『鍵』神無月に入ったある晩。 江戸はかぶき町。 この町の顔役である寺田綾乃が経営するすなっくお登勢の二階では水音と、布擦れの音、そして、木の軋む音が響いていた。 ぎし、ぎしり。 『万事屋銀ちゃん』には、主である坂田銀時と宇宙戦闘民族夜兎の少女が住んでいる。 けれども、今晩少女はいない。 少女と同じく、この店の従業員である志村新八の姉の所にお泊りに出ているのだ。 ぎししし。 理由は表向きは保護者である男が飲みに行って遅くなるということになっているが、実際にどこまで真っ向から受け入れられている言い訳かは少女にしかわからない。 ぎしり… 「考え事なんざ…無粋な真似すんなよ」 銀時が接吻の隙間に、掠れた声で言った。 居間兼応接室に置かれたソファの上で。 ソファに押し倒された土方十四郎の上で。 きし。 けして小柄ではない成人男性二人がほぼ全体重を乗せて、また古いソファは軋んだ。 銀時が土方の答えを待たずに、また吐息を重ねたからだ。 肉厚の舌が土方の口の中を蹂躙する。 軟体動物のようによく動き、歯肉を刺激する動きは気持ちが悪いようで、気持ちがいい。 自分ではない相手の肉体をに侵される。 犯されるのではなく、侵される。 その感覚が、気持ちいいのだといつも土方は思い、受け入れる。 「ソファが…」 「ん?」 はふと、息つぎの合間に言葉を発する。 少しだけずらしただけの唇と唇の間で熱い息が擦れてくすぐったい。 「ソファ、軋む音がひどくなってねぇか?」 土方の顔の横に置かれていた肘が延ばされ、少し身が離れた。 その動きに合わせて、またぎししと音がたつ。 「まぁ…古いしな」 土方の耳の横で、すこしかさついた銀時の指がソファの布地を擦って、毛羽立つような音がする。 「買い替えろよ」 いつも、万事屋さんで食事を取り、時に客を迎え、ジャンプを読み、テレビをみるソファ。 そこに横たわり、主を見上げながら土方は意見した。 「んーいらね」 「買ってやろうか」 「え?土方くんが?」 あからさまに驚く気配も無理はない。 万年金欠の男は土方に支払いを任せることをあまり躊躇しない。 昼に団子屋や飯屋で出くわす時には十中八九隣に座る口実だから、土方もしぶしぶを装いつつ、了承し、奢ることはある。 そうでなくとも、本当に懐具合が寂しい時もあるには夜二人で入る宿代も押し付けられることがある。 だが、自分から言い出すことは今までなかった。 しかも、最近では天人製の安価な輸入品も出回って入るが、それでも応接セットも兼ねる向かい合わせの一揃えとなれば、飯代や宿代とは単位が違う。 そして、あとに残るものだ。 「あぁ…その、俺が来てる時に、万が一壊れたら居た堪れねぇし」 「あぁ、こういうことヤッてて?」 肌蹴ていた着流しを更に手を差し入れることで割り、乳首をざらりと舐め上げられた。 そのまま、触れるか触れないか微妙な力加減で爪先で弄られる。 臍の奥まで響く刺激に身に力が入った。 また、ソファーが鳴った。 「でも、いらね」 「あ?」 再度、繰り返された。 断られた事実に土方は言葉を失う。 「まだまだ、頑張れるコだから」 「けど…」 物に執着するタイプではなかったはずだ。 銀時のマイナスにはならない。 受けると思っていた。 いい案だと思っていた。 「こっちでしか出来ない体位楽しもうかと思ってたけど、心配なら、布団行こっか」 引っ張り起こされて、寝室スペースへと誘われる。 明日は非番であるから移動することも、銀時が仄めかす行為におよぶことにも異存はないのだが、出来るならば、この話を、ソファを新調する件を先に済ませてしまいたかった。 「あのな…」 「その話はおしまい」 ぱちんと応接室の電気が消された。 変わりに、寝室の豆球がほんのり灯る。 「新調するにしても、おめェに買ってもらう筋合いねぇよ」 逆光になって表情は見えない。 