『Story without the name−myriad green leaves−』国語科準備室から職員室に戻る途中賑やかな声に足を止めた。 渡り廊下から見下ろせば、教諭の松平が数名の男子生徒を従えて、プール掃除をさせている。 夏休みを間近に控え、最後の水泳の授業が終わったのだろう。 「近藤…沖田…山崎…」 その中には坂田が担任を勤める3年Z組の生徒もちらほら見えた。 「それに…土方…」 有志なのかと思ったが、どうやら松平が顧問をしている剣道部の面々らしい。 坂田銀八は教員になって4年目になる。 初めての『担任』としてクラスを受け持ったのが、去年。 現在の3Zのメンバーが2年の時だ。 そのまま持ち上がりで今に至る。 問題児ばかりの生徒たちにハラハラさせられたり、逆に自分の緩さを突っ込まれたり、そんな日々であっという間に時間は過ぎていく。 子ども達の成長は早い。 入学当時よりも、2年生の時よりも、 伸びた身長と、出来上がりつつある体躯。 ジャージをまくり上げたひざ下と濡れて透けるTシャツからも見て取れる。 不思議なもので水に入ると、もしくは水を被るとどういう少年でもテンションが上がるものらしい。 普段はどちらかといえば、冷静さを売りにしている土方でさえ、ホースで水を掛け合い、沖田に足をかけられ、尻餅をつきながら楽しそうに笑っている。 最早、掃除なのか、水あそびなのか分からない状態で、監督しているはずの教師は日陰に入り煙草を吹かして眺めるばかり。 のどかだと思う。 二度とはない経験と、貴重な時間。 歓声と水音の間に携帯電話の着信音が鳴り響き、今度は急に松平がテンションをあげて会話を始めた。 一歩間違えれば、ヤクザにも見えなくはないベテランは場を気にするでもなくキャバ嬢の呼び出しに応じるらしい。 すこし離れた場所にいる銀八にもその声が聞こえてきた。 松平は携帯を閉じると徐に銀八を手招きした。 「おぅーい!銀八ぃ!テメーこいつら30分ぐれぇ見とけ」 「はぁぁ?片づけとかどうすんだ!俺わかんねぇぞ!」 「すぐ戻ってくっから!なんかあったら、トシか地味なのが全部分かってっからよ!」 「はぁ?トシぃ?誰だそりゃ…」 立ち去って行く背とプールの中を見比べれば、生徒の視線が一つ銀八を捉えていた。 「トシ…って…土方のこと?」 こくりと頷かれ、痒くもない天然パーマをかき混ぜる。 少々面白くない。 ゴリラならずも松平までが『トシ』と下の名前で土方十四郎を呼んだことが。 だが、それを顔にも口にも出すことが出来ず、松平が座っていたベンチに腰を降ろして自分も煙草を取り出した。 ばしゃんばしゃん。 ひざ下までの水を跳ね上げて水面が光る。 デッキブラシが水を宙に舞い上げ、プリズムを描き、その眩しさに銀八は眼を細めた。 少年から青年へ。 子どもから大人へ。 その境を尋ねた18歳の土方をまた眩しいと思う。 銀八は想っていた。 真っ直ぐな少年を、苦労性な少年を好ましいと想っていた。 一人一人の生徒に思い入れが無いわけではもちろんない。 それぞれの個性を好ましいと思ってはいるし、そう思えなければ教師などという職業はやっていけない。 ただ、そういう意味とは少し異なる意味合いで想っている。 部活の仲間、幼馴染、同級生とじゃれる様に身体いっぱいに遊ぶ土方にこっちを向いて欲しいと思う。 容姿は非なく、整っていて、成績も良くて、 スポーツも出来て、面倒見もいい。 モテ男のテンプレな上に、硬派でフェミニスト。 それでいて、恋愛には驚くほど鈍くて。 振り向かなくていい。 離れて見ている自分に気が付かなくていい。 誕生日に忘れ物を取りに来た土方に、彼を想ってひっそりと手に入れたマヨネーズ会社のストラップを手渡せた。 そんな小さな出来事で満足できるほど、彼に対しては消極的な動きしか出来ない。 彼が幸せになればいい。 こんな晴天の下でいつまでも馬鹿をやっていた十代を、 それをやる気ない顔で眺めていた担任を記憶の隅に置いていてくれていたら。 (建前でも、思い込まなければ溢れだしそうだ) 掻っ攫って、閉じ込めて、奪いたい。 そんな欲求も確かに腹の底にはある。 軽いタイプの付き合いしかしてきたことのないダメな大人が、年下の、高校生の、しかも男子生徒。 笑えない。 彼は銀八を置いていく。 それが怖い。 (こっち見ろよ) それが本音。 自分の想いは少年には重たすぎる。 