陸「なんだったの、あれ」 『夢魔』と名乗った存在は、霧散し、目視できるものは何も残っていないように思われた。 「知らねぇよ」 「知らねぇってお前なぁ…」 銀時は首を手で揉むような動作をしながら、しばし考えるそぶりを見せた。 それから、己のもつ洞爺湖を腰に差した後、おもむろに土方の持つ木刀を取りあげた。 鈴の主が落としたのは『洞爺湖』と銘打った木刀だった。 銀時が持つものよりも、木のくすみ具合から幾分新しく見えること以外、まったく同じものに見える。 「これ、5年前失くした奴かも」 「あ?」 「通販でちょこちょこ買い直すんだけどな。ホレ、ここ湖の字、掠れてんだろ? めっさクレームつけて、折角無料にさせたのに、失くしたからよく覚えてる」 「そんくらいでクレームつけんな! 拘るなら、新しく掘り直すよう頼めばよかっただろうが!」 「えー、勿体ないじゃん。タダの方がいい。ってこの会話、一回したわ。おめェと」 「…碌でもねぇな」 無料にさせた、通販の品。 けれど、5年前から来たという。 「あぁ…クソ…碌でもねぇ」 土方は返された洞爺湖を腰に差し、もう一度、悪態をついて、前髪を掻き混ぜた。 「土方」 胸ぐらをいきなり捕まれた。 捕まれて、引き寄せられて、目の前が自由に跳ねた銀髪で占められる。 銀時の額が胸ぐらを掴んだ手にあてられているからだ。 俯いた形になった男の表情は土方からは窺えなくなってしまった。 「あーあ、待ってろっつうから、一発殴ってやろうと思って待ってたのによ。 アイツ自身が生き返ってくるわけじゃねぇんなら出来ねぇじゃねえの」 「万事屋…」 同じ背の高さ、でも、自分よりも少しだけ広いはずの肩が小さく見える。 土方は銀時の腕にそっと触れた。 焦がれていた腕だ。 しかし、土方と同じ時を歩んできた腕ではない。 あばら家と化した屯所に冷たい風が忍び込む。空間を通り抜けながら、ひぅと泣いた。 「そんな顔してんじゃねぇよ。てめェの恨み言、全部片付いたんだ」 そうだ。 土方がするべきことは、この時代に残ってはいない。 未来の土方がどうやって土方をこの時代に導いたのか、今だ原理は分らない。 それでも、夢魔の夢を渡ってきたのであれば、対象が消えた今、土方はこの時代において異物だ。 残れるはずがない。 「なんか、ムカつく!やっぱり、過去の土方でもいいや。一発殴らせろ!」 「やなこった」 互いに、自然と身を離した。 笑いもしない。 泣きもしない。 いつも通りの、いや、少しだけ老いた顔はふてぶてしい表情を取り戻していた。 「土方」 ちりん… 何処かで鈴がなった。 「大丈夫だ」 ちりんりん… 近いと土方は無意識に探す。 りん。 土方は振り返った。 鈴を手に女が立っていたが、沖田ミツバの姿ではなかった。 黒いおかっぱ頭の少女。 少女は頭に角を2本、ひょこりとのせている上に、手には金棒を携えていた。 「外道丸?」 「てめェ知ってのか?」 意外なことに、少女の名前らしき言葉を口にしたのは銀時だった。 「あぁ、徳川幕府お抱えの陰陽道の大家。『結野衆』とやらの式神だ。 あの日、俺は土方にもう一つ依頼された。結野の屋敷の前で、『いった』とだけ 呟けって。おめェと結野の人間と事前に話が出来ていたってことだな…」 「んな話は夕べしとけ。 だが、夢魔とやらも、夢違えは、この国にもある言葉だと言っていた。なるほどな」 結野という名に聞き覚えがある。 松平に伴われた集まりで、引き合わされたことがあった。 元来、土方は占いや呪いの類を信じる方ではないが、結野衆は江戸全域に式神という使い魔を配置し、「見る」ことで幕府に貢献しつづけているといった。 