怖がっていた。ここまで組織の洗脳が強いとは…。


「名前ちゃん、話だけ聞いてね。降谷さんは名前ちゃんのこと大好きよ。」


名前にその言葉は届いているのか。
田所は構わず話し続けた。


「名前ちゃんの話をしてる時の降谷さん、凄く楽しそうなの。詳しくは教えてくれなかったけど、可愛いって言ってたよ。ふふ、あの鬼の降谷さんがね。おかしいよね。」


少しだけ名前の目が揺らいだのを田所は見た。
しかし、名前は何も話さないし、泣こうともしない。

もしかしたら夜も寝ていないのかもしれない。ご飯も一つも手を付けない。

田所の話を聞いた降谷は口元に手を当てた。
これは不味いことになった。ただえさえ、"目"を酷使するたびに体調を崩している。そんな状態で警察の仕事なんて出来るわけがない。
しかし、自分はどうすることもできない。

降谷は名前が持っているぬいぐるみが自分があげた物だとは気づいていない。


「…あの、一言だけ朝、話しました。」
「!何を言ったんだ?」
「そ、それは…。」


田所は一言一句間違えずに言った。


「…安心して下さい、風見さんに飲ませたのはただの睡眠薬です。ごめんなさい。」


自分の心配より人の心配をしていた。降谷は目を見開いた。
「あの、名前ちゃんと少しだけでもいいので話してくれませんか?」と田所は頭を下げた。


「…え?」
「あまりにも名前ちゃんが可哀想です。…このままだと心が死んでしまいます…。」
「…わ、分かった。」


二人は公安部の方へ戻った。
これで名前ちゃんが元気になるといいんだけど…。
公安部のドア付近にはまた人が集まっていた。何してるんだろう、名前ちゃんの野次馬かな?と田所は目を凝らした。


「ねー、メアド交換しよ?」
「未来見てみて!この後何が起こるの?」
「写真撮らせてー。」


野次馬の中央には俯いている名前の姿。
な…!先輩の隣に座っていたのに…!と田所は足を走らせようとした、その時降谷が「おい!」とぶち切れた。
ひゃーー!こ、怖い!と半泣きになる田所。


「名前さんが怖がってるだろうが。」


鬼の降谷の登場で「ふ、降谷さん…。」と青ざめて去っていく野次馬。名前は降谷の方を見ようとしない。
…。降谷は気まずそうな表情したが、笑顔を作って彼女に優しく話しかけた。


「災難でしたね、大丈夫ですか?名前さん。」
「!」


名前はその声にはっとして降谷の方を見た。眉を下げて目には涙を溜めていた。悲しいんじゃない、嬉しくて顔を上げたのだ。


「あ、あむ…、」


名前はぱくぱくと口を動かした。降谷も眉を下げて、でも嬉しそうに「名前さん、」と再び呼んで…頭を撫でようと手を出した、その時、


「!!!」


名前は目を見開いて震えて蹲った。ぬいぐるみを守るように抱きしめている。
怖いのだ、降谷が。
殺されるのでないか、と。乱暴にされるのではないかと。
降谷は思わず手を引っ込めた。だめだ、心が壊れてしまう。


「、名前ちゃん、大丈夫ですよ!」


田所は名前を抱きしめた。余計なことをしてしまった、と田所は青ざめた。予想以上に名前の心は壊れていた。
本当ならば、抱きしめるのは降谷の役目。いつも抱きしめてきた。でも、もうそれをすることは許されない。
もう側にいることも許されない。


「やっと終わった?」


公安部から太田が出てきた。「せ、先輩…。」と田所は彼女を見た。太田は名前を冷たく見据えていた。


「あの、名前ちゃんが…、」
「知ってるわよ、見てたもの。勝手に逃げようとしたこの子が悪いのよ。」


太田は騒ぎを知っていて放置していた。
名前は公安部にいる職員が目を離した隙に部屋から出ようとした。しかし、すぐに廊下にいる野次馬に捕まって、身動きが取れなくなってしまった。

それを見ていた降谷はぐ、と拳を作った。
だめだ、彼女をここに置いておいてはいけない。早く、マンションに連れて帰らないと。休ませないと、心と身体を。
しかし、そんなこと降谷が言える訳もなかった。


「さ、戻るわよ。」と太田は名前を無理やり連れ戻した。
田所も降谷も席に戻った。

カタカタと太田はパソコンを操作した。相変わらず名前の方を見ないし、話しかけようともしない。
その様子を離れたところから田所が見ていた。

(どうしよう、どうしたら名前ちゃん元気になるかな…。降谷さんは席の場所的に名前ちゃんに背を向けてるし…。)

うえーんと、心の中で号泣する田所。
すると名前は椅子から立ち上がった。それに気づいた太田は迷惑そうに「ちょっとまた逃げる気?」と言った。しかし名前は無視して空いていた隣のデスクの下に隠れた。


「?何やって…、」


太田はデスクの下にいる名前を覗いた。すると直ぐに大きな地震がやってきた。「わ!」「きゃ!」と公安部の中はパニックになる。
名前は未来を見て、知っていて黙っていた。
ガタガタと音を立てて揺れる。デスクに上にあった物が落ちる。
暫くして地震は収まった。幸い、避難する程の大きさの地震ではなかった。皆、落ち着きを戻して散らばった書類等を整理している。
名前の行動に理解した太田は彼女の胸倉を掴んで立たせた。


「いい加減にしなさい!さっきからなんなの!?未来が見えていたなら何故報告しないの!?」


しかし、名前は話さなかった。「せ、先輩!やりすぎです!」「太田落ち着け!」と職員が間に入って二人を引き離す。
「名前ちゃん、大丈夫ですか?」と田所は彼女を抱きしめる。その様子を降谷はちらりと見てパソコンに視線を戻した。


「…名前ちゃん、私の隣に座りましょう?」


田所は名前を自分の隣に座らせた。暫く、カタカタと一生懸命パソコンを操作している田所。しかし、名前に頻繁に話しかけていた。「お腹空いてないですか?」「眠くないですか?」と。ずっと名前は黙っていた。
しかし、5分後、名前は口を開いた。


「あの…。」
「!!!な、なんでしょう!」


声がでかい田所。嬉しくてテンパっていた。やっと話してくれた…!と。
なんだろうなんだろう!やっぱりお腹減ってたのかな?苺大福あるよ!


「…私、未来が見えるんですけど…、」
「?うん?」


知ってる、と田所は次の台詞を待った。


「…警察内部の…情報見せていいんですか…?」
「あ!!!」


そうだった!!名前ちゃんは視界に入れば未来が見える!!ってことは!公安の動きが筒抜け!パソコンや書類の情報も丸見え!!きゃー!なんで気付かなかったんだろ!!や、やばい…!!
どうしようどうしよう、田所は焦っていた。そしてぽーん、と思いついた。
因みに降谷にも会話は筒抜け。何してるんだろう、と聞いていた。


「じゃ、じゃあこうしてみたらどうですか…?」


その様子を見ていた職員はそれは不味いだろ…と皆思っていた。
「…まあ、はい。」「やったー!これなら大丈夫です!」という会話が気になって降谷は後ろにいる名前と田所を盗み見た。
そこには田所のネクタイで目隠しされている名前の姿。
…見てしまった降谷は思わずドスの効いた声で言ってしまった。


「田所…お前、何をやってるんだ…。」
「!こ、これなら未来見えないかなって…!」
「…目を瞑らせればいいだろう。」
「あ!!!」



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