ただの教師と生徒。 寂しすぎるぐらいがちょうどいい。 空に昇る煙を目で追いながら、口端を持ち上げる。 ばしゃん また大きな水音がした。 そして、今思っていた少年の慌てる大きな声。 「総悟ぉぉぉぉぉ!!」 ぷかぷかと浮かぶスポーツバッグに慌てて土方が駆け寄っている姿が見えた。 「いやぁ、マヨ臭ぇんで一緒に洗っちまおうかと思いまして」 ビニール加工されたスポーツバッグをデッキブラシでさらに沈めるドS王子があった。 幼馴染だというのに、いつまでたっても悪戯や嫌がらせを回避できないのはもはや迂闊を通り越している気もするのだが、本気で土方が困るようなことをするわけでもないので苦笑いするしかない。 その沖田がニヤリと銀八を見上げるので、はてと首を傾げる。 「ぎんぱっつぁーん。受け取ってくだせぇ!」 小柄な沖田の何処にそんな力がとか、そんなツッコミをする間もなく、バッグが投げられてきて咄嗟にキャッチした。 「重っ!」 水をすっかり含んだバッグを相応の重さで直ぐに焼けたコンクリートに降ろせば、持主は沖田に悪態を吐きつつ、ジャバジャバとこちらに向かってくる。 土方はひょいっとプールから身軽に飛び出し、水を滴らせながらバッグの前に座り込んでファスナーを開ける。 真っ先に携帯を取り出し、画面を確認するところはやっぱり現代っ子だな、なんて年寄り臭い感想を持ちながら様子を見ながら気が付いた。 誕生日にと渡したストラップは付けられていなかった。 (まぁ…仕方ねぇ…か) 「大丈夫かよ?」 多少の気落ちは隠さなくてはと言葉を探し、出てきたのは何とも捻りのない言葉だった。 「う…ん…スマホはまぁ…防水だし…問題は」 ずるりと引っ張り出されたのは制服だった。 濡れそぼったシャツとズボン。 前髪をかきあげながら少年はため息をつきながら、空を仰ぐ。 晴天だから、シャツぐらいであれば数時間で乾くだろうが、ズボンは難しいかもしれない。 「やられた…」 「着替え、他にねぇのか?」 ぎゅっと着ているシャツの裾を絞れば、自然と透ける胸の突起に目を奪われかけ、不自然にならない程度の動作で首をスポーツバックに向けた。 「道着も持って帰っちまってるし、体操服はこの通りだしな…下着も…」 「は?何?今ノーパンなの?それともノーパンで帰るつもりだったの?お前?!いやいやいや!それは犯罪だからね?パンツなしでズボン履いたりなんかしたら尻のラインがくっきりでて襲ってくださいっていってるようなもんだからね?許しませんよ?」 「あ…あほか!今は水着着てるつうの!けど!下着もこのバッグに入れていたから困ってるんだろうが!」 「あ、なぁんだ」 いつも通りのツッコミが返って来て、ほっとする。 下に何も履いてないと聞けば、余計な想像力を刺激されかねないのだ。 「なぁんだ、じゃねぇ!」 「旦那。皆マヨくさくなりやすんで土方さんに貸すような服なんざ持ってないでさ」 「あ゛?」 事態の張本人はまるで当たり前のように、悪びれるでもなくプールの中から見上げてくる。 「なんで、このお人がストリーキングとか歩く卑猥物にならねぇように人肌脱いでくだせぇ」 「沖田くん、意味がわかんねぇんだけど?…って土方?」 視界の隅でゆらりと黒い頭が傾いだことに慌てて手を伸ばすが、すぐに足を踏ん張ったようで及ばずともことが足りた。 その様子で沖田の言わんとすることも理解できたわけではあるが、もう少し方法はないものかと苦笑いするしかない。 「まぁ、そういうこってすんで」 「そういうことね…でももちっとさぁ?」 「これ以上の親切はありやせん。これでも明日は季節外れの台風呼んじまったかなって心配になってるぐらいでさ」 「お前ねぇ…」 「なにドエス同士で納得してんだよっ」 沖田と銀八の会話の流れが分らないということは、土方自身が自分の症状を自覚していないということでもある。 「いやぁ、隠れドエムな土方くんの取り扱いをだなぁ…」 「誰がドエムだ!」 「「土方」さん」 「違ぇ!!」 「まぁ、いいから来なさいよ。とっつぁんももう戻ってくるし、後はゴリラが仕切るだろ?」 「いや、片付け…」 言葉を続けようとする土方の額に手のひらを当ててみれば、外気温が原因のみとは言いがたい体温がそこにあった。 熱中症。 素直ではないが、一番空気を読むことに長けた沖田なりの気遣い。 「え?」 水に浸かっているから油断していたようだが明らかに脱水症状を引き起こしている。 