進みかけていた足が自然と止まった。 見えない壁が、扉が見えた。 その扉の鍵は『向こう側』から開錠され、銀時の腕によって通り抜けられはした。 けれど、それは常ではないのだと。 銀時がこの腕を引く瞬間だけ通り抜けることのできるもので、自力では通り抜けることのできない扉だと。 見えない扉の鍵を土方は持っていない。 自分ではない、他でもない銀時に侵される。 いつもは気持ちいいと思うその感覚に全て身を委ねることが出来ないままの夜を、 付き合い始めて、初めて土方は過ごしたのだった。 武装警察真選組副長・土方十四郎と万事屋・坂田銀時はいわゆる世間では恋仲と呼ばれる間柄にある。 いくらどんな色恋の道にも寛容で、性の嗜好に関しては偏見の少ないかぶき町という土地柄においても、その関係を見破っている人間は極一握りに限られていた。 それは、土方の職業と銀時の元攘夷志士だったという過去が関係していることも一因ではあったが、ただ単純に本人たちが度を超える意地っ張りという部分の方が大きい。 出会いから腐れ縁を結ぶ間に周囲から犬猿の仲認定されるほど角を突き合わせ、派手な喧嘩をしていた理由が気になる異性(二人の場合は同性だが)相手にどう接してよいかわからずにいたから、などと、知られたくない。 あまりに中二的だという本人達の自覚、更に見栄っ張りな性格が、人様に知られることなく、という状態を作り出していた。 そんな二人であるから、始まりも一悶着あった。 ほぼ同時に自分たちが相手に絡んでしまう理由を自覚したにも関わらず、そして、二人同時に相手も憎からず想っていると気が付いたにも関わらず、「どちらが先に言い出すか」という一点において意地を張りあったのだ。 アルコールというものは、時に人の感覚を麻痺させる。 「おめェ俺のこと好きでしょ?ほら、言ってみ?銀さんだーいすきって」 「誰が言うかボケ。てめェこそ吐きやがれ。副長さんに惚れてますって」 偶然にも居酒屋で出くわした二人は、程よく回った酒に気を大きくさせられていた。 「えー?やだぁ」 「うっわ。気持ち悪っ!いいオッサンが語尾伸ばすな」 「じゃあ、こうしよう土方くん」 二人をよく知らぬ者が見たならば、きっと酔っ払いのじゃれ合いだと思っただろう。 二人をそれなりに知る者が聞いたならば、そんなに仲良かったっけ?と首を傾げたであろう。 どちらにしても、二人なりに理性の片鱗は残っているが、素面とも言い切れないほどの、酔い。それに便乗しての駆け引きだった。 「あ?」 「今から飲み比べをしてだな、銀さんが負けたら銀さんが、土方くんが勝ったら土方くんが」 顛末としては、銀時が負けた。 正確にはわざと負け、そのまま飲み屋から愛の名前の頭につく宿に引き込んで、本人いわく、ボディランゲージで新しい関係を始めたと言った方がより正しい。 馴れ初めから散々と言えば散々なふたりではあるが、ひそやかに、順調にオツキアイは続いていた。 自分の中の気持ちも、相手の気持ちも疑うことなく、適度な距離と逢瀬を重ねて。 適度な距離だ。 土方にもわかってはいた。 あの言葉を突きつけられるまでは、わかっているつもりだった。 明け方のかぶき町を歩きながら土方は溜息をつく。 非番の朝だ。 万事屋は臨時休業と言い置いているから、神楽が戻ってくる夕方まではいつもの非番であればゆっくりと過ごす。 何をするわけでもないが、情欲を吐き出して気だるい身体を薄いけれどきちんと日干しして太陽の匂いのする布団に転がす。 くるくるした銀髪を指に絡めて手遊びしたり、土方の真っ直ぐな髪を寝ぼけたまま撫でる手の感触を楽しむ。 空腹を覚えた頃に、どちらともなく起きて、土方が事前に買い出ししてきた材料で銀時が朝餉なのか昼食なのかを拵える。 食べて、ソファに座って新聞を読んだり、テレビを眺めたり、時にはもう一戦こなしてみたり。 