『花の名前 はなしょうぶ』
雨は苦手だ。
万事屋の主人は、自室の万年床で、夜半、魘されて、目を覚ました。
月の頃は水無月。 水の無い月と書くが、『水の月』の意。 名の通り、今年もよく降り、そして降り続いている。 長雨は空気をじっとりと湿らせ、不快感を煽る。
「この季節は…苦手だ」
坂田銀時は呟いた。
毎年、この梅雨頃から夏にかけて、銀時は夢見が悪い。 土砂降りなら、良い。 日中、馬鹿をやっている時は良い。 特段、夏、というわけでは元々はない。 ただ、じとじととした長雨が、急速に失われていく仲間の体温を、かつて身を置いた戦場の記憶を呼び起こさせる。 雨上がりの大気に混ざる夏前独特の腐敗臭が、あの敗走の絶望を、相乗させて。
銀時は柱に打ち付けられた時計に目を向けた。 短針は4の文字にわずかに届かない辺りを指していた。 また、微妙な時間だなと湿気で暴発した髪を掻き回す。 今日は、どこにいても、雨音が聞こえるだろう。 じっと、室内に響き渡る雨音が、確実に自分をあの頃へ閉じ込める。 それならいっそと、寝間着にしている甚平を脱ぎ捨てて黒いインナーを手に取った。 インナーまでが湿度を帯び、じんわりと冷たい。 好ましいとは到底言えない感覚を振り払うためにも手早く着こんで、着流しに袖を通し、帯とベルト、そして木刀を身に着けた。
かちりと長針が頂点を打つ音が鳴る。
一度だけ、神楽の休んでいる押し入れのふすまが動きそうにないことだけを確認してから日の出前の町へとブーツで踏み出した。
傘を差し、目的地も定めず歩く。 さすがのかぶき町も、この時間になると、無人とはいかないまでもそれに近い。 ゴミ箱を漁る野良猫も雨から逃れるために身を隠しているようで路地裏も静かだ。 辺りにようよう耳をすまさない限り他の音は感じられず、傘を打つ音だけが銀時の身にまといついていた。
傘の先から伝わり落ちる水を見るともなしに見上げ、例年に増して鬱状態がひどいなと妙に冷静な心持で己の状態を分析した。
原因を考えれば、先月、高杉と再会したからだろうかとも思わなくもない。 恩師を失った後、この世界に絶望し破壊の衝動に身を投じた男が、銀時が手を伸ばすと決めた相手と向かい合ったからか。
武装警察と現役テロリスト。
極論を唱えるならば、殺し合いしか選択肢のない二人であるというのに、高杉は土方に共に来いと言った。 惹かれる理由も何となくではあるがわかる。 銀時自身も、つい最近気づいたことだが、土方十四郎という男は、魂の色が少し違う。
例えるならば、漆黒。 何者にも侵されない至高の色。 他に染められることなく、一歩誤れば、飲み込まれる強い色。 だが、そこに並び立てるならば、相手がどんな色であろうと、引き立たせ活かしてくれる誘惑を潜めた危険な色。
きっと、今の高杉の狂った色の横ででも際立つだろう。 きっと、高杉は現行のメンバーではないかつての「鬼兵隊」の人間の代わりを、 変わらなく強いものを彼に求めたのかもしれない。
どちらにしても、土方が真選組馬鹿で高杉に着いていくなんてことはありえないとは知ってはいても面白くはない。
土方と銀時の関係は相変わらずだ。 それを考えれば、元々沈んでいた気分は更に下降した。
土方は変わらない。 銀時の言葉をからかっているのではないとわかってくれたことだけが進展と言えば進展だが、返事は頑なに否としか答えない。 銀時のセクハラまがいのアプローチに、土方がまっ赤になって応対、つかみ合いの喧嘩というパターンが続いている。
それでも、先月のように避けられるより、ずっとマシだとは思っている。 思っていなければ、やっていられない。
顔を見たいとおもった。 彼の顔をみれば、何が起こるというわけでも、事態が好転するわけでもないのではあるが、無性に顔を見たい。 笑わなくてもいい。 無愛想な顔のままでいい。
