『月の名前 黄昏月 前篇』
目が醒めると、既に太陽はその姿を隠していた。 障子越しに感じる空気には夜の気配が含まれている。
見慣れた自室の布団。
解毒剤を打ってすぐ酷い眩暈が土方を襲った。 ぐらぐらと揺れる気持ちの悪い視界のなかで、近藤や坂田が土方を布団に運び、それぞれ動き始めるのをぼんやりと眺めながら意識を失ってしまっていたようである。
近藤はこう、と決めると実は行動が早い。 普段は、ストーカー行為にしか発揮されてはいないのだが。 土方は苦笑する。
きっと、バタバタと土方が抜けたシフトの穴埋めを(主に山崎が)行い、坂田が逗留する手筈を整えていったのだろう。
土方は、ゆっくりと身体と起こした。
副作用で身体機能が落ちるといっても、全く動けなくなるわけではないらしい。 ただし、ひどく身体を動かすことに時間と気力を必要とする。 兎にも角にも、身体が重たい。
確かに今の自分の状態では、攘夷浪士どころかその辺の子どもにさえ切り伏せられてしまう。誰かの助力が必要なことは認めざるを得ない。 その誰か、万事屋を営む坂田銀時は今はこの部屋にいなかった。
しかしながら、不思議なことだと思う。
鴨川で坂田の記憶を失っていることに気がついてから、実に狐に化かされたような気分だ。 間違いなく、周囲の人間は『万事屋坂田銀時』は以前から存在するという。 皆が皆、煙草屋の女主人まで、寄って集って土方を担ごうとしているわけではないだろうし、公式に残る報告書の類にも名前が所々でてくるのだ。
だが、土方の記憶に男はいない。
自身が助けられたという伊東の事件も、花火大会のことも、池田屋でのことも、チャイナ娘やメガネの他にも誰がいたような気はするものの、霞みがかかったように思い出すことができない。 解毒剤を飲んで、さらにそれは酷くなっている。 真選組の記憶を消されなかったのは、幸いだといえば、幸いであるが、なぜあの時、入田は今際に坂田との記憶を選んだのか。 なぜ、真選組自体にかかわる記憶ではなく、坂田銀時という男の記憶だったのか。 それほど、土方の中で坂田は重要な位置を占めていたということなのか。 理屈で、紙でわかる事柄ではない部分でうごめく感情があることだけは土方にも朧げにはわかる。
真昼の月のように、そこに存在はしているのに見えない姿。
「月か…」
あの銀色は月を思わせる。 不意に、頭のなかで煌々と光る十六夜月と桜が浮かんで、そして消えた。
「な…んだ?今の…」 川から上がった以前の坂田に関する記憶は完全に消えているはずだ。 今の季節、桜はそぐわないであろうし、あの晩は月は無いに等しかった。
「坂田…」
首を傾げて、名を口にする。
「なに?」
ちょうど泊まり込む用意を済ませて戻ってきていた男は呼びかけられたと思ったのか、独り言のつもりの声に呼応した。丁度良いと問いに変える。
「坂田、でいいんだよな?」 ずっと、『坂田』と呼んでいたのだが、自分でもどこか違和感が付いて回っていた。
「…なんだ…解毒剤飲んだとこまでリセットしちまってんのか?」 「いや、鴨川打ち上げられてからは覚えてる」 「じゃ、なんだよ今更」 「坂田ってなんか呼びにくい、気がする…」 坂田は、くしゃくしゃと自分の髪を掻き混ぜている様子を見ながら、土方は続けた。
「クソ天パとか、銀髪とか…そういう呼び方の方がなんかしっくりくる」 「どんだけ俺のアイデンティティ、天パに詰まってんですか。コノヤロー」 「仕方ねぇだろうが。そんな鳥の巣みてーな頭なんだからよ」 「あぁ、そうですか!じゃあ、教えてやんよ。 オメーは俺のこと『銀時』って名前で呼んですぅ」 「あ゛?」 突然の返しに、眉間にかなり凶悪なシワがよった。
「ほら、呼んでみ?十四郎?」 「んなわけ…」 「だって、『坂田』じゃ違和感あんだろ?呼んでみろって」 「…ぎ」 呼びかけた時だった。
「旦那ぁ。ドサクサに紛れて刷り込もうとはさすがだねぃ」 「総梧?」 間延びした、聞きなれた声が廊下から聞こえてきた。
