『沫−後篇−』今晩も強い風が水面を白く波立たせていた。 あの夜と異なるのは小雨のために暗いということだけだ。 お陰で夏の夜でも、馬鹿騒ぎをする輩は見当たらず、土方は着てきた着流しのまま、海水に足を踏み入れる。 ぎゅぎゅっと歩くたびに指の間を浜辺の砂が挟まっては逃げていく。 膝まで浸かるとまだ微かに残る鱗の隙間に昼の温度を逃しきれていない温いままの海水が沁み込んでいることが感じられた。 沁み込んで、小さな気泡が上がって、くすぐったい。 「………」 夜の浜辺は静かで、浜に打ち付ける大波の音と、土方に寄せられる小波の音。 間に土方自身の呼吸の音だけが響いているような気がした。 どうにも心細い気持ちに襲われ、首をゆるゆると左右に振る。 手で泡の出てくる足に触れると、手に数枚の鱗が付いてきた。 取れてはいる。 大丈夫だ。 言い聞かせ、また、足を踏み入れる。 揺れる波が土方の身体を揺らし続ける。 「………」 足が砂地に届かなくなり始め、思い切って土方は潜ってみた。 まだ人魚薬の影響かゴーグル無しでもよく見える目に身体から湧き出てくる泡がまた増えている様子が映った。 着流しの隙間から、むき出しになっている腕から。 どんどんと浮き上がってくる。 まるで、発泡性の錠剤が水に溶けていくような現象に、土方は眉をひそめた。 山崎の調べでは、人魚薬の解毒に効果があるということであったが、本当なのだろうかと疑いたくなる。 部下のことを信頼してないわけではないけれど、このまま鱗のみではなく、土方すべてが泡となって消えてしまいそうな錯覚に陥りそうになる。 近藤を守る一振りとしてでなければ死ねはしないが、坂田に捕らわれた情けない自分だけ泡となって海に溶けていってくれないだろうか。 人魚のように助けたのが自分だと知らせなくともかまわない。 万事屋があのヒナノという女とでもいい、他の誰かでもいい。家族の形を血縁や所帯という形に捕らわれるような男ではないが、家族がまた増えるならそれでいい。 振り向かせたいとは、思わない。 最初から叶うとは思っていない。 それでも、息苦しいことは息苦しいから、自分のこの不格好な感情は泡となって消えてくれたらいい。気泡になって、弾けて、消えて無くなればいい。 泡と共に湧き出てくる取り留めのない思考は大きな別の泡と揺れで止められた。 「?!」 陸の方を振り返ると、十数メートル先で何かが水の中でもがいていた。 激しく揺れる白地の着物。 やたらと上下する黒いブーツ。 (万事屋っ!) 何故、こんな夜更けに、何故、こんなかぶき町から離れた浜に、何故、泳げないくせにこんな海の中に? 考えるより先に土方の足は水を蹴っていた。 ヒレの無くなった土方の身体は六日前の夜ほど早く水の中を進めない。 (間に合え!) 手足をばたつかせても、坂田の身体は浮力によって持ち上がることなく、どんどん沈んでいく。 (万事屋!) 水中で叫んだ声がまるで届いたかのように、うっすらと開いた目が土方を見た。 伸ばした手は確かに届いた。 されど、今回は意識が多少なりとある坂田が息苦しさからか、藁にも縋る心持だったのか、土方にしがみついてきた。 絡んだ手足が邪魔でうまく浮上出来ない。 土方は、まだ多少なりと薬の効果で海中でも息が出来るが、身体から発生し続けている泡の切れ目が効果の切れ目だと本能的に悟っていた。 (時間が…) 図らずも、正面から抱きすくめられているような恰好のまま、土方は顔を上げ、目の前にある坂田の口にかみついた。 肺なのか、鰓なのか、どちらともしれない器官に残っている空気を吹き込む。 ぴったりとまでは合わされていない口と口の隙間からほとんどの酸素は逃げてしまったが、坂田を唖然とさせ、動きを止めるには十分だった。 (悪ぃな) 驚いて緩んだ腕から抜け出して、逆に坂田を掴んで上を目指す。 「げほ…っ」 噎せ込みながら必死で新しい酸素を取り込んだ坂田を横に、顔を浜へと向ける。 多少流されてはいるが、それほど、陸から離れてしまったわけではない。 「…ひ、じかた、おめェ…」 「話、は後だ」 気を緩めれば、一緒に沈んでいきそうだ。 男を引いて泳ぎながら、痺れる身体を叱咤する。 後、数メーター泳げば足が届く。 そうすれば、坂田は自力で立てる。 何でも屋を営むだけあって、飄々と器用にこなす男が泳げなくて、自分に身を委ねて引かれていく。 助けられて、助けて、それなりの時間を過ごしては来たけれど、今の状況はなんとなく今までの中で一番奇妙だと土方は笑いたくなった。 