「なんてな…」
なんと短期間で毒されたものだと膨れ上がった髪の毛を撫でつけ、道に目を戻した。
ぼんやりと歩いていたので、あまり立ち寄ったことのない地区に入っていたようだ。 馴染みのない公園の前で足を止める。
ふらりと入ってみた。
珍しく、花卉が充実した公園で、あまり子供向けではない感がある。 今が見ごろの花菖蒲がかなり広い区画に植えられていた。 湿地で咲き誇るその花は、雨に打たれて、ふっくらとした色香を纏わせている。 雨雲を白鼠色に照らし始めた光がさらに紅紫や白と紫の絞の花と葉の緑のコントラストを際立たせるように見えた。
びくりと銀時は気配に身体を強張らせた。 良く知った気配だ。 木刀に手をかけるまでもない。
「朝っぱらから、しけた面してやがるな」
それでも、こんな時間に、こんな場所にいるはずのない人間だと、恐る恐る振り返る。 だが、予想を違えずそこには、傘もささずに黒い男が立っていた。
確かに顔を見たいとおもっていた。 だからこそ、今目の前にみえる武装警察の副局長殿が実体のある本物であるのかにわかには反応できなかった。
いつものように軽口を叩こうとは思うのではあるが、声が張り付いたように出てはこない。
「……土方こそ…なにしてんの?」 それだけ、口に言葉をのせるのがやっとだった。
黒い男―土方十四郎は、ずぶぬれだった。 後から考えれば、こんな町はずれの公園で、そのような恰好で、伴もつれていない状態の彼を見たのだから、幻かと思っても致し方ないことだと思う。
「見りゃ分かんだろ。仕事だ」 確かに隊服姿だ。
「いや、傘…」 「最初は差してたんだが、壊れちまった」
かなりの濡れ具合だから、既に意味など成さないのだろうが、銀時は自分の傘を傾ける。
一本の傘の内側の距離。 銀時の鼻を鉄錆に似た匂いがかすめた。
今1番会いたかった人から、今1番嗅ぎたくなかった血臭。
「怪我?」 「返り血。まだ臭うか?」 おもむろに、ふんふんと土方は自分を臭い、銀時の傘の中から出て、空を仰ぎ見る。 シャワーでも浴びるように。 雨に再び濡れた。
「…なにしてんの?」 「洗い流してる」 「はい?」 思わず、銀時は聞き返した。
「攘夷志士だろうが、将軍だろうが、いずれ地面に帰るんだから」 手の平を天に翳しながら、うっすら笑う。
「俺は雨、嫌いじゃねぇよ。すべて洗い流してくれる。俺みてぇな人斬りには恵みだ」 土方は何でもないことのように言う。 お前は人斬りなんかじゃないだろう? そう言えなかったのは、土方になんの気負いがなかったためだ。 むしろ、己に言い聞かせる、というよりはどちらかというと銀時に言い含める意図をそこに感じた。
「おめぇ…」
土方は銀時が雨が苦手なことなど知る筈がない。 しかし、明らかにしっかりしろと、言葉は少ないが告げられている。 心の中で舌打ちしながら、銀時は膨れ上がった頭をかゆくもないのに掻き毟った。
「…花菖蒲の前で不粋な話で悪かったな」 背後に紫色の花を配し、土方は妖艶に口の端を上げる。 ざあざあと銀時の上には雨粒が傘を打ち、さあさあと土方の隊服にしみ込み切れなかった雨粒が滑り落ちていく。
「『わが恋は人とる沼の花菖蒲』ってな」 ポツリと土方がつぶやいた。
「誰の句?」 「最近、出てきた新進気鋭の作家の句だったか…」 「それって土方君の心情?」
自分の恋は、花菖蒲のように清楚だが、人をも飲み込むような、もしくは溺れさせるような危険なところにあると、 作者の背景を読まずにそのままの言葉で受け止めるとそんな内容なのだが、意味深とも取れる内容に目を細める。
「さぁな。ちっと思い出しただけだ。そういや、花菖蒲の花言葉知ってるか?」 「…土方くん、覚えてんの?意外に乙女だね」