「ちょっと呼ばせてみたかっただけじゃん」 「おい!坂田テメっふかしこいて…」 「そうですかい?ちょっとどこかかなり本気にみえましたが」 「仕方ねぇなぁ。屋号呼びだ屋号!」
僅かに持ちあがった総悟の口元に腹黒い何かを見たのは土方だけではなかったようだ。 舌打ちした後、坂田は渋々といった態で訂正した。
「屋号って…万事屋?」 「そ」 「万事屋…」
口に出してみる。 確かに『坂田』呼びより舌先に馴染む気がした。
「ま、事情は近藤さんから聞いてますがね…」
沖田の顔は明らかに新しいおもちゃを手にした子供のようで、嫌な予感に土方は無意識に一歩身を引いた。
「旦那。心中お察ししますんで、いっそ、この機会にヤリ倒してくだせぇ」 「は?!」 「何言ってくれちゃってくれてんの?!沖田くん!こんな状況に乗っかるほど飢えてねぇよ! いや、ぶっちゃけ飢えてんだけど、飢えていません!」 「駄々漏れでさぁ。大体名前刷り込もうとしてた御仁が今更」
ヤるの意味を判別できず、更に一歩下がろうと重たい身体に鞭を打つ。 坂田の慌て具合を見ながら、目を見張った。 まさか、そんな間柄だったのだろうか?という疑問が浮かび、しかしそんな相手を屋号呼びするのも奇妙であるし、いくら記憶がないとはいえ、自分が衆道の嗜好に傾いたとは思えないと全力で思考を現実に引き戻した。
「そういや!総梧テメー、浅草方面回ってるはずじゃねぇのか?」 「嫌だなぁ小舅がいやがる。旦那ぁこの人全隊士のシフト覚えてるやがるんですぜ。 気持ち悪ぃ」 「うわっマジで?銀さんお付き合いしたらきっちりスケジュール管理とかされちゃう? 俺、束縛されるよりする方が土方拘束する方がいいんですけど〜」 「ふざけんな。総梧だけじゃなくて、テメーもドS属性かよ!」 腹の底から怒鳴りたいが、うまく筋肉への指令を伝えられず、大きな声がだせない。
「拘束ネタはまた今度じっくり聞かせてもらいまさぁ」 「だから!総悟!テメーは巡察、どうしたんだって聞いてるんだ?」 「浅草で例の窃盗団出ましてね、隊士に怪我人が出たんで、6番隊に引き継いで、 一度戻ってきやした」 「何企んでやがる?」 「人聞きが悪い。隊士を思いやって、帰営したらおかしいですかい?」 「あぁ、テメーに限ってはな」 普段の総梧なら、そのまま追っかけて行きそうなものだが… 「早く飯にしたかっただけでさ」 答えるつもりがないらしく、さっさと出ていく。
「いいの?」 それまで、静かにしていた坂田が、沖田の完全に去ってから、短く尋ねてきた。 「手はうつ」 重たい腕を持ち上げ、机上に江戸の全図を拡げようとした。 ひどく緩慢な動きであることがもどかしい。 すっと背後から腕が伸びてきて、補助された。 「すまね」 その言葉に何故か坂田は目を見張り、すごくいたたまれないような、困ったような笑みを浮かべる。 「なんだ?」 「いや、なんでもねぇ」 自分はあまり素直に言葉を紡ぐ方ではないが、礼ぐらいは口にする。 しているはずだ。 昔ならともかく副長なんて役職についてからは、誰でも彼でも噛み付くのは自重できるくらいにはなった。逆に、身内には気をつかわない分、容赦ない自覚もある。 (つまりは、それくらいコイツを俺は懐のうちに入れていたということか)
「あのさ、今日は仕事止めたほうがよくね?」 「あ゛?」 「運動能力も落ちてんけど、オメー思考の方も緩慢になってるだろ?」 「んなわけねぇ」 「じゃ、これは?」 指差された地図をよくよく見ると、上下が逆さになっていた。
「あ…」 「今、オメーの頭ん中は『呀紗』と戦ってんだからよ」 肩越しにあった坂田の気配が再び遠退き、背後に転がった。 「記憶が消えるか否かが分かるのにどれくらいかかるんだ?」 「確か…お、あったあった。え…と24時間で回復の兆しがあれば、見込みがあると診ていいみてぇだな」 ガサガサと懐から取り出したメモ書きを読み上げてくれる。 「24時間…」 服用したのが、おおよそ午後4時頃。
明日の夕方には、何らかの異変が起こるのだろうか。 文机から、ゆっくりと身体を起こし、縁側への障子をあけた。 「おい!寒いだろ!」 後ろで坂田の文句が聞こえるが構わなかった。
