『mirage U』
Side H
色とりどりのネオンが夜の街を明るく照らしている。 特別捜査機関真選組・副長土方十四郎はかぶき町を歩いていた。 猛暑の名残が今年は長かったように感じていたが、11月になれば、朝夕は冷え込んでくる。 そろそろコートを持ち歩くべきかと冷たい風に少しだけ首を竦めた。
その時、土方のポケットがぶるりと震えた。 スマートフォンではなく今では持ち歩く人間も少なくなった二つ折りの携帯電話を開く。
「報告書出来上がったのか?」 『とっくに勤務時間は終わってまさぁ』
聞きなれた江戸っ子口調が返って来る。 つまりは仕上げず帰ったということかと説教をしようとしてやめた。 土方のことを弄る労力を惜しむことのない後輩の声はいつも通りに聞こえなくもなかったが、どこか違って聞こえたからだ。 少しだけ苛立っている。 けれども、それが全てというわけでもないらしい。 表情も心の内も読みにくい相手ではあるが、付き合いの長い土方には分る。
『庁舎、出てんでしょ?今…どこです?』
耳を澄ますような間が一瞬だけあった。 どうやら疑われているらしい。 確かに、過去に逮捕した男の件で真選組は緊張状態にあるにはあるが、土方自身はあまり心配していなかった。 普段通りだ。 せねばならぬことをし、護らねばならないものを護る。
「近藤さんをタクシーに押し込んだところだ」 『姐さんのところですかぃ。 仕事してるわけじゃねぇのか、チッ』
「何かあったか?」
沖田の舌打ちは聞き流して、腕時計を黙視する。 まだ、終電までには時間は少しある。 今晩はストーカーに勤しんでいる上司の捕獲がすでに片付いているから、庁舎に戻れなくもない。
『別に、何もありやせん』
何かあった、のはあったのだろうが、切羽詰まった案件ではなさそうだと、息を吐く。
「総悟」 『…なんです?』
渡りかけた横断歩道の信号機が点滅し始めた。 一斉に人々が早足となり、土方を追い抜いていく。 土方は完全に信号が変わる前には反対側にたどり着けると踏んで歩調を変えなかった。
「大丈夫だな?」
現状のことだけではない含みを聡い沖田は正確に汲み取ったようだった。 しばしの間の後、平坦な声が耳に響く。
『アンタがそれを聞くんですか?』
横断歩道の信号機が赤になった。
「あぁ」
目測通り、渡り切った土方はそこで足を止める。
『シネヒジカタ』
沖田の常套句に苦笑いし、眠らない街の空を見上げ、火のついていない煙草を揺らす。
土方の身に万が一何か起こっても、真選組には頼もしい仲間たちがいる。 近藤の側に沖田もいる。 大丈夫だ。 それは土方の中で変わっていない。
「俺ぁ…」
変わっていないと自分では思っている。 それでも、死にたがりと土方を呼んだ男の顔が浮かんだ。
「死なねぇよ」
立ち止まった土方の後ろを車の群れが忙しなく走り抜けていく。 数十メートル先でクラクションが鳴り、どこか呂律も回らない酔客の怒鳴り声が流れてくる。 賑やかな周囲とは対照的に電波の向こう側の男は押し黙った。
「もう、切るぞ」
返事は待たなかった。 手の平の携帯を畳んで、大きく息を吐く。 息を吐き出し終え、今度は大きく吸い込んで、再び携帯を開いた。
着信履歴の中から一つ、土方よりもきっとずっと多くの修羅場をかいくぐってきたホストの番号を選んで、そこで我に返る。
自分は、何をするつもりだったのだろう。 己の行動に首を傾げる。
坂田金時から非番を問うメールや電話は何回か入っていたが、次の非番はまだ決まっていない。 ならば、他に土方から何か話しがあるわけでも、用があるわけでもないのに、仕事中であろう男に掛けてどうするつもりだったのか。
画面を待ち受けに戻し、再び畳もうとして、土方は携帯を取り落としそうになった。 急に携帯がぶるぶると震え、液晶が光ったのだ。 うっかり自分が発信ボタンを押してしまったのかと焦る。
『…し…ろう?』 「あ…あぁ、おう…?」
いや、違う。 これは向こうからかかってきた電話だ、と跳ねた心音を懸命に落ち着かせ、挨拶なのか、返答なのか微妙な声を返した。
『あれ?まだ、お仕事中?』 「いや…近藤さんをタクシーに押し込んだところだ」 『なら、十四郎』
金時の声に何故かドキリとした。 名前で呼ばれるのは初めてではないというのに。
『時間、ちょっとだけでも取れない?』
男の声色に何か不振や不穏なものは見当たらない。 なのに、これまでとは違う『何か』が土方の心を揺らした。
『先日のお詫びとお礼、ちゃんとしてなかったし…これから会えない?』 「…別に大したこたぁしてねぇ」 『まま、そう言わず。今どの辺?』
改めて周囲を見渡し、自分の位置を確認する。 ちょうど金時の店と駅との中間あたりだった。
「あぁ…マルサンビル前の辺りだな」
自分が万事屋へ向かった方がいいかと方向を変えようとして、また立ち止まる。
『マルサンビルね。拾いにいくから待ってて』 「てめ…飲酒運転じゃねぇだろうな…」 『まさか!タクシー』 「あー…わかった」
タクシーで来るということは、かぶき町界隈で飲むのではなく、金時のマンションにでも行くのだろう。 グレイの顔も暫く見ていないし、と心の中で言い訳のようなものを自分にしてみる。 携帯をスーツのポケットへ滑り落とし、行き交う人混みをすり抜けながら、信号から少し離れ、タクシーが止められそうな場所へ移動した。
見えそうで見えない。 遠いのに近い景色。
それは何なのか。
土方は沢山のテールライトを見送りながら、その残像に数度瞬きをする。
「遅ぇ…」
答えを持っているとすれば土方自身。 もしくは金時だ。
早く来い。
心の中で唱え、土方は新しい煙草に火をつける。 そうして、男を待った。
『mirage』了
(94/105) 前へ* シリーズ目次 #次へ
栞を挟む
|