無駄なようで無駄でない時間。 今日はプラス、ソファを二人で見に行くかと。 夕べ、土方がソファのことを口にしたのは偶然ではない。 これまで、土方が個人的に祝ったことはないが、もうすぐ、付き合い始めて何度目かの銀時の誕生日がくる。 当日は子どもたちやお登勢たち近しいものと時間を共にするのが恒例と聞いていたし、顔の広い銀時を祝いたい人間はたくさんいる。 銀時自身も土方に祝ってほしい素振りもその前後に会いたいという素振りをみせたことはない。 しかし、土方としては、何かしたいとは心のどこかで思ってはいた。 ベタベタした関係も、言葉も苦手だから、銀時は知らなくてもいい。そっと何かにかこつけてを誕生日を祝うような何かを贈れたら。 結局、何がいいのかわからず、聞くに聞けないまま時を重ねていたのだが、前回泊まった時に、ぎしぎしと音のするソファに、これだと笑みを作った。 万事屋の従業員が寛ぐことに主要な使い方になっているソファではあるが、閑古鳥啼いても客商売、接客に欠かせない家具。 誕生日プレゼントとして買ってやるとは土方の性格上言えない。 けれど、壊れかけているから、万事屋に来た時に軋むのが心配だからと提案すれば、四六時中、金策に困っている万事屋稼業の男なら飛びつくと思った。 「クソ…」 思ったのに、銀時はあっさりと断った。 『新調するにしても、おめェに買ってもらう筋合いねぇよ』 いつもの意地っ張りではなかった。 さらりと、自然な口調だった。 逆にそのことが、『万事屋』の中に土方が踏み込むことに対しての線引きのように思えてしまった。 銀時と付き合っても、万事屋のことに口を出すつもりはこれからもない。 逆に真選組のことに、銀時も口を出すことはない。 適度な距離、普通の受け答えだ。 だからこそ、土方もそれ以上口にはしなかったけれど、今日と云う非番をいつものようにあの場所で過ごす気にはなれなかった。 でも、少しだけ、少しだけ関わるぐらい、贈り物をするぐらいも許されなかったのか。 そんな風に考えてしまった。 きっと、目が覚めたら隣にも、万事屋の何処にもいない土方に銀時は驚くかもしれない。 注意に注意を重ね、最低限の物音と気配しか残さなかった。 メモひとつも残さなかった。 朝の繁華街を誰かがポイ捨てしたのであろう空き缶が風に飛ばされ、からんからん、と高い音をたてて転がっていく。 気がぬけた、と土方は朝焼けに赤く染まっていた街並みが、徐々に昼の色に塗り替えられていく様子を眺めながら、また息をついたのだ。 その後、何度か携帯に万事屋の黒電話から着信が入ってはいたが、仕事を言い訳に取らなかった。 そういったことは土方の仕事上、よくあることであるから土方自身の疾しい気持ち以外には問題はない。次に会った時にでもと思うのか銀時も取り立てて責めることもない。 ないのだが、一度生まれてしまった『線引きされている』という気持ちは喉に刺さった魚の骨のように気持ちが悪い。 責められないこと。 それすらも土方ほどには銀時が自分のことを気に留めていないのかもしれないなどと今まで比べもしなかったことまで浮かんでくる有様だ。 そうして、気が付けば誕生日の当日がやってきていた。 巡察途中のことだ。 見覚えのありすぎる後ろ姿に思わず足を止めてしまう。 髪飾りでオレンジ色の髪をまとめたチャイナ服とジャージ風の袴姿をしたメガネ。 万事屋の子ども二人が小さなケーキ屋の前で子どもが二人、店の外からガラスに張り付いているではないか。 「無理だよやっぱり。違う店にしよう」 新八の呟きに何事かと、そっと近づけば二人は小声で目は店内に貼りつかせたまま何やら相談しているようだった。 「でも、苺が乗ってないと駄目ネ。そこは譲れないアル」 「んー、わからなくもないけど、苺は春のモノだから…」 磨き上げられたガラスは二人の手の跡がべったりとついている。 