『ある水無月の朝』ぱしゃん。 水溜りが跳ねた。 盛大に飛び散ってほんの気持ち分小さくなった水溜りは、水紋を描いた。 しばし、水面は揺れて、次に青い空を映し出した時には波紋を作った少女の姿はない。 ぱしゃん。 黒いブーツがまた一つ、水溜りを乱した。 朱いチャイナ服の少女。 軽やかな足取りで、次々と水溜りを乱しながら移動していく。 従うように、大きな白い獣がついて歩く。 少女は空を見上げた。 「いい天気ネ」 6月に入り、空を覆っていた雨雲は現在は一時姿を潜めている。 彼女の雇い主兼この星での保護者がおおっぴらに好きなもののひとつだと公言して憚らないお天気アナウンサーの話では潜めているだけで、また夕方から立ち込めて空を隠すらしい。 それでも、今は水鏡に雲間から朝日を纏った青空が映っていた。 日光に弱い夜兎という種族である為に、長い時間日に当たることは出来ないが、それでも晴れた空はそれだけで心を晴れやかなものに変えてくれる。 立ち止まった彼女の姿が水面に映り込んだ。 少女は自分の姿が水面だけでなく、コンビニのガラスにも映っていることにも気が付いて、くるりとブーツのかかとだけを地面につけて回る。 今日はいつもの日傘ではない、お気に入りの雨傘を指していた。 去年のインディペンデンスデーに壊れてしまった傘の代わりに買ってもらった愛らしい兎の柄。 「さすが神楽サン。何を持っても、何を着てもお似合いネ」 自画自賛の言葉を紡いではいるが、少女-神楽は保護者-坂田銀時達が「選んでくれた、買ってくれた」という事実の方が嬉しかった。 マダオ予備軍どころか、どうしようもないほどそのスパイラルに嵌りきった銀時ではあるが、神楽にとっては大切な仲間であり、上司であり、家族だ。 「ねぇ、定春」 横に並んで、笑ったような顔で寄り添っている愛犬に話しかけながら神楽は考える。 万事屋の一員になって、いろいろなことがあった。 親元に帰されそうになったこともあった。 記憶を失くした銀時が解散宣言をしたこともあった。 大けがをして、もう万事屋に戻れないかもしれないと思ったこともあった。 子どもの神楽にだってわかっている。 いつだって、銀時という男は人のことが優先だ。 傷ついても、誹謗中傷を受けても気にしない。 自分のことで本気で怒ることはない。 いつだって、銀時という男が怒り、悲しみ、刀を振るうのは人のためだ。 それが銀時にとって不幸か、と問われたならば首を横に振る。 「でも、銀ちゃんには、もっと幸せになって欲しいアル」 同意とばかりに定春も小さく鳴いた。 ガラスに映った自分に笑うと、映った自分も笑う。 幸せになってほしい。 偶には人のことではなくて、自分のことで喜怒哀楽を零し、欲してほしい。 願うからこそ、神楽はこんな早朝にこんな場所を散歩している。 夕べは恒道館に泊まった。 今はその帰り道だ。 いつもならば、新八が朝食が出来たと起こしにくるまで二度寝三度寝を決め込んでいるのだが今朝は違った。 久しぶりに、屋根の上を雀が歩く音で目が覚めた。 雨が止んだのだと布団の中で思い、明るくなった障子を眺める。 特段大きな音ではないが、人の生活する音も静かに感じられた。 新八は早い時間から親衛隊の集まりがあるから万事屋は休むと事前に言っていた。 恐らく朝の膳と自分が出かける準備をしているのだろう。 どうしよう、なんて考えたのはほんのわずかな時間だ。 二度寝も捨てがたいけれど、お妙が起きだし卵焼きを作り始める前に新八と一緒に恒道館を出る方が良い。 帰り道は一人。 ゆっくりと遠回りして帰ろうと。 