『花の名前 ふじ』
「銀ちゃん」 「ん?」
今日は自分の縄張りであるかぶき町ではない町で仕事が入っていた。 その帰り道。
「あの紫の花、ブドウみたいアルな。食べられるアルか?」 「あぁ?藤棚かぁ。食べられねぇよ。腹の足しにはなんねぇな」
神楽の言葉通り、その店は塀越しからも見事な藤棚が見て取れた。 夕暮れの穏やかな風に吹かれ、ふわふわと優しげに揺れている。
5月に入り、花は藤が見ごろを迎えていた。 風で揺れる藤色は涼やかで、実際に音を立てているわけでもないのに、小さな花を連結させた枝ごとさらさらと鳴っている気がした。 同じように風に揺れていながら、やはり個々の花も微妙に違う動きでそれぞれにさらさらと。
手入れの行き届いた藤棚はちょっと自分達には敷居の高そうな店ばかり並ぶその一角、見るからに高級そうな料亭の庭から垣間見えるものだった。 その料亭に1台の黒塗りの車が停車した。
「あ?」
銀時は一瞬目を眇める。
店の格式から言えば違和感はない。 銀時が思わず声を漏らしてしまったのは、車から降りてきた人物が見知った人物であったからだ。
後部座席から一番最初に降り立った渋い紬の和装の男。 年のころも身長も銀時と変わらない。 背格好、烏の濡れ羽色の髪、整った鼻筋。 見慣れた黒い隊服でも非番の日によく着ている着流しでもない。 まして眼鏡をかけているがどう見てもと首を傾げた。
「土方?」
多少の距離があるからか、銀時の声が届かなかったのかもしれない。反応はなかった。 続いて降りてくる相手に注意が向いているようで目もあげない。 体格の良い中年の男。 まだまだ手を貸されるような年齢ではなさそうに見えるが、どこか体が悪いらしく土方が手を貸している。 仕立ての良い着物を着てはいるが、幕臣といった雰囲気ではない。 そして、土方は優しげに微笑んでいた。 愛想笑いではない。直感で銀時は感じる。 二人の間に流れている空気は親密そのものであるように思われた。
「あれ、副長さんだよね?」 「え?」
真選組の顔ぶれを全て知っているわけではもちろんないが、現役の隊士という歳でもない。 人違いの可能性を思わず横にいる、新八に問いかけていた。 眼鏡のフレームを正規の位置に合わせ、少年は少し目を細めて女将にあいさつをする男に注意を動かした。
「人違いじゃないですか?帯刀してませんし…」
言われてみれば、一部の人間にしかもはや許されなくなった真剣がその腰には見当たらない。 土方という男は武装警察という組織の看板ともいえる立場にいる。 いつ何処でテロや襲撃にあってもおかしくはない彼ならば、必ず刀を持っている。
首を傾げるうちに、銀時の想い人によく似た男は壮年の男を支えるように料亭内に入っていってしまった。
藤色を更に藍色がかった色に返る空を見上げながら、先ほどの男が土方で無くてよかったと静かに思った。 もしもあんな風に、たとえ接待という理由が付いていたとしても、今の銀時では冷静でいられる自信は到底ない。口説いている最中(つもり)とはいえ、かなりのダメージを受けることは必至であろう。 ドSは打たれ弱いのだ。
「銀ちゃん。さっさと帰るアル」 お腹すいた〜と神楽が騒ぎだし、我に返った。 「そうだな。懐も温かくなったことだし、買い出し寄って帰るか」
依頼先で出された弁当は上品な味付けと見栄えではあったが、明らかに量は自分の腹もまして大食漢の神楽の胃を満たすには足りてはいなかった。 ぐうぅと鳴る少女の腹の音に笑った。
5月に入り、ずいぶん日が長くなってきてはいるが7時に近くなるとそろそろ闇が落ちてくる。 夕暮れと共に藤の香りが仄かに薫ってきた、そんな気がして、もう一度だけ藤棚を振り返った。
桜の咲くころ、銀時はふらりと寄った土方の私邸で結ばれた。 結ばれたとはいって、お互いの気持ちがどうだのなんて言葉を交わすでもなく、本当に極自然に、なんの違和感もなく、重なった。 桜に酔っていたという表現が近い。 お陰で、明くる朝、我に返った時には二人共に大きな混乱を落とす。