攘夷浪士のような小事まで教えてくれるわけではないが、顔ぐらいは知っておけと。 あの席で、そう言われてみれば、頭目・結野晴明は扇子を口元にあて、なにやら近藤よりも土方の方を凝視していた。 「ほぅ…ぬしが…」 睨まれていたというよりは見透かされるような視線に落ち着かなくなったことを思い出す。 「外道丸」 「心得ているでござんす。クリステル様からも晴明様からもくれぐれもと。 第一、銀時様はあっしの大切なもう一人の主。自分から名乗り出たこの仕事。 主の護りたいものは、きっと届けるでござんす」 坂田の呟きに少女は答えた。 「行く」 「あぁ」 別れの言葉は敢えて言わなかった。 「またな」 視界は暗転する。 りん…ち、りりん… 鈴は鳴り続ける。 目を開けているのに先は全く見えない。 二度目ではあるが、神経を全周囲に張り巡らせずにはいられない。 足は地面についている。 土方は息を吐きだした。 りん! すぐ耳元で鈴が一際高く鳴り響いた。 途端に、視界が変わった。 ネオンに彩られた繁華街が輝き始めるには少々早い夕暮れ時。 先ほどまでいた、荒れ果てた屯所は夕刻とはいえ、曇天で夕焼けが届かず薄暗かった。 けれど、ここは光に、人工の光に満ちている。 土方は己の全身を軽く確認する。 別れ間際に着ていた着流しではない。 隊服だった。 携帯で時刻を確認してみても、さほど、この町で鈴を聞いてから時は経っていない。 けれども、ぴりりと風が沁みた頬の傷。 己の腰に手をやり、ぎゅっぎゅっと二度三度、「それ」の感触を握って確かめてから、ゆっくりと見た。 愛刀と並んで差した洞爺湖と掘られた見覚えのある木刀。 白昼夢、と呼ぶにはあまりに奇妙。 ふと、顔を上げる。 前方から少女が歩いてきているのが見えた。 「あ…?」 土方が小さく声を上げてしまったのは、5年後から戻る時に鈴を鳴らした顔だったからだ。 黒髪のボブスタイルの少女。 外道丸と呼ばれていたと記憶する少女は土方に対して、ちらりと目礼し行い、土方もそれを返す。 彼女に記憶があるかどうか、というよりも彼女は人外であり、今回の糸を引く存在の「一つ」であったのだから、全てを知っていることだろう。 けれども、ここで彼女に問いかけることではないと思った。 彼女の左手には洞爺湖が握られていたからだ。 洞爺湖を渡すこともなく、土方に話しかけるでもない。 それぞれの手に木刀を持った二人はただ黙って、すれ違う。 一度だけ、振り返ったが、式神の姿は見えなくなっていた。 大きく深呼吸してから、土方は屯所に向かって歩き始める。 いつもと変わりなく、当番の隊士が門を護り、挨拶をしてくる。 敷地に入れば、土方同様、日勤を終えた5番隊が帰営している姿が目に入った。 賄い方が作る夕食の匂いが広がると共に、大勢が住んでいる気配がそこかしこに現在進行形で存在している。 「おかえり!トシ」 何よりも、近藤がいた。 「近藤さん」 ただいま、と答えかけ、少しだけ考えてから答えた。 「今、戻ったよ」 「お疲れさん。明日非番だよな」 「あぁ、そうだ。着替えたら、ちょっと出てくる」 「お!飲みに行くのか!じゃ一緒にお妙さんのとこに…」 何も変わらない。 土方が一人夢から覚めたように、狐につままれたかのように、何も変わらない日常だ。 「悪ぃ。寄るところ、別にあって、な」 「ん?そうなの?なら仕方ない。あれ?トシ?」 「急ぐんだ」 近藤の視線が木刀に向けられていたことがわかっていたから、速足でその脇を通り過ぎ自室へ向かったのだ。 この木刀がただの悪夢ではなかったと証明。 