早く帰って結果を知りたいとも思い、早く帰って邪魔をしてはいけないとも思う。 今朝はきっと、と少女はせり上がってきた笑いをかみ殺しながら、また踊る様に足を踏み出した。 ぱしゃん。 水溜りがまた一つ揺れた。 特別を作らなかった銀時の様子が明らかにおかしくなったのは、去年の冬。 少しばかり小銭が懐に入ると、パチンコや競馬につぎ込んでいたマダオが少しだけ変わった。 気まぐれ、懐具合で出掛けていた呑みが、「何か」の基準を持っている風に見えるようになった。 ぱしゃん。 跳ねた水を定春が避け、また別の水溜まりが姿を変えた。 如月に入り、バレンタインが近づいて、また神楽は異変に気がついた。 例年通りバレンタインなんて関係ないというスタイルを取りながら、いくつ貰えるか新八とレベルの低い競争を争いを繰り広げていても、どこか素振りにわざとらしさが見え隠れするのだ。 まるで、「誰か」からのチョコでなければ意味がないとばかりに。 そして、当日、真選組のゴリラと出会って更にその違和感は増した。 お妙の予定を珍しく素直に教えた銀時が逆に尋ねたのは、マヨラーのことだった。 チョコをマヨラーが作ったのか マヨラーも誰かに女にやるために作ってたのか サラサラストレートのくせに、まだモテようとしてんのか そんな類のことを。 びっくりした。 会えば互いにワザとらしいほどの嫌悪か、面倒くさい顔しかしない相手に対して興味を持つなんて。 びっくりした。 問い詰めた後に、我に返ったらしく、もじゃもじゃの天然パーマをかき混ぜながら言い訳がましい言い訳するなんて。 他人に必要以上踏み込まない、踏み込ませない銀時がと。 その時は驚くばかりでわからなかった。 「チョコを他の人間から貰うつもりがないなら、トシのところに行ってみろ」とゴリラの言葉の意味も。 ただ、夜こっそりと万事屋を抜け出した銀時が、次の日から事務所の椅子でジャンプを膝にのせたまま、捲るでもなく、急にニヤニヤしたり青ざめたりと百面相をすることが増えた。 ぱしゃ。 小さな水溜まりが更に小さくなった。 ずっと食べられることなく銀時の机にひっそりとしまわれたままの1枚の小さなチョコを神楽が見つけたのは偶然だ。 年中赤貧状態の万事屋で空腹に眩暈を起こしていた時に甘い匂いで存在を知った。 手作りらしい薄い薄い小さなチョコレート。 手作りのようではあったが、あまりに飾り気もない、どうやら型に流し込んだだけのシンプルすぎる甘味。バレンタインに誰かにもらったと勘ぐるにはあまりには素っ気なさすぎた。 だが、銀時は自慢するでもなく、話題に乗せるでもなく、ただ保管し続けている。 無類の甘党、しかも食うに困る日も何日もあったというのに、けして手を付けることなく、だ。 『特別』なのだと直ぐに分った。 これは『特別な誰か』にもらった『特別』なのだと。 坂田銀時が柄にもなくムキになって張り合い、軽口を、喧嘩をわざわざ吹っかける。 まるで中二男子のような行動を取る相手。 ようやく、ゴリラの言葉と結びついた。 ばしゃん。 大きな水溜まりは揺れはしたが、かわりなくまた、すぐに元の形に戻る。 『特別な誰か』だ。 無意識なのか、意図的なのか、作ろうとも、見つけようともしなかった『特別』。 だから、きっとその人物は銀時にとって予想外の産物で、意外でしかない存在だと予想はついた。そして、手を伸ばしたならば、掴んでもらわなくてはならない。 「ドSは打たれ弱いアルからな」 ぱしゃん。 神楽はまた次の水溜まりに飛び移る。 普段下ネタばかり口にしてはいるが、自分のことに関しては銀時は実は意外に慎重であるし、マニュアルを重視する。 