『沫−中篇−』「…無茶せんで下さい、って言いましたよね?」 人魚薬を土方が飲んでから、72時間、つまりは3日経った。 あの晩、土方の携帯から無言電話で非常事態を悟った山崎はデッキへ駆け上がった。 見つけたのは土方本人ではなく、中途半端に開かれた木箱と隊服。 山崎は状況を正確に読み取った。 斉藤に貨物室は任せ、近藤にだけ現状を報告してから、単独、救助用のボートでクルーズ船を離脱。 山崎自身が事前に報告していた密輸犯たちが隠れ家に使っているであろう入り江へと向かった。 そこで、逃げた浪士を追って辿りついた土方と合流。 短時間であれば、人魚薬を飲んでいようと陸を移動することは出来る。 捕り物は新たに呼び寄せた十番隊に任せ、至急、車で江戸内にいくつかある監察用の家屋へ移動したのである。 有給を取って、狭いバスタブで過ごすこと2日。 徐々に陸上にいても苦しくない時間が増え、両手両足からヒレが消えた。 3日目朝、このままいけば、明日には仕事場に復帰できそうだと近藤にも連絡をしたというのに、昼過ぎから回復の兆しがぴたりと止まってしまった。 手足と腹の鱗がある一定以上は消えないのだ。 「睨んでも駄目ですって。無理に陸に馴染もうなんてスパルタ的なことしたら、 長引くって報告書に俺書いてたじゃないですか」 「………」 二本足で歩けるようになった二日目の朝から、土方が山崎に止められていたにも関わらずバスタブを出て仕事の電話や鍛錬をしていたことをじっとりとした目で指摘された。 しかも、回復が遅れているだけではない。朝から声まで出なくなっていた。 苛立ちと怒りのままに屯所の様子を報告に来た山崎を殴る。 「まぁ、今のところ、大きな問題は起こっていませんし、もう少しゆっくりして下さいってことですね」 「………」 「それから、旦那もすっかり回復して、今朝かぶき町に戻ってきていました」 坂田は土方の目論見通り、朝、犬の散歩をしていた女性に発見され、助けられたらしい。 女性は地元の名士の娘だったらしく、きちんと警察機関への連絡を入れ、自宅で手厚い看護を施したと土方は聞いている。 「いえ、特にどこが悪いというわけではなかったようです。ただ、その家のお嬢さんが旦那をいたくお気に召したようで、ずいぶんと引き留められたようです」 「………」 「妙齢のお嬢さん、だそうですよ」 「………」 余計な情報だと山崎をにらみ、鴨居にかかっている隊服を顎で示した。 「え?ちょっと待って下さい!予定通りに屯所に戻るんですか?」 「………」 「そりゃ、そこまで薄くなれば隊服で隠せるとは思いますけど…」 「………」 呼吸に問題はない。 『副長』としては声が出ないことが厳しいが、あまり土方が屯所を不在にしていることを外部に知られたくはなかった。 「わかりましたよ。あ、そうだ!スケッチブックがいりますね」 「………!」 「はいはい、仕方ないですね。あ、一人で行かんで下さいよ?携帯使えないんですから」 「………」 「あと、水分、必ず携帯してください」 「………」 「おかんじゃありませんけど、路上で干からびるなんて、怪奇現象ご免です」 全て先回りされてしまって、反論のしようがない。 言葉の代わりに振り上げかけた拳が届く前に山崎はさっと立ち上がった。 明日からということで。 最後の一言をまるで捨て台詞のように残されて、土方はまだ火をつけることの出来ない煙草のフィルターを噛みしめたのだ。 復帰一日目。 人魚薬を飲んでから、どうにも高温への耐性が低くなっている。 お陰で煙草が恋しいのに、先端に灯った火の熱にどうにも耐えられず、苛々がたまっていた。 そんな中での、4日ぶりの見廻りは気晴らしという意味でもありがたいものだ。 「………」 天気は薄曇りで日中の気温はさほど上がらなかったが、山崎の警告通り頻繁に自動販売機で水を買い、喉を潤さなくてはならなかった。 「よぉ、税金泥棒」 「………」 山崎に追加を買いに行かせ、木陰のベンチに座っていると聞き覚えのある声が飛んできた。 買い出しの途中なのか、眼鏡の少年と共に大きなレジ袋を両手に携えている。 