「もう、少しだ」 陸も甘ったれた自分への別離も。 爪先が細かな砂の感触を拾い、続けて、ぶわりと膝下全体に舞った砂がまとわりつく感触が伝わってきた。 ここまでだ。 ここまで来れば。 「土方!」 安定した証拠に坂田の声は揺れていない。 「…クソ…」 がくりと膝が落ちる。 顔が再び海水に浸りそうになったところを寸前で支えられた。 「土方」 力の入らぬ身体を支えている腕が誰のものなのか、考えるまでもない。 意識してしまった途端、土方の心臓は心拍数を増やす。 「クソ…」 泡は出尽くしても、無様な己は溶けだしてはくれなかった。当たり前だ。 苦さを誤魔化すために土方はゆるゆると口を開いた。 「聞いて、ねぇぞ、山崎の野郎。後で4分の3殺し、いや、切腹…」 鼓膜を揺らす数日ぶりの自分の声はまだ籠って聞こえた。 ただでさえ、普段使うことのない筋肉を酷使して魚のようになっていたのだ。あらゆる疲労が一気に襲ってくると言う理屈はわかる。山崎が知っていたならどうしてくれよう。 「あのよぉ…やめてくれません?今、ジミーの話すんの」 「あ?」 助けた筈が助けられている始末を罵られるか、非常事態だったからとはいえ唇を合わせたことに嫌みを言われるか、構えていただけに、なんのことやらと坂田の発言がわからない。 坂田は今度は反対に土方を支えながら、浜を目指しはじめた。 「ジミーにゲロさせた」 土方に山崎の話をするなとは言ったが、自分は良いのかよ?と突っ込みたくなるのを抑えて、続きを待つ。 「人魚」 あぁ、と心の中で頷いた。 肩まであった海水が胸までになる。 「まぁ…」 「ん?」 「ヒナノさんが助けてくれた事実は変わらねぇよ」 「ヒナノ、さん?」 自分と同じような体格の人間を支えているというのに、坂田の歩調は力強く、水面はもう腰の位置に来ていた。 「てめェがこんな場所にいるってのは、彼女のところに…」 「あー…なるほどね」 「あんだよ?」 気がつけば膝まで場所まで戻ってきていた。 「助けてくれた人魚に恋しちゃった、みたいな恥ずかしいシチュエーション、 そういう方向に進んでたわけね。土方くんの頭の中では」 「俺の中がどうのじゃ…」 「恋しちゃったはずの人魚が介抱してくれたヒナノさんと違っていたんだけど、 落ち込むなと?彼女と付き合えと?」 「…彼女が浜で助けてくれたことには違いはねぇだろ?それに、美人だし、 資産家のお嬢さんらしいし、モテねぇてめェには千載一遇のチャンスじゃねぇか」 口の良く回る男ではあるが、己の内に関しては口が堅い。 照れているだけなのだろうし、坂田の本心はともかくも、良縁であることには違いない。 完全に波打ち際までたどり着くと、どしゃりと坂田は土方を手放した。 「うぉ!急に離すな!クソ天、パ?」 砂浜に尻もちをついて、見上げる坂田の顔はなんとも表現しづらいものだった。 「本当に泡になって溶けちまったのか?」 「あ?あぁ。もう鱗一枚もねぇはずだ」 「くそ…」 「万事屋?」 泡がどうしたというのか。 人魚の姿をもう一度見たかったのか。 「許さねぇよ」 「騙したつもりは…」 人魚の土方にそれほど執着していたのだろうか。 尻もちをついたまま、座り込んでいる土方に坂田は膝をついてにじり寄ってきた。 「じゃあ、さっきのも忘れちまった?」 「さっき?」 近くないか?と思った次の瞬間にはがぶっと口を口で覆われた。 水中で空気を移したときのことを言っていることは理解したが、合わせるだけではなく、更に侵入してきた舌の意味が分からない。 突き飛ばそうと腕を張るが、後頭部をがっちりと押さえられていて、容易に離れることが出来なかった。 口内を熱くてぬめる舌が擦れあう感触に、塩水のしょっぱさに交じった相手の唾液の味に、頭の芯がしびれた。 これはおかしい。 そうは思うのに、誘われるままに舌を差し出してしまう。 「…あれ?」 「よろ…ずや?」 ふと何かに気が付いたらしい坂田の顔が土方から離れていく。 安堵に掴んでいた坂田の着物から力を抜き、物寂しさから唇を追うように見つめた。 「地味、4分の3殺し決定」 「は?山崎?」 地味という単語だけで山崎が浮かんでくるのもどうであろうと思いはすれど、直面する現状について行けずにただただ坂田を見上げる。 「土方くん、俺の事まだ、好きだよね?」 カマを掛けられている可能性はあった。 誤魔化す余地はあったのかもしれない。 