それどころか、神楽に至っては鼻先を引っ付けているようで吐息で曇ってさえいる。店内からちらちらと愛らしい恰好をした店員が様子を窺っているのが見て取れた。 「じゃあ、作るネ」 「そりゃ、その方が安上がりだけど…神楽ちゃん、教えてくれそうな人いる?」 「アネゴには無理アルナ」 「そういうこと。姉上差し置いて誰かに頼もうとしたら逆に血を見そうな気がするよ」 店員は奥に入って店主らしき白いコックコートに身を包んだ中年の男を引っ張ってきた。 これはヤバいかなと土方は苦笑する。 「おい、ガキども。不審者扱いされてんぞ?」 いよいよ、カウンターから出てこようとした店主を土方は手で制し、へばりついた子どもたちに声をかけることにした。 「ニコチンコ!」 「土方さん!」 「涎垂らしながら、へばりつくな。営業妨害言われるぞ?」 振り返った少女の口元は涎がテラテラと光り、同様に先ほどまで見えなかった位置のウィンドウにも手あか以外の液体状のものが付いているのが窺えた。 「うっわ!ホントだ!神楽ちゃん、涎よだれ!拭いて!」 あたふたとする新八を見兼ねて土方が神楽にハンカチを渡す。 「綺麗アルカ?」 「毎日洗濯してら」 「なら、使ってやるネ」 もう少し言い方があるだろうにとも思うが、敢えてツッコミはせず、新八のほうに会話の矛先を向けた。 「で、ケーキ喰いたくて、こんなとこにへばりついてる、ってわけでもねぇんだろ?」 「いえ、その…今日、銀さんの誕生日なんです。 食事的なものはお登勢さんが用意してくれるので、 毎年、僕たちでケーキだけは買っていくんです。なんですが…今年はちょっと予算が…」 新八の視線が店の張り紙を示した。 『10月より価格の見直しをさせていただいております』 小麦粉の価格が高騰しているとニュースでも報じられていたことは土方も知っている。 それが小さなケーキ屋の単価にまで既に繁栄されはじめているらしい。 「他の店じゃダメなのか?」 「苺って今の季節が旬じゃないので、他のケーキ屋さんはブドウとかいちじくとか 旬のフルーツ使っているところがばっかりで」 「銀ちゃんには苺がいいから、ここがいいアル」 「と、こんな具合でして…」 お恥ずかしいと後頭部を手で押さえる少年は本当に弱り果てているようだった。 自分が出してやれば簡単だ。 線引きされようと、自己満足であろうと、こっそり間接的にパーティの一欠けらだけでも関わらせてもらえる。 万事屋の子どもたちも助けられる。 しかし、出資を申し出ても、土方と銀時の仲を知らない二人はつっぱねるに違いない。 「借りは作らないネ」とかなんとか。土方相手だ。子どもは保護者のコピーをする。 そこまで想像できてしまって土方は苦笑した。 「なら、おめェら、屯所で一仕事しねぇか?」 「お仕事、ですか?」 「あぁ、落ち葉掻きの仕事だ。屯所の庭が先週の台風で酷いことになってんだが…。 どうだ?万事屋の野郎には内緒で頼めねぇか?」 「内緒…」 二人とも銀時と共に働けば得ることのできない類の資金であるから秘密と言われてこまりはしないはずだ。 「俺と野郎の間柄だ。俺からの仕事だと聞きゃ、いい顔しねぇだろ?」 「新八…」 顔を見合わせる子どもたちに土方は煙草を携帯灰皿に押し込んで、もうひと押しした。 「おめェらが肩身の狭い思いするこたぁねぇ。 『俺』が『万事屋』じゃなく、ただその辺にいたガキ二人駄賃を出すだけだ」 「わかりました。今からでもいいですか?」 ここのところ、いつも以上に銀さんやる気ゼロでパチンコにも行かずにゴロゴロしてるからチャンスなんですと、年端の割にしっかりとしている新八が眼鏡のブリッジを持ち上げて土方の申し出を受けたのだ。 『鍵 前篇』 了 (155/212) 栞を挟む |