__心に出来た隙間。
この世の全ての色が失われたような気分だった。
木の上に座り、景色を眺める銀髪の青年。
何かが足りない。
それが何なのか、具体的に彼には分からなかった。
夜になると昼間騒がしかった鳥の鳴き声や虫の音が止み、辺りは静寂に包まれた。
月までもが暗闇の中。
今夜は新月。
まるで暗闇に溶け込むかのように息を潜め、青年は森の奥深くまで進む。木を背にしてもたれかかかるように座っていた。
昼間とは違い、長い銀髪は漆黒へ。
金色の瞳は黒く、爪と牙、獣耳もない。
自身が“半妖”だと思い知らされる最も恨めしい日だった。
「くそ…早く朝になりやがれ。」
呟いた一言は暗闇へ虚しく響く。
妖力を失ってしまった今、どんな妖怪に襲われるか分からない。牙や爪がないだけで、こんなに心細いと思ったことはなかった。
“弱い半妖め”
‘‘弱い’’と馬鹿にされることが1番嫌いだった。
(人間なんて弱ぇだけだ)
しかし、ある言葉と映像が頭の中を木霊した。
“いいじゃない、半妖だって。犬夜叉は犬夜叉なんだから”
優しい微笑みを浮かべる少女。
すると、急に胸が締め付けられるような感覚に襲われ、着ていた紅い衣の上から痛む胸を掴んだ。
「かごめ…。」
自分の側から消えてしまった大切な彼女の名をこぼす。
忘れていたわけではない。
こぼした所で、返事が返ってこないことは彼自身が痛いほど分かっていた為に、閉じ込めておいたのだった。
一度緩めてしまった気持ちは留まることを知らない。
彼女の声、仕草、会話…まるで走馬灯のように頭の中を駆け巡った。
行き場のない気持ちに苛立ち、地面に拳を打ち付ける。その衝撃で指の皮膚が切れ、血が滲む。その脆ささえも、彼を苛立たせた。
「ちくしょう!」
半妖時にはあまり感じることのない寂しいという感情に襲われる。
朔の日のことは誰にも明かさない。
誰も信用せず、独りで生きると誓ったのだ…
彼女が現れるまでは。
“何で言わないのよ馬鹿!”
“少しくらい頼ってくれてもいいじゃない”
“あんたが…死んじゃうと思ったから”
警戒心を強めても、簡単に解かしてしまうその言葉。
それから朔の日だけでなく、常に一緒に居ることが当たり前になっていたのだった。
懐かしむように記憶の中に身を任せ、瞳を閉じる。
そのとき彼は思った。
世界に色がなくなったのは、
生きた心地がしないのは、
__かごめが隣りに居ないからだ
「…っ。」
生暖かい滴が頬を伝い、声を押し殺して泣いた。
「だから人間は嫌いなんだよ。」
そう呟いて彼は歩き出した。
夜は眠らない。
いや、眠れなかった。
妖怪に襲われるという不安よりも、夢を見るのが恐かった。
彼女の夢を。
夢の中で何度も名前を呼ばれ、振り向くと愛しい彼女が手を差し伸べて微笑んでいる。
“ほら、行こう“
小さいけれど、全てを包んでくれるその暖かい手を握り返そうとする。しかし、いきなりの強い風が吹き上げ、思わず目を瞑ってしまった。
再び目を開くとそこに彼女の姿はなかった。
必死に名前を呼び探すけれど、匂いもなければ気配もない。
何もないのだ。
この夢を何回見せられたことだろう。
目が覚めて、優しい朝日に照らされるも、突きつけられる現実から逃げたくなるだけだった。
森を抜け、目の前には古ぼけた小さな井戸が建っている。
懐かしむように井戸を覗いてみたが、底は暗闇で何も見えない。
ここは彼女と自分を繋いでいた道。
「おめぇーはいつまで俺を待たせる気だ。」
そっと井戸の中に飛び降りた。
冷たく、湿った空気が漂う。
‘‘待つ’’ということがこんなにも苦しいなんて。
‘‘独り’’ということがこんなにも孤独だなんて。
彼女