間近に自覚なく、きょとんとした青灰色の瞳が戸惑っていた。 「取敢えず水分補給、と着替えの確保だな」 ぐいぐいと手首を握り、引き摺るように校内へと歩き始めた。 握った掌が緊張して汗ばんでいるが、そこは暑さのせいだと誤魔化されて欲しいと思い、それでいて心の何処で気がついて欲しいとも願ってしまう。 『大人ってなんだろう?』 尋ねられて、咄嗟に『他人に迷惑かけねぇで生きていけるようになったら』などと知った風なことを言ったのは自分への戒めを込めてだ。 一方的な想いをぶつけられても、子どもは困り、惑う。 そうさせないこと。 けれども、それほど簡単に割りきれないのが、恋だとか愛情だとか呼ばれるものだ。 「先生、大袈裟すぎ」 乾いたタオルをまずは土方に投げ付け、保健室に常備している経口補水液を出す。 「クーラーあんのここぐらいだしな。これ飲んどけ。着替え探す」 「着替えは助かるけど…大丈夫だって」 備品ロッカーを漁り、保健教諭が用意している予備の体操服を引っ張りだして振り返れば、拗ねた顔をする少年がいた。 「オメー熱中症になりかけてんの分かってる?舐めると怖いよ。アレ」 「平気だって…」 タオルを取り上げ、わしわしを頭を拭いてやれば、想像よりも柔らかい黒髪が額に引っ付いていた。それを指で払って低く言ってみせる。 「黙って大人の言うことを聞いてなさい」 「っ」 カッと朱に染まった顔は怒りからくるものだと思って、咄嗟に手を離したのだが、土方の反応は少し異なっていた。 「土方?」 「な、なんでもねぇ」 (なんでもねぇって面じゃねぇ…よな?) 涼しい部屋に入って、これ以上急に体温が上がったというはずはない。 まさかと思いながらもそうであってほしいと望む心。 でも、よもやそうであってはならないという大人の理屈。 「一応、今日は送ってやるから。荷物、プールに放り込まれたやつだけか?」 「いや、もう一個。プールの更衣室に…」 「もってきてやっから、オメーは休んでろ。山崎辺りに聞けば分かるか?」 男同士であるから、気がねなどするはずもなく、土方は今着ているTシャツから着替えようし始めるので、何とか退出の理由を紡ぎだす。 「あぁ…マヨリーン、ほら先生がくれた奴ついてっから」 「は?」 「だから、ストラップ」 「え?あれ使ってんの?」 先程、携帯に付けてもらえていなかったことにちょっとだけショックを受けていただけに思わず聞き返してしまう。 「え?悪ぃのかよ?だってスマホにストラップ付けられねぇだろ?画面に傷いくし」 「あ?あぁ…そういうことね…そういうこと」 「な、なんだよ!大事にしてるぞ?今さら返せとかいうんじゃねぇだろうな?」 スマホとガラゲー、その違いがこんな所に出てくるとはと繰り返せば、変な意味に捕らえたらしく、むっとした表情で返されてしまった。 「いやいやいや、そんなケチ臭いこと言わねぇよ? オメー先生のことなんだと思ってんの?」 「万年金欠天パー。あれだってオークションとか出したら結構いい値段つくんだぞ?」 「えぇぇぇぇぇえl!じゃあ返して!」 「やだ!もうアレは俺のもん!折角先生にもらったのに!」 「っ!し、仕方ねぇなぁ…まぁいいや。ちょっと取りに行ってくるから」 あんなもん欲しがるの土方くんだけだと思ってたんだけどなぁ…とわざと呟きながら、保健室を出た。 木製の扉をぴしゃりと閉めて、ぺたりぺたりと便所スリッパの音数歩分。 歩いて、廊下の真ん中にしゃがみ込む。 「なんなの…アイツ…勘弁してくれ」 自分の方が夏の熱にやられたようだと、動悸と熱が引いていくのをじっと待つがなかなか治まってはくれない。 『大事にしてる』とか『先生にもらったのに』とか本人は無意識の産物なのだろうが、銀八の心を書きまわすには十分な材料だ。 「チクショ…」 まだ続く眩暈のような症状を振り切るように立ち上がり、再びプールへと向かう。 7月の空は真っ青に冴えきり、白い雲とのコントラストを際立たせていた。 「夏が、来るな…」 夏休み。 補習のない土方は予備校に通う予定になっていたはずだ。 会いたいと自然と思う。 会えないほうがいいのだとも思う。 長い、3年Z組の夏休みが間もなく始まろうとしていた。 『myriad green leaves 万緑 (無数の緑の葉)』 了 拍手ありがとうございましたm(__)m (48/85) 前へ* 短篇目次 #次へ栞を挟む |