坂田銀時は、これまで自分の性癖は(若干ドSではあるが)ノーマルだと思っていた。 股間センサーが働くのは女性に限られていたし、女装した男に食指が動いたことはない。 SM要素の含まれたAVを見はするし、ナース服は大好きだが、そういう類の店に入り浸ってまでヤってみたいとも、ヤりたい思ったこともない。 で、あるから、現在進行形でノーマルだと思っている。
土方十四郎という、ただ一人の存在に囚われるまでは。
なぜ、瞳孔開き放題のチンピラ警察にと冷静に考えても、何度考えてもおかしい。 おかしいが、一夜を共にした後、秘蔵のAVをみても、お気に入りのお天気お姉さんをみても、気が晴れることはない。 単純に土方十四郎という男から目が離せず、銀時の思考を占めているものも、土方十四郎だった。
「惚れちまったもんは仕方ねぇ」
自覚すると同時に、ある意味銀時は開き直っていた。
似た者同士。 思考が似ていると言われる銀時と土方ではあったが、土方の二週間の出張を経て導き出した結論は全く異なったものであった。
銀時は何もなかったことにしようと立ち去る土方を捕まえ、路地裏に引き込んだ。 背後で同行の山崎が何か叫んでいたようだが、気にしない。
「逃げんの?」 「誰が逃げるか!?この腐れ天パ」
土方の両サイドに手を置き、逃げられないように封じ込めた。 更に身体を押し付け、簡単には刀を抜かせないように圧迫をかける。 ある意味力技で押さえつけるような行動の上に言葉で煽ってやれば、土方は簡単に乗ってくることは分っていた。
「じゃ、付き合ってよ」 「はぁ?どこに?」 険しかった目の前の顔が、本当に理解出来ないというやや呆けた表情になり、慌てて言い足した。
「あー、どこにってそういう話じゃなくてさ。 一夜を共にした所謂多串くんと今後もお付き合いをしたいって言ってんだけど?」 「だから多串じゃねぇし。大体…この間のことはお互い酔った勢いってやつだ。 忘れようぜ。っていうか忘れて下さい」 「別に酔うつうほど飲んでなかっただろうが? え?何、お前は酔うと誰にでも足を広げるわけ?淫乱ちゃんだったのか? 銀さんの純情返せコノヤロー」 「誰が淫ら…!?んなわけあるか! てめぇが後悔してんだろうって気ぃ使ってやってんだろーが?!」 「じゃ、問題ないじゃん」 「なにが?問題大ありだろうが!てめぇが責任に感じることなんざ…」 今日は喧嘩をしにきたわけでも、責めたてにきたわけでもないというのに、なかなか通じない話に苛立ちが徐々に増してくる。
「そうじゃねぇよ」
それは土方も同様らしく、一度は緩んでいた顔がまるで鏡に映しだされたかのように険を帯びた苛立ったものに変化してきた。
「じゃあ、なんなんだ?」 「なに…ってはぐらかす、な、な?あ?言ってなかったか?あれ?」 何故わかってくれないと、故意にはぐらかしているにしてはあまりに天然な反応に言葉を停める。 そして、肝心なことを告げていないことに銀時は気が付いた。
「あ…好き…です?」
銀時の言葉に土方はカチンコチンに固まってしまった。 沈黙と、無反応になってしまった相手に、じわりじわりと恥ずかしさが肝臓のあたりから湧き上がってくる。脈ありだと思ったのは勘違いかと。 何か、言って欲しくて、つい口からこぼれたのはストレートすぎると自分でも思う言葉に他ならなかった。
「あ〜。多串くん見てるとムラムラします?」 「ふざけんなぁ!!原始人が!」
見事な蹴りが銀時の腹部に入った。
それから、また、しばらくの間土方の姿を見ることは叶わなくなる日が続くことになってしまっていたのだ。
土方に会えない。 前回は相手の仕事が原因だったが、今回は故意だ。 故意にきまっていると銀時は些か焦っていた。 何せいつのまにやら仲の良くなっていた神楽さえも姿を見ないとなれば、今回は徹底している風にも思えてくる。
「おや、旦那ぁ」 「総一郎くん、今日もサボり?副長さんに黙っててやっから団子、ご馳走してよ」 やむを得ず、銀時が接触したのは一番隊の隊長だった。 たかり目的を装いながら、団子屋で寛いでいた沖田の隣に座り込む。 本来なら鋭すぎるサディスティック星の王子からの情報収集は避けたいところだ。 万が一銀時と土方の関係に勘付けば(主に土方を)引っ掻き回すネタにされると同時に土方の頑なさに拍車をかける事態は簡単に予想がつく。 出来ることならば、地味な監察辺りを締め上げるか、意外に人の良い何番隊だかの禿頭隊長だかを捕まえたかったが、出来なかったために最終手段を取ったのだ。