秋から冬へと向かいはじめ、夜空は深くなった。 どこからともなく香るのは、柊のちいさな花。 庭木として、この屯所にも植えている。
「だから、寒ぃっていってんだろ」 いつの間にか、傍にやってきて、肩から土方の羽織りをかけてくれる。
「大丈夫だ。これくらい空気が冷たい方が頭がしゃんとしてくれる」 「いっつもマヨネーズみてぇな高カロリーなもん食ってるから、体温上がりやすいかもしんねぇけどよ」
不思議なことに、坂田の言葉は憎まれ口なのにもかかわらず、どこか優しい。 周囲から教えられる、土方と坂田の間柄からは想像できないほどに。 この銀髪を自分は、そのギザギザとした葉のように、何故よせつけなかったのだろうか。
「うるせぇよ」
どう反応するのが正しいのか解らぬまま、再び夜空に視線を戻す。 羽織りに添えられたまま、肩から動かない手の平の熱を思いながら、細い細い生まれて間もない月を眺めたのだった。
ジリジリと変化がないまま、過ぎていく。
通常通り、朝の申し送りを済ませ、山崎に昨日の一番隊の捕物について調べるように指示をだし、怪我人の穴を調整して、近藤が溜め込んだ事務仕事を片付ける。
普段であればなんの苦もなく頭に入り結論を導き出している行程が、どうにも思い通りの速度で処理することが出来ず、そのことにイライラしながらも、とにかく紙をめくり続ける。
「副長」 山崎が手に盆を持って入ってきた。
「ジミーのくせに気がきくじゃねぇの」 土方とともに食堂で昼飯をとった後、昨日同様、土方の自室に寝転んでいた坂田が、引ったくるように盆を取り上げた。
「旦那!お茶がこぼれそうだったじゃないですか!」 「大丈夫大丈夫!お、うまそ」 パクりと早速甘そうな大福を幸せそうに頬張っている。
「頼まれものは、こっちに置いておきますよ」 山崎は部屋の一角にコンビニの袋を置く。
「お、さんきゅ」 薄いビニール袋から透けて見えるのは、どうやらいちご牛乳の類のようだった。
「げ…そんな甘ぇもの飲むのかよ?」 「おぅ!糖分とカルシウム、おまけにビタミンまで一気に摂取できる優れものよ?」 「それで、そんなフワフワした砂糖菓子みたいな頭してんのか…」 「天パと糖分まったく関係ないから! オメーこそ、そのツヤッツヤの光沢はマヨネーズの油ですかってんだ?!」 「マヨを馬鹿にするやつはなぁ…なんだ山崎?」 土方と坂田のやり取りをみていた山崎がニヤニヤしているのを見つけて、とりあえず、殴っておく。
「い、痛いですって!ただ、そうやってるの見てると、あんま普通だったから、杞憂だったなと思っただけじゃないですかぁ!」
「あ゛ぁ?杞憂だぁ?」 土方も坂田も怪訝そうな顔で地味な男をにらんだ。
「違和感在りまくりだよ?ついさっきも手ぇ貸したら素直に礼言うんだぜ?あの土方が!」 「礼って…え?副長が旦那に?」 山崎の顔色がまた変化する。
「な、なんだ?おかしいか?」 「あ、あの…何か、すいません…俺、てっきり効果があっての会話かと…」 「「?」」 「あ、あの、もう午後4時を回ったんで結果が…」
慌てて、壁にかけられた時計を確認する。 すでに短針は4をまわり、皮下注射を投薬してから24時間が経過していたことに気が付いた。
「ふーん」 短い返答のような、それでいて他人事のような声を上げて、坂田は大福を食べ続けている。 土方はその顔をみた。 しかし、そこにはなんの感情の動きも見つけることができない。
もう少し何かリアクションがないものだろうか。 なぜだか無性に苛立つ自分に苛立つ。
「で?山崎」 居心地悪そうに座る部下に手を伸ばして、会話の矛先を変えた。
「はい?」 「そいつが本題じゃねぇのか!」 山崎の手に握られてままの紙の束を指し示す。
「あ、はい」 慌てて、報告書を寄越してくる。 いつものことながら小学生の作文かと突っ込みたくなる文を読みながら、今後の方針を検討する。
「山崎、今日総梧…いや一番隊は通常通りか?」 「沖田隊長に大きな動きはないですね。昨日に怪我した隊士が明日また自分のかかりつけ医のところに行くとのことで休暇願いがでているくらいです」 総悟は頭は良くないが、けして馬鹿ではない。 こちらの動きに気が付くと話がややこしくなるだろう。