夢魔に突き立てたこの木刀がこの時間軸に突き刺された指標だというかのような。 だから、洞爺湖を持って、居酒屋に土方は向かった。 銀髪がいるはずの居酒屋に。 非番の日を初めて聞かれた。 奢れよ、トッシーの時の貸しがあるだろ?と言い訳のように付け足して言われたのに。 あぁ、互いに腹の探り合いから一歩踏み出すことになるのか、と。 暖簾をくぐり、偶然ではなく必然として隣に座るのかと。 そう思いながら、歩くはずだった道を往く。 からりと乾燥した木の戸を開けた途端、喧騒と墨で炙る食欲をそそる匂いと人の呼気に混ざった酒の気配が土方を包んだ。 暖簾を押し上げ、様子を窺う。 店は満席ではないが、目立つ空席もなかった。 「おひとりさん?」 厨房からビールジョッキを運ぶために出てきた中年の女性が入り口で立ちすくむ土方に声をかけた。 「あ、と…」 いつも鉢合わせになる時には大抵カウンターにいる銀髪の姿がない。 ここで飲んでるから、と言われただけなのだから、どう説明するべきか困る。 「土方」 「あら、銀さんのお連れさん?もう一つお通し?」 「あぁ、頼まぁ。それと生2ね」 四人掛けのテーブル席から、ひらひらと見慣れた流水文様の袖がふられた。 銀時と店員の会話に首を傾げながらも、そちらに向かう。 「おかえり」 目を細めて相手を見た。 赤い縁取りのある黒い洋装に片袖抜いた流水紋の着流し。相変わらず重力に逆らってぴんぴんと好き勝手に跳ねる銀色の天然パーマ。 腰に巻いた帯とベルトには洞爺湖と掘った木刀は不在だった。 「ただいま」 土方は持ってきた木刀をずいっと差し出す。 5年後から持って帰ってきた現在の銀時が持っているはずの洞爺湖。 「役に立ったか?」 「さぁな」 「聞き方が悪かったな…。夢見はよくなりそうか?」 「晴明殿のお陰でな」 なぁ、お前はどの程度知っているんだ? なぁ、なんでその木刀を外道丸に預けていた? なぁ、なんで最初の道案内はミツバだったんだ? 尋ねたい言葉は、ごとんと土方の前に置かれたビールのジョッキにとどめられた。 銀時は銀時で、手元に戻って来た木刀を受け取って自分の脇に置く。 「詳しいことは俺も知らねぇよ」 店員が席を離れてから、外道丸のことは知ってんだよなとの確認の後、留めた疑問は発する前に返ってきた。 「俺が今晩ここで飲み始めたら、外道丸が急にここのテーブル、陣取ってよ。 俺らのお通し喰った挙句に、今からでこ出した土方の手助けをしに未来に行くで ござんす、とか抜かすわけだ。 こっちは何ことだか皆目見当はつかねぇし説明もねぇ。 ただ、未来の夢とやらをおめェと渡るから何か伝言があるか聞きに来たとよ」 「それで?」 「わかんねぇのに伝言もなにもあるかよ。 俺も行けるかって聞いたが死者か化生、本人しか無理だとさ。 だから、コイツ渡した。 渡して、今しがた、出て行ったと思ったら、直ぐにおめェが店に入ってきたから、 それ以上もそれ以下も無し。俺の方がおめェに聞きてぇぐらいだ」 「そうか…」 鬼籍に入ったミツバの姿は土方も銀時も共通で認識できる死者の形。 少々洒落にならない気もするが、伊東よりもマシと思わねばならないだろう。 「で?土方、どうするよ?」 また繰り返す。 そのことを暗示するかのように、銀時は刑場前で土方に問うたのと同じ言葉で尋ねてくる。 繰り返せば、夢魔というところの一滴の毒がもたらされなかったとしても、訪れてしまうかもしれない未来の形。 それを断片的にといえ既に知ってしまった。 「どうするもなにも…」 ビールのジョッキはとても冷えていた。 日々押し寄せてくる冬の気配は、今年の冬が厳しくなることを示唆していたが、店内は暖房で熱いと感じるほどに暖かい。 