「別に話してもらっても構いやせんよ。 俺だってサボってばかりいるわけじゃありやせんから。それに今は大仕事の前に英気を 養ってるだけでさぁ」 「へぇ…大仕事。じゃあ副長さんも忙しいんだ?」 「…土方の野郎に何か用ですかぃ?」 「別にそういうわけじゃねぇよ?話の流れ的な、そんな感じ?」
串から団子を引き抜くと、そのままもっちゃもっちゃと咀嚼しながら横目で沖田は銀時を流し見てくる。 その意味ありげな視線は自分の尋ね方が露骨すぎたせいなのか、土方の様子から何があったか既に知っている、どちらかに思えてきて、少しだけ気を引き締めた。
「旦那、最近土方さんと何かありましたかぃ?」 「何かってなんだよ?ってか俺最近会ってねぇし」 ふーんと沖田は考え込んでいるようだった。 ストレートすぎる問いかけだが、沖田の表情は読みづらくどの程度察しているのか、裏があるのか分らない。
「忙しい筈の、あの仕事馬鹿が最近夜な夜な出かけて行きやがるんですが。 そこんとこの「何か」を旦那だったらご存知か、野郎をその辺で見かけていねぇかと思いましてねぇ?」 「その辺て、かぶき町ってこと?」 静かに続けられた次の問いは全く心当たりのないものだった。
「帰ってきたら酒と何処かで風呂入ってきた匂いがしやす。本人は隠しているつもりでしょうが、香水臭さはそう簡単に隠せるもんじゃありませんからねぃ」 「は?」 絶句して、そのまま動けなかった。
「ありゃ花街の白粉の匂いじゃありませんね。もっと所謂人工的な匂いでさ。なんで夜の町に通じた旦那ならと思ったんですが、外しやしたか…旦那!」
沖田に不用意に自分と土方のことで茶々を入れられたくない、そんな気持ちは遥か彼方に吹っ飛んでいく。 反応のない銀時に気が付いた少年の手が団子のなくなった串を銀時の手に突き刺そうとした気配で流石に我に返った。
「と、あぶねぇ!本気で刺そうとすんのやめてくんない?生憎と俺は聞いたことねぇよ」 「…そう、ですかぃ?」 折角、新しいイジりネタが出てきたと思ったんですけどと続ける沖田の言葉は耳から遥か遠いところの音でしかない。 運ばれてきた新しい団子の山に手を伸ばしながら、口に放り込む。 だが、土方を見つけることはできないまま、逆に追加された女の陰という情報は、美味いと感じるはずの糖分の味を砂のようなものに変えてしまっていた。 それを、ごくりと無理やり嚥下し、横に座る少年に気が付かれないように静かに息を吐くしかできなかった。
結局、告白もどきをしてから10日。 沖田の情報に打ちひしがれること数日。
そんなある日の晩、小さな依頼を片付け、万事屋に三人と一匹はいつもより少しだけ豪勢な食事を済ませ、一息着いていた。 帰り支度をしていた新八がふと思い出したように話し出したことで物事は大きく動き始める。
「そういえば、この間土方さんによく似た人、見かけたじゃないですか?」 「あぁ、そんなこともあったな」
正直なところ、仕事帰りに見かけた土方によく似た男のことなど頭から消え去りかけていた。
「姉上も見かけたそうですよ。まぁ姉上は土方さんに間違いないって言い張るんですけど」 「どこで?」 「最近、隣町にできたぼったくりな会員制のクラブらしいです」 「会員制ならぼったくりだろう?普通…」 「ぼったくりだか、恥知らずだかというのはあくまで姉上の感想なんで。まぁ、どちらにしてもそんな店に土方さんが一人で行くイメージないですからね、僕はこの間のそっくりさんの方だと…」 (まさかね…) 新八を送り出し、銀時は玄関先で顎を摩った。 土方の普段の様子から、新八の言うことにも一理ある。
だが、お妙は何だかんだといって客商売の人間だ。 すまいるにも顔を出す土方を見間違えるはずはない。さらに、彼女が『そう』感じたのならば真選組の副長が接待していた、という状況では到底なかったということだ。 土方だと、確信しながら声をかけなかったのも、何かを感じ取ってだろう。