「そうか…かかりつけ医…」 「はい」 無駄な話は必要ない。
山崎の報告にある窃盗団の隠れ家。 昨日の精鋭揃いの一番隊の怪我人。 巡察の隙間をぬって行われる犯行。
「明日は…近藤さんは内勤だったな」 「えぇ、ご指示があれば本日中に餌は撒きます」 自分の身体が思うようにままならないことを考えると、今動きたくないのが正直なところであるが、総梧が暴走する前に片付けたい。
「坂田、悪いが今晩でかける」 土方は、あっていう間に菓子器の大福を平らげ、茶を啜っていた銀髪にそう宣言する。
「出かけるって…お前ね…」 「わかってる。パトカーで回るだけだ。俺は餌だからな」 「ま、いいけどさ」 坂田は、面倒臭そうに返事をする。
「では10時に」 山崎が短く答え、足早に副長室を出て行った。
「坂田、独り言だから、聞き流していてほしいんだが…」 自分でもわかっていた。 これは八つ当たりだと。
自分が記憶を取り戻そうと、そうでなかろうと大した違いは、実のところ坂田には関係なかったのかもしれない。 紙で残る記録、周囲からみた自分達の在り方、評価。 どこを見渡しても、仲が良かった点など見つけることができないのだから。 だから、きっと事件に撒きこまれ、たまたま土方に関わってきただけ。 伊東の件同様、腐れ縁で京都にもやって来ていただけで、わざわざ自分を追ってきたわけではないのだ。
その証拠に、完全に記憶が戻らないとわかっても顔色ひとつ変わらない。 自分ばかり、気に病んでいるようで、悔しい気がしたのだ。
「ん〜何?」 「その…もう、今となってはお前との過去を思い出すことも出来ないだろうが、オメーのこと、多分嫌いじゃなかったんだと思う」 「は?」 茶菓子を食べつくすと、再び寝そべっていた銀色が勢いをつけて起き上がった。
「だから!聞き流せって!だけど、今更だしよ。テメーも俺のこと忘れてゼロからのつもりで…」 「今、なんつった?」 「あ゛?ゼロから…」 「じゃなくて、嫌いじゃなかった?」 「お?おう…たぶん」 勢いに押されて、思わず口ごもる。 急に、死んだようだった瞳が活きてきて、勢いよく尋ねてくるので、少し後ずさった。
「たぶんかい!いやいや、多分でも何でもいいけどよ…いやいやいや、進歩したのか後退してんのかよくわかんねぇ状況だなオイ」 「坂田?」 「俺もひとつだけ聞いとくわ。オメー薬盛られて雲隠れしてた時、何処に潜んでた?私邸じゃないだろ?」 何故、この男は自分の私邸のことを知っているのだろう。 あの場所は、滅多なことで人に教えるはずがないのに。
「空海軍の船に…」 「『榎さん』?」 「そ、そうだ」 答えながら、やはり疑問は増えていく。 榎本を『榎さん』と呼ぶような場面に坂田は同席していたのか? 一体、どこまでこの男は自分に関わってきたのだろう。
「ふーん。じゃゼロからなんて言ってられねぇな」 「は?」 「いや、ライバルに遅れをとるわけにゃいかねぇ」 「ライバルってなんのこと…っ」 急に顔が寄せられて、一瞬だけ、鼻の頭にかさついた坂田の唇が触れて、直ぐに離れた。
「ホンッと鈍いな。薬のせいもあんだろうけど」 「な、にしやがる…」 「鼻ちゅー?」 「は?そういうこと聞いてんじゃねぇよ!」 再び緩い顔に戻って、坂田がへらりと笑った。
「気にすんな。こいつ、返してくらぁ」 よっこらせと立ち上がり、菓子器と自分の湯呑をのせた盆をもって食堂へとひとり向かってしまった。
「い、一体なんなんだっ?!」 鼻の先に、いつまでも坂田の甘い香りと唇の感触が残っているようで、ゴシゴシとぬぐう。 八つ当たりのつもりで、発した厭味がなにやら違う方向を刺激してしまったようで、混乱した。
「訳わかんね…」
わかんねぇんだよと繰り返し、 ごとんと文机に額を落とし、指先で筆を転がしてみたのだった。
『月の名前 黄昏月 前篇』 了
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