しかしながら、混乱を極めた土方はその攻撃を避けることが出来ずに、引き潮のように血の気が引いて青ざめる。 「こらこら。ここは真っ赤になって銀さんにしがみ付くとこじゃねぇの?」 「なっ!」 「おたくの地味なのにまんまとしてやられたこたぁ気に食わねぇけど、 ま、結果おーらい」 「だから、なにがだ!」 「だからさ、」 坂田は覆いかぶさっていた身体を起こして、土方の上に跨るように座って話し始めた。 海に沈んだ直後、かすれた意識の中で見た人魚のこと。 けれど、浜で救われて、最初に目の前にいたのはヒナノだったこと。 ヒナノも確かに美しい。直後は助けてくれたヒナノを見間違えたのかとも思ったが、日が経つにつれ、違和感がぬぐえなくなっていったこと。 人魚とは普段髪の長さも、姿も違うが、どうにも見覚えのある顔であった気がすること。 人魚だなんて、酸欠で自分に都合の良い夢を見ただけだとも思ったが、土方に一度だけ確認してみようと思ったこと。 案の定、おかしい土方の様子に、山崎を脅して聞き出したこと。 「あの地味野郎。 なぁにが『副長は人魚だった自分を泡にして消すため、海に戻りました』だ」 一瞬おめェがどっかの天人のおとぎ話みてぇに消えるのかとも思ったけどよ、 「土方十四郎」がそんなことするわけねぇし、オタクの連中も許すわけがねぇ。 じゃあ、何を消しにいったのか。」 男の言う通りだ。 そんな風に見ていてくれたことを嬉しく思うが、それだけでは今の状況を説明しきれない。 土方は黙って続きを待った。 「まさか遠回しに俺への気持ち、全部消しちまうって意味だったのかと。 そう思って肝が冷えた」 「…俺は、てめェなんざ…」 先ほどの反応ですべて知られているかもしれないが、唸るように反論を坂田は手で制した。 「慌ててバイクで追いかけて、追いついたと思ったのによ。 呼んでも、おめェは気が付かねぇし、どんどん深いところに進んでいっちまうし、 泡すげぇし」 「万事屋?」 それはどういうことだろう。 坂田への気持ちなど迷惑でしかないだろうに。 理解できない者に対する恐怖だろうか。自然と土方は砂の上を後ずさり、坂田の下から抜け出そうとした。 「おいおい、許さねぇって言ったぞ」 「だから、悪かった。金輪際近づかねぇから」 「違うだろ!もしかして、まだ、おめェ空回ってんの?」 土方を逃さぬようしっかりと足で挟み、さらにのしかかってくる坂田の身体をよけようとしれば、自然と後頭部が砂地についた。 「近い近い近い!」 「照れてんだ?」 「違うわぁ!!この体勢おかしいだろうが!」 ついでに腹の辺りに坂田の固いものが擦りつけられて、青くなっていいのか、赤くなっていいのか分らずに叫び返す。 「ん?人魚さんなら青姦、普通だよね? 大丈夫大丈夫。銀さん、露出趣味はねぇけど、おめェが恥ずかしそうにするのは 大好物だと思うから、うん」 「俺は人魚じゃねぇぇぇぇぇ!それに、てめェの性癖も趣味も聞いてねぇわ!」 「お互いの性癖を知ることは大事なことだと思います! これからお付き合いする上でこの上なく!!」 「は?」 お付き合い、という単語だけがクエスチョンと共に頭の中を舞い踊る。 これまで、一粒たりとも泡立っていなかった「期待」という気泡が土方の中で一粒浮かんできた。 「あ、体位は後ろからの方が好きです。 おめェの綺麗な背中を見下ろしながらとか考えただけで堪らねぇよな」 「だから、それは聞いてねぇぇぇ」 でも、お付き合い以前に土方は坂田に何も答えていない。坂田からも肝心なことは何も聞いていない。 ほんの少しだけ時間が欲しい。 この新しい泡がもうちょっとだけ一定量になるまで。 ポケットから零れ落ちた車の鍵を迫ってくる額に突き刺した。 避けきれなかった坂田がもんどりをうっている間に、よろける身体であの日とは逆の方向に向かう。 海ではない。 陸に向かって。 江戸の町に向かって。 尾びれではなく、自分の二本の足で。 「おい!待て待て待て!」 「待たねぇ」 唇に触れると磯の香りと共に坂田の香ががふわりと拡がった気がして、じわりと身体の奥から熱が沸いてきてしまう。 湿った口に一刻も早く六日ぶりの煙草をくわえたかった。 波は絶えず砂浜に打ちあがっている。 寄せては返す波。増えては消える泡の白。 あぁ、今年の夏は更に暑くなりそうだ。 土方は海ではなく、白み始めた空を仰いで、そう嘯いたのだ。 『沫』 了 (206/212) 前へ* 【献上品・企画参加】目次 #栞を挟む |