紋付き袴や、真っ白いタキシードを着て出かけなかっただけマシだが、きっと手を繋ぐという行為さえ、もしかしたら手に触れるということさえ、掴み合いは出来ても実行に時間がかかったのではないだろうかと神楽は予測している。 けれど、一昨日、銀時は面白いほどに、そわそわと落ち着きなく、神楽に物言いたげな様子でいた。 だから、少女の方から申し出たのだ。 お妙のところに泊まってきてもいいかと。 ほっとしたように、なら呑みにでも出てくるかと誰に言うでもなく首をこきこき慣らしながら独り言を言っていた。 「しょうがない大人たちネ」 ばっしゃん。 一際大きな水溜まりに神楽は両足同時にジャンプした。 更に、足元の水を蹴りあげると、朝日を反射させてキラキラと舞い散る。 くんと定春が鼻を鳴らして何かを嗅ぎ取った。 同時に神楽もそろそろ見え始めた我が家の玄関から人影が出てくるのを見つけた。 まだ距離はあるから、向こうは少女に気が付いていないようだ。 黒い着流しは万事屋の人間の恰好ではない。 閑古鳥のなく万事屋にこんな朝早くから客は来ない。 来ても、家賃の回収ぐらいなものだ。 間違いないと少女は笑う。 階段を降り切ったところで、見慣れた白い着物を片袖抜いた男が出てきて二階から何事か話し、見上げた黒い着流しが何事かを怒鳴っていた。 「…銀ちゃんがマミー連れて来たら、ビシバシ嫁の心得を仕込んでやろうと思ってたアルのに…」 どうみても、あれは嫁ではない。 嫁どころか、婿だ。 剣の腕は立つし、サラサラストレートで、イケメンと呼ばれる容姿をもち、収入もある。 目つきも悪いし、口も悪いが女子どもには基本的に甘い。 年中口から機関車のように煙を吐いて、マヨネーズを大量に消費する味覚音痴だが、その部分に目を瞑れば、きっと銀時よりもモテる。 それでも、相手は銀時を選んで、万事屋の玄関から出てきたのだから不思議なものだ。 「まったく予想外アル」 ハゲたお父さんと、白髪のお父さんと、眼鏡のお父さん。 白髪のお父さんの連れてきたのは、4人目ニコマヨのお父さん。 娘としては複雑で、でも、ちょっぴり安心。 「銀ちゃんには幸せになって欲しいアルから…」 『普通』がどんなものかは自分たちが決めたらいい。 男だろうと、女だろうと小さなことだ。 銀時は相手のことを重荷になんて思う男ではないからこそ、 元から足枷にならない、自分で立っている人間が相手であればいいと思ってはいた。 銀時が幸せならいい。 水溜りに浸かっていた両足を同時に持ち上げて、ジャンプで抜け出す。 それから、自分の居場所へと歩みだし既に小さな豆粒ほどにしか見えなくなった相手をぼんやりと見送る銀時に向かって走り出した。 ぱしゃんぱしゃん。 小さな水溜り、大きな水溜り。 今度は選ぶことなく、真っ直ぐに走る。 「お?今日は早ぇな。おけーり」 予想より早い神楽と定春の帰宅に少しだけ驚いた顔をしてから、いつもの緩い様子で手を上げてくれた。 4人目のお父さんが銀時の口から紹介されるのは、きっとまだまだ先のことになるだろうし、もしかしたら、するつもりも本人たちの性格からすればないのかもしれない。 それならそれで、4人分の父の日、今年は無理でもいつかサプライズでやってみるのも面白い。 「ただいま!銀ちゃん!」 少女は一気に万事屋へ続く階段を一気に駆け上り、満面の笑顔で白髪のお父さんに飛びついたのだった。 『ある水無月の朝』 了 拍手、ありがとうございましたm(__)m 今年は父の日、微妙に絡めてみましたw (40/85) 前へ* 短篇目次 #次へ栞を挟む |