もしも、見間違いではなく、本当に土方本人であったなら、 もしも、接待ではなく土方個人が会員制クラブの上客であったなら。 沖田の話通り、夜な夜な出かけている場所がその店で、目当ての女がいるとしたら。 元々、土方は玄人のお姉さん達に人気がある。 嫉妬ばかりではない、どこが、どうとはっきりとはわからないものの、掛け違えたボタンのような居心地の悪さに銀時は小さく舌打ちをする。 そんな心情がお妙に確認する、そんな簡単なことを困難にさせてしまっていた。
「ちくしょ…」
こんな日は長谷川辺りを捕まえて奢らせるに限る。 勝手に決めつけると、銀時は神楽に風呂に入って先に寝る様に声をかけ、夜の町に足を踏み出したのだった。
「おぅ、銀時」
長谷川を捕まえに塒に出向く途中、偶然にもすまいるへ向かう近藤に出くわした。
「相変わらず、だな。このストーカーゴリラ…」 「ストーカーじゃないから!愛の狩人だからね!」 「へいへい、精々頑張って伸びたところをフクチョーさんにでも迎えに来てもらえや」
悪い奴ではない。 裏表の少ない気のいい男だと近藤のことをゴリラゴリラと言いながらも銀時は評価していた。 毎度お妙をストーキングしてはボコボコにされる姿を隊士達に見せてさえ、これだけの組織を率いるだけの人望を保っているのだから大したカリスマの持ち主だとも思う。 そんな心証に惚れた腫れたの相手が心酔しているという点で多少気に食わないという要素が近日加わったことなど相手が知る由もないだろうが。
「ん?トシ?あれ?トシ…」 「あ?トシトシうるせぇよ。なんだ?アイツも夜遊び一緒か?」 「そういえば、最近お迎えに来てくれるのトシじゃない気がするなって…まぁ記憶飛んでることもあるから何とも言えないけど」 「わかんねぇのかよ!」 ガハハと豪快に笑うゴリラによく似た男にツッコミを入れながら考える。
ドS王子の発言自体は100パーセント信用できるものではない。 それでも近藤の発言によって、沖田の指摘する「夜遊び」が近藤を迎えに出たすまいるで付けられたものではないとなれば全くの出まかせ、とも言えない可能性が強くなった。 更に外で風呂にまで入って痕跡を消してこようとしていることも同じように事実であれば、考えれば胃の奥がきゅと熱くなる。
「そうだ!銀時お前もすまいる行くなら一緒、に…あれ?」 近藤が何か言っていたが、銀時はその場を離れ、さらに増したむしゃくしゃを解消すべく、当初の目的地へと向かったのだ。
「だから!俺だって好きで天パじゃないの!つうかさーアイツも…」 「銀さん銀さん、ごめん話が見えない。そのアイツって誰よ?振られたの?」 奢るほど今金もってねぇよと喚き散らす長谷川を公園から無理やりひっぱりだし 、赤ちょうちんで管を巻く。
「ちげぇよ!振られていませんー!もしもの話でぇ」 管を巻くとは言っても、具体的な話をするわけでもない。 長期戦を当初から予測はしていた銀時ではあるが、その実ドSの打たれ弱さにも自信がある。 手ごたえがないという状況は思っていた以上に地味ながらもダメージを与えてくる。それも合わせて長谷川にぶつけていた。 マダオゆえに、マダオだからこんな時ぐらい役に立ちやがれ的な全くもって長谷川にとってはいい迷惑な解釈でもって。 「いや、いま具体的な相手いる感じで話し始めたよね?」 「銀さんはな!向こうからガバッって股広げて来る奴は御免なの!かといって、わざとらしくカマトトぶっられるもの御免だけどさ。 それでもなんでも限度ってもんがさぁ」
誰にでも、まして想い人がいるのに、股を開く土方ではないことは知っている。 開いた後に、本気の相手を見つけた、もしくは一度男と寝たことで諦めかけていた本命の男にアプローチする気になったとしたなら、 そんな詮無きことをつらつらと考えてしまう。
それでも、幾分アルコールもまわり少しだけ気が紛れた気分になって一軒目を出ることが出来ていた。
赤ちょうちんから、困惑しつつもすっかり諦めたらしい長谷川がちょっと離れてるけどツケのきく店があるからと二件目は少し足を延ばした。 その途中だ。