冷たいビールは心地よく土方の喉へと流れ込んでいった。 渋さが舌を通り抜けた後、小さな炭酸が喉を刺激し、臓腑に染み渡っていく。 「これしか知らねぇ」 一気に飲み干してから、土方は先ほどとは違う若い店員にもう一杯、と注文する。 「……だな」 土方の言葉に、銀時も俺にもね、と追加した。 『何が何でも無事に帰ってもらう』 5年後の銀時は言った。 『一発殴らせろ』 恨み言も言われた。 それに土方は大丈夫だと答えたのだ。 「俺が攘夷浪士にとっ捕まる前に、 近藤さんがストーカーで本格的に逮捕されるかもしれねぇし、 てめェがナノマシンに身体乗っ取られて不治のウィルス撒き散らして 世界が崩壊するかもしれねぇ」 「物騒だねぇ」 ジョッキの底に残ったビールを最後の一滴まで飲み干そうと傾けた男の口元には苦笑にも似た笑みと泡が付いていた。 おしぼりを顔に押し付けて、一瞬だけ相手の顔を隠してから、わざとあきれ返った口調で続ける。 「それよりも、俺が早々にどうしようもねぇマダオに愛想尽かすかもしれねぇな…」 「おぃぃぃぃ!」 「つまり、だ。まだ、何も決まっちゃいねぇ」 「…おぅ」 まだ未来は決まっていない。 「大体、まず何も言ってねぇし、言われてねぇ。始まってねぇ」 「あー…そこ、な。そこもう省かねぇ? その様子じゃ、未来の俺あたりが恥ずかしいこと、どうせ言ったんじゃね? もうそれでいいじゃん」 「ふぅん…恥ずかしいこと、なぁ」 「ふぅん…て、ちょ!」 恥ずかしいこと、確かにあんな状況でなければ、恨み言を混ぜていなければ吐き出さないであろう言葉もあったと思う。 けれども、詳細は知らないといいつつ、銀時自身が言ったのではないかと想像するならば、いう心づもりがないこともなかったのだろう。 聞いていないふりをしてみたい気もしたが、自分も言わされることになるのも癪だ。 「俺も言ったからいいんだろ?未来のてめェに」 「へ?ちょっと!いや、まさか、5年後の俺となんかあったとか言わねぇよな? 日照り続きだったからって!ちょ!我ながらねぇよ! 土方の初めては俺の波動砲がぶちぬ…ぐお!」 「ばばばばばば馬鹿がっ!」 「土方真っ赤…おいっ!」 「やってられねぇ!」 思いの外、ストレートに慌てた上に直接的なセリフを吐き出した男に狼狽えて土方は勢いよく立ち上がった。 安普請の机が軋み揺れて、割り箸が床に落ちる。 「土方!」 「自分で確認すりゃいいだろ!」 「っ!」 じわりじわりとアルコールが胃を焼き焦がし始める。 ころころと転がった箸を見送りながら、碌に食事をしないままビールを飲んだことを少しだけ後悔した。 「毎度!」 カウンターに伝票と札を数枚置いて、釣りの有無を聞かずに土方は店を出た。 暖簾の外は軽く雪が降り始めている。 雪は冬を強く意識させた。 追いかけてきた気配が土方の手を取る。 土方よりもやや高い体温の手はやはり5年後のものとは少し違い、でも同じ手だった。 温かい。 「ん?」 「別に…」 手だけでなく、顔も体も暖かいのは胃を焼くビールのせいだけではないと土方は承知している。 銀時も同じだと、繋いだ指先がそう語っていた。 細雪が静かにネオンの光を乱反射していた。 降り続いてはいるが降り積もることはないように思われる。 それでも、雪が冷たい水に変わって、身を濡らさないうちに。 言い訳のように早まる足を叱咤するように肩をぶつけ合いつつ、夜のかぶき町に二人は消えていったのだ。 そして、の先。 まだ未来は決まっていない。 『そして、』 了 (177/212) 前へ* 【献上品・企画参加】目次 #栞を挟む |