税金払っていねぇ奴に言われたくねぇよといつも通りの返しは干上がった喉から出てこない。それを怪訝に思ったのか、坂田は土方の正面に立つと顔を覗き込んできた。 「シカトですか?コノヤロー」 「銀さん、銀さん、何、ひと昔の不良みたいな絡み方してんですか! すみません。土方さん」 「………」 間に入った志村に手を振って、喉を指さす。 「あー?何?おめェ、喉やられてんの?肝心な時に、使えねぇなぁ」 「………?」 「おめェらが折角の割のいいバイトを無茶苦茶にしてくれただろうが?」 捕り物のせいで、湾内を一回りするはずであったクルーズ船は途中で引き返したと報告を受けている。 海に落ちてしまった坂田のバイト代はもちろん、きちんと仕事をしていたであろう志村や神楽の賃金まで白紙にされてしまったのであれば、確かに悪いことをした。 そうなのであれば、船会社に掛け合うこともやぶさかではない。 「俺、海に落とされたろ?」 どかりと本格的に話をするつもりなのか、土方の隣に腰を下ろし、詰めろとばかりに寄ってきたために、慌てて土方は30pほどベンチの反対側へと移動する。 普段であれば、誰がよけてやるかと梃子でも動かぬのであるが、人魚薬のせいであまり人の体温に触れたくなかった。それが想い人であっても。 ひくりと坂田の眉が持ち上がったことに、場所を開けなければ開けないできっと怒るくせに、避けたら避けたで気分を害されるとはどれだけ厭われているのだと、土方は心の中で苦笑いした。 「あの時、お前も海に入ったって?」 「………」 「あー…その、…よぉ…」 表向き、坂田の捜索の為に救命ボートを出すよう指示し、土方は攘夷浪士を追って単独、海に飛び込んだことになっている。人魚薬を服用したことを知るのは近藤と山崎、そして斉藤だけだ。 坂田がどんな風に聞き及んでいるのか分らず、取敢えず首肯もしないで、煙草をポケットから引っ張り出して様子を窺う。 「海に入ったんなら、何か見なかったか?」 「………」 なにか、とは?と首を傾げてみせる。 「銀さん、ほら、土方さんも何事だか全くわからないって顔してるじゃないですか! やっぱり溺れかけて幻みたんですよ」 「………」 「河童によく似た天人が住み着いている今の江戸の町ですぅ。 人魚がいてもおかしくありませんー」 意識があったのかと、冷や汗が背中を流れて行った。 土方が口を挟めずとも、気を利かせた志村は呆れた様子で坂田の記憶を否定してくれた。 「それはそうですけど、本当に存在してたら、もっと騒ぎになってますって。 助けて下さったヒナノさんですよ。きっと」 「けどよ、水の中だったんだぜ?アレ…」 「………」 そのまま納得しろと、心の中で叫ぶ。 カブト狩りならぬ人魚狩りでもなんでもしてくれて構わないが、土方の顔だけは思い出してくれては困るのだ。 「あー!もう!お前ら、黙ってろって!俺ぁ、土方に聞いてんの!」 「………」 「いや、だから、よ? 俺ぁ、おめェんとこの事情聴取でも答えたから知ってるたぁ思うが、 デッキから海に落っこちた後、流された浜でヒナノって地元の奴に介抱して もらったんだよ。けど、どうにも、記憶と合わねぇ部分がある」 「………」 「知らねぇか?」 真っ黒く長い髪が水にひろがっていた。 青みかかった瞳がまっすぐに自分を見ていた。 揺れる尾びれが天上からの光を受けて光っていた。 語る男の横顔はどこかうっとりしているように見えた。 「ありゃ、海の中…人魚…だったと思う…」 恋煩い、そんな言葉が土方の中で浮かんだ。 「けど、おめェが知らねぇんなら、やっぱりヒナノさんだったのかもな」 恋煩いの相手。 それが自分だと話せる訳もない。 ただの恩人なら恩義せましく話せないこともないだろうが、半魚を女だと思っている。 隊服の下に隠れた鱗を無意識に擦る。 事実を話すつもりもないが、今は声が出せないことに感謝した。 「銀ちゃーん!」 「神楽…と、ヒナノさん?」 「ちょっと江戸に来る用事があったので…」 大きな白い犬と共に神楽が現れた。 別行動していた少女が、女を案内してきたのらしいと踏んだ。 「あの、体調はいかがですか?