「あ」
一軒の高級ラウンジ然とした店から、人が出てくる様子が視界に入り銀時は思わず声を零した。 客は、かなりでっぷりとした体格の成金風の男と見送りらしい対象的にスラリとした体格の若い男。 後者は男の顔を覚えることが苦手な銀時でも見間違えようがない。 土方によく似た面差しの件の男に他ならない。
背格好、通った鼻筋、切れ長な目。艶やかで真っ直ぐな黒髪。 異なるのは、銀縁の眼鏡で瞳孔の開き気味な瞳が隠され、特徴的なV字ではなく、ワックスで上げられ秀でた額が見えていること。 そして、明らかに嫌らしい手つきでその腰回りを回された手つきに憤ることなく浮かべている穏やかな笑み。
似すぎるほどの似てはいるが、そんな態度の違いに銀時は確信を得られない。
男は明らかに「客」でも、「接待する」側でもはないようだった。 成金風の男を商売として持て成し、給金を得る側の立場。
男は手慣れた様子でするりと客の腕から抜け出すと、タクシーを呼び止め、にこやかに押し込んだ。 そうして、しつこく後部座席から手を振る客が見えなったのを見計らってから、おもむろに煙草を取出し火を付ける。 着火と共に、深く息を吸い込み、身体から煙が離れていくのを名残惜しむかのようにゆっくりと吐きだした。
「銀さん?」 事情を知らない長谷川が完全に足を止めた銀時に、声をかけた。
街の喧騒の中、男の耳に長谷川の声は届くか届かないか、際どい音量だった。 だが、明らかに男はギクリと体を強張らせた。 何気なさを装ってはいたが、男が巡らせた視線に銀時の姿が映り込んだ瞬間、煙草を咥えていた口元が煙を吐きだす動き以外の形を確かに作ったのを見逃しはしない。
『よ・ろ』 本当に小さな油断だったのだろう。 呟きにすらなってはいなかったが、明らかに口元は自分の屋号を紡ごうとし、レンズで隠されていた瞳が揺らいだ。 その一瞬、こちらに向けられた青灰色に浮かんでいたのは、銀時が探していた光に間違いない。
「土方?」 確信した。
仮装というべきか、ホストというべきかといった格好をしている理由を問う為に踏み出しかけた足は、二人の間に割り込むように乗りつけられてきた黒塗りによって停止させられた。
「ヨシくん」 運転手が降り、うやうやしく後部座席のドアを開けると、幾分ふっくらとした足が飛び出してくる。 「美弥子さん。きてくれたんですね。嬉しいな」 上客なのか、すぐに卒なく男は営業スマイルに戻って対応する。 化粧の濃い有閑マダムは土方の腕を取り、耳元に唇を寄せ、秘そやかに会話をしながら、店内に消えていった。
「土方…」 「旦那」 追いかけようとした動作は、腕を掴まれたことで妨害された。 掴んでいたのはいつのまにやら側まで寄ってきていた地味な男だった。 もしも、長谷川であれば振り払って走り出していたであろうが、土方直属の部下である山崎に銀時は思わず舌打ちするも、停止はする。
「奢りますんで、どっか店入りませんか?」 大人しいイメージが強い男であるが、今日の彼には有無を言わせない何があった。 「わぁーったよ。長谷川さん。済まねぇけど野暮用出来たからここで」 「う、うん。わかった。気を付けてね」 こういう時、有り難いことに、長谷川の処世術なのか、下手に絡まず、何も尋ねない。
長谷川とわかれ、銀時は山崎と少し離れた小料理屋へと場所を移した。
「さて?」
山崎は小料理屋の暖簾に頭を突っ込み何事かを女将らしい女性と話すと、銀時を中に招き入れた。 大人しくついて行けば、個室に案内され、すぐに酒とお通しが並べられる。 店員が障子を締切、完全に離れるまで銀時は沈黙を保ち、それから、ゆっくりと山崎を見据えて声をかけた。
「旦那…これだけは先に確認しておきたいんですが…」 「?」 山崎は両ひざの拳をぎゅっと結びながら、先ほどまでの落ち着きは何処にいったのだか自信のなさそうな上目づかいで銀時を見てくる。
「旦那が今後、副長、いや土方さんの敵に回るような可能性あります?」 銀時は言葉を失った。 先ほどの男が土方か、どうしてあんな格好でホスト紛いのことをしているのかの話か、口止めの類の話だと予想していたのだ。 だが、まさかそんなことを確認されるとは思いもしてはいなかった。