土方と花言葉… 普段、チンピラ然といている癖に時々妙な教養をみせる。 幕臣の端くれとして話の種にと努力している成果なのか、それとも銀時がまだ知らぬだけで子供向けのアニメやヤクザ映画以外の趣味の一端なのかという興味はひとまず横に置き銀時は笑って返した。
「うるせぇよ。たまたまだ。たまたま。それより知らねぇのかよ?」 「銀さんにそんな趣味ねぇよ」
長めの前髪を滴り落ちる水滴が気持ち悪いのか、かきあげられ、額があらわになる。 想像よりも秀でたその額に口付けたいという衝動を飲み込んで不貞腐れた風を装う。
「じゃ、宿題だな。調べとけ」 「はぁ?」 土方は用は済んだとばかりに公園の出口へと進みはじめた。 知っている知っていない以前の問題で、土方の意図が読めない。 置き去りの状況に幾許か大きな声で抗議をした。
「何なんだよ?!一体?」 「ちったぁマシになったその面でさっさと帰りやがれ。無い頭で答えのない問いに神経擦り減らしてんじゃねぇよ」
更にとどめとばかりに餓鬼どもの方がよっぽど現実見据えてらぁと付け加えれば、銀時の足は完全に追う動きを止まってしまった。 傾いた傘から水か一気に滑り落ち地面に落ちてぼたぼたと大きな音をたてる。
「くそ…」
追うことは気恥ずかしさから出来そうになかった。 銀時は土方の後姿を見送る。
雨はまだやみそうにない。 だが、目覚めざわつき始めた町と同じように銀時の目の前が少し彩あるように見え始めた。 雨音は銀時を責め立ているようには聞こえない。
「雨は嫌ぇだよ」
それでも呟けば、ざざざざと雨と風で葉と花をゆする花菖蒲の花に笑われた、そんな気がした。
数日後。 雨は上がった。
あの菖蒲園で出会った後、宿題だと言われた花言葉を銀時はすぐに調べてみてはいた。 少しは、土方の真意が解けるのだろうかと。 結果は惨敗。 雑然と並べられた言葉群に一体どれを使って解釈すればよいのやらと、ますます混乱する一方だ。 今も、神楽たちが出掛けて、静かな万事屋のソファで書きだした言葉も今日も眺めていた。
『花菖蒲の花言葉 「うれしい知らせ」「優しさ」「伝言」「心意気」「優しい心」「優雅」「あなたを信じる」』
元気な足音が外階段を駆け上がってくる。
「銀ちゃん銀ちゃん!!これこれ」 「おけーり」
賑やかに応接室兼事務所の空間の飛び込んできた少女に目の前を深紫でふさがれた。 しっとりとした布でも紙でもない感触と、草の匂い。
「あ?これ、どうした?」 「トシちゃんがくれたネ!私たちみたいな花って言ってくれたヨ!どういう意味あるか?」 「な…」
眼前に広がる花菖蒲の花に言葉を失った。
「そ…いうことかよ…」
銀時はそこで頭を抱えた。深読みすることはなかったのだ。 完全にはぐらかされたのだと銀時は知る。 花言葉は「土方」からではない。 土方から子どもたちの気持ちを、伝言を重ねて伝えられていたのだ。
「銀ちゃん!この花の意味!」 「知るか!メシだメシ!!」
銀時は花言葉のメモを神楽に押し付け、乱暴に花を掴んでソファから勢いよく立ち上がる。 真っ赤になって、部屋を出ていく銀時を子どもたちと花菖蒲と見比べはしたものの、何をか察したのか、それ以上突っ込んではこなかった。
それを有難いとは思いつつ、逆に更に気恥ずかしさも増して。
「覚えてろよ…」
押し入れの奥から引っ張り出した花瓶に勢いよく水を流し込み始めたのだった。
『花の名前 はなしょうぶ』 了
参照: 『わが恋は人とる沼の花菖蒲』 泉鏡花 花言葉:花言葉事典http://www.hanakotoba.name
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