お口に合うかわからないのですが、お菓子を…」 「銀ちゃんの為に作ってくれたアル」 「神楽ちゃん!」 ヒナノと呼ばれた女は大きな風呂敷包みを抱えていた。 黒く真っ直ぐな髪をした、20代前半の女。 古風な着物をきちんと着こなした様はさすがに良家のお嬢さまといった風に土方には思えた。神楽の言葉に真っ赤になるヒナノと勢いよくベンチから立ち上がって頭を掻いて迎える坂田。 双方まんざらでもなさそうな様子に、土方もそっと賑やかな輪から離れるべく、立ち上がった。 「土方?!」 「………」 水が必要だ。 地味すぎて誰も気が付いてはいなかったが、実は坂田たちと会話している間にその場にすでにいた部下がはいよと察してペットボトルを差し出した。 至極、良いタイミングでしょとばかりに自慢気なその頭を叩いて、ペットボトルをもぎ取ってキャップを外す。 「痛い!なにすんですか!俺が待ってた方なのに!」 「あれ?山本君、いたの?」 「ヤ・マ・ザ・キです!いましたよ!旦那が副長の隣占領したあたりから!」 「………」 名前を覚える気がないだけなのかもしれないが、どうにも山崎の場合、地味すぎることが一番の問題な気が確かにする。 もう一度、土方は山崎をぽかりと殴った。 状況を理解していながら、土方に助け船をもっと早く出さなかったからだ。 「痛いですって!パワハラ反対!俺だって、タイミング図ってたんです!」 「………」 「無茶言わんで下さい、ホントにもう…勝手なんだから」 「おいおい、おめェら、何、以心伝心やってんの?気持ち悪っ」 「………」 「ちょっと!待ってくださいよ!副長!」 坂田の軽口をぎろりと睨んで、土方は二本目を山崎から奪い取ると、歩き出した。 後ろで坂田が何かまだ言っているようではあったが、足を止めはしない。 一町ほど歩いたところで、おとなしく後ろを歩いていた山崎が話しかけてきた。 「大丈夫なんですか?」 「………」 喉は乾いていたが、生命の危機を感じるほどではない。 飲み干したペットボトルを目についたごみ箱に放り込みながら、心配しすぎだと 頷く。 「や、そうじゃなくて…」 「………」 「まぁ…土方さんアンタが本当にそれでいいんなら…」 「………」 五月蠅いと口の形だけで返事をして、本来の巡察ルートへ向かって足を踏み出す。 水分は補給出来たはずなのに、違う意味で、干からびそうだと思った。 「副長、朗報です!」 「………」 副長室へ珍しく呼びかけ無しで入ってきた山崎を怒鳴ろうと、喉を震わせたが、音らしいものも声らしいものも出てこなかった。 六日目に入ったが、今だ声は戻らないのだ。 「人魚薬は一番最初に浸かった水に出来るだけ触れていた方が回復早いそうです」 「………」 「そうですね。あの湾に近ければ近いほど良いと思います」 「………」 「覆面一台、明日の夕方まで使えるように確保してます」 「………」 公務は立て込んではいるが、このままでは良い方向へは全く進まない気がする。 山崎のおせっかいに従って、回復を最優先にした方が良いかと頷いて見せた。 「あ、それから」 「………?」 「万事屋の旦那があの浜にちょくちょく顔を出しているそうです」 「………」 また、余計なことをと睨みつける。 「ハイハイ、黙りますって。単に旦那と鉢合わせんように気を付けて下さいって 言いたかっただけです」 「………」 「失礼しましたー!」 土方の筆が手の中でミシリと鳴ったことでここが引き際と判断したのか、素早い動きで障子を引き、部屋を出て行った。 「………」 山崎は土方の隠している気持ちに前々から気が付いていたのだろう。人の機微に聡くなければ監察など勤まらないのだから。気になるのは、そういったことをわざわざ口にするような野暮な男ではないのに、今回は随分と匂わせてくることだ。 いい加減に諦めた方がいいと、言われているのかもしれない。 土方とて、忘れてしまいたいとは思っている。 文机に置かれた車のキーと着替え、それから財布と携帯、免許証。 必要最低限のものだけを持って、土方は再び、夜の海へと出かけた。 『沫−中篇−』了 (205/212) 前へ* 【献上品・企画参加】目次 #次へ栞を挟む |