「藪から棒になんなの?どういう意味?」 山崎の真意がわからない。 口止めされたなら、それを逆手にとって情報を絡め取ろうとしていただけに、問いは慎重になる。 土方の『敵』というのは、自分が今後攘夷活動に積極的に係わっていくつもりか否かといった意味にもとれないことはないが、山崎は「副長」という言い回しから「土方」のと言い換えた。
「ぶっちゃけた話、旦那の過去のことに関しては、一応今は活動に参加する意思なしとみなされていますし、真選組としても積極的は動く予定はありません」 「そ?」 意外なことに肩の力が抜ける。 そこを蒸し返されたわけではないのなら余計にどういうことかわからない。
「そうなんです。あの人、真選組のこと以外は結構ドライなんで… なんで、ここで、確認しておきたいのは、攘夷活動に今後戻る可能性というよりも、 旧知の人間と旦那が向き合った時、土方さんとのことをどうするおつもりですか ってことで…」 思わず、お通しと共に持ってきてもらった運ばれてきていた焼酎をブッと吹きだしてしまった。 「え?え?ジミー、土方とのことって…?」 ここでやっとニヤリと地味な男は笑った。
「俺、あの人直属ですよ?ダテに一番近くで土方さんの暴力受けて仕事してません」 ただのミントン馬鹿ではなかったようである。 今度は銀時が後ろ頭をボリボリと掻き混ぜ、天然パーマをひどくさせた。
「あー、まぁ基本一般市民なわけですよ。銀さんは。攘夷活動に参加なんざ気はねぇし、今、俺が護りてぇもんが傷つけられたり、譲れないことがある時にゃ、誰であろうと刀ぁ抜くけどね?思想云々じゃ動かねぇ」 そこで、銀時は言葉を切った。 苦々しい。 ここから先は言いたいようで言いたくないことだ。 先ほどまでは長谷川には意図して濁していた類の話。 だが、他に土方とのことを知る人間はいない以上、誰かに聞いておいてもらいたかった気持ちも僅かには合った気がする。
「土方とのことは…ま、絶賛片思い中だからな」 「そうなんですか?」 「お?脈ありなの?」 山崎の問い返しに反応してしまう。 確かにこの地味な部下は自身が話したように土方と過ごす時間が意外に多い。 何か感じているか、話を聞いているのか?
「では本題です」 「…スルーかよ…」 山崎はそれ以上その話題に触れる気がないのか、(勤務中であることを気にしているのか)ウーロン茶を一気に飲み干し、本題にさっさと話を移した。
「旦那を信用して話しますが、本来極秘事項なんで、その点よろしくお願いしますよ。 まず、先ほどの人物はお察しの通り、土方副長です。 一応潜入捜査といいますか、バイトって形であの店の接客係にこの10日ばかり、出ています。 あの店は、攘夷志士が資金源にしている薬の売買に使っているという噂があったんです。 すでに一昨日、薬自体を証拠として押さえてはいるんですが、どうやら、背後に高杉の姿が見え隠れするんで、潜入期間を延ばしました」
高杉晋助が関わっているとあれば、大きな捕り物になるであろう。 危険度も増す。
「だけど、なんで、副長自ら?」 「適任が他にいなかったんです…」 「はい?」 「だから、面接落ちたんです!監察全員!採用されなくって、副長がじゃあ俺が行ってみるってことになってしまって。そりゃ、あの人、監察できるまで自分でそういったこと一人でしてましたけどね。昔と違って顔バレしすぎてるって止めはしたんですよこれでも!」
自分が最前線で斬った張ったをする方が土方の性にあっているといえばそうなのだろう。 己が動くことが最善だと判断すれば動く。 時として効率的ではあるが、危うさも同時に持っているなと銀時は切干大根に入っていた枝豆を奥歯で噛みしめた。
「で、俺が今一番心配なのはですね。ただでさえ期間伸ばして危険度増しているこの時期に、副長の正体がバレちゃうことなんです」 「ま、事情が分かれば声かけたりしやしねぇよ。しかし、土方もよくやるね。あんなセクハラ我慢できるキャラだとは思ってなかったけど」 「仕事モードになれば大概のことは流せちゃうみたいです。ま、セクハラ自体にはよく遭ってますしね」 「なにそれ?」 お稚児と呼ぶにはとうが立ってはいるが見目の良い土方をそういった目で見る幕臣もいるのではないかと邪推は元々してはいたのだ。 それを肯定するかのような流れに、握った箸が少し軋んだ。
「まぁ、よくある話です。じゃ、旦那、くれぐれも内密にお願いしますね」 山崎は要件は済んだと、脱兎のごとく伝票を掴むと障子をあげて、出て行ってしまった。
一人店に残され、手つかずのままだった山崎の酢の物に箸を伸ばす。
どうするか、とわかめを持ち上げて見つめた。 避けられているのかとか、女がいるのかとかショックを受けていたが、仕事が確かに絡んでいたと確認できたのだから、銀時が口も手も出す場面ではない。 多少、避けられていた感はやはりぬぐえはしないとしても。
昼は通常勤務をこなし、夜は潜入捜査の鬼の副長。 軟な男ではないことは知っているが、どれほどの休息を取れているのかと考えれば心配を通り越して呆れの文字しか浮かんではこなかった。
自分が戦場にいる時は、戦い全体としては、一人ではなかった。 戦略は桂と高杉が、物資の確保は坂本が、先鋒、切り崩しは銀時が。 なんだかんだといっての役割分担で出来ていたし、誰かの穴は必ずフォローする仲間がいた。
銀時の知る限り、土方のいる真選組にはまだ、使える駒が絶対的に少ない。
局長近藤勲はその人柄で人を惹きつけるが、知略には欠ける。 戦力となる筈の沖田は剣の実力はともかく、年若く一線をすべて任せるには場数が足りない。 チンピラ警察と呼ばれるように、隊士たちのそのほとんどが柄が悪く、どちらかというと体育会系のノリがある。 算術や読み書きを得意とするものも少ないだろう。 勘定方を取りまとめ、結局決裁するのは土方らしい。 また、土方自ら、手足として使えるように設立された、直属の監察もそう数は多くない。
自ら、接客をする土方。 まわされる女の腕、先ほどの客のようにあからさまな触り方をしてくる男どもの手。 更には昨日、一緒に料亭に入って行った男はなんだったのか。 好き勝手に体を触られるのか。 山崎が言っていた「セクハラ」の相手なのか。
「なんか、ムカついてきた…」
呟きを焼酎を煽ることで飲み下そうとするが、どうにもうまくはいきそうにない。
どうにもこうにも、地味な監察に煽られた感は否めない。 否めないが、今この状況で傍観に徹するというのも性に合いそうにないと大きく息を吐いた。
「おい、雌豚。いんだろ?」 「やーん、銀さんったら。さっちゃんの愛を感じてくれたの〜」 当たり前のように屋根裏から元御庭番衆・猿飛あやめが飛び降りてきて、くねくねと体と擦り付けてきたので、ばりっと引きはがす。
「んなわけあるが!このストーカー、どうせ、今の話聞いてやがったんだろうが。 ちょっと、副長さんに危険がねぇか、どれくらいで解決しそうか探りいれてこい」 「え?なに?どんなプレイなの?副長さんとの仲を見せつけて私を辱めるつもり?! それとも、あの薬で気持ち良くさせてくれるっていうの?!私は薬って好みじゃないけど、銀さんなら許すわ。思いっきり開発すればいいのよっ」 足蹴にされながら、猿飛は一人悶える。
「ちょっと、待て。薬ってやばいのか?」 「あそこで扱ってるのは、強い幻覚作用のあるヤバい催淫剤らしいわよ 微量ならただのしびれ薬、定量なら催淫薬、でも使い方誤ると廃人まっしぐら」
血の気が引いた。
もしも、正体がバレ、拷問代わりにそんな薬使われたならば。 脳内でそんなシチュエーションを考えるだけならば鼻血がでそうなほど興奮できるが、 実際に他の人間の手で執り行われるという状況は許せはしない。
土方に恩を売るためにも、銀時の精神衛生上にも、やはり早くこの件は終わらせた方がいいと判断した。 不本意ながら、さっちゃんに探りを入れさせ、桂にも連絡を取ることを決断する。
しかし、真選組副長土方十四郎はその三日後姿を消してしまったのである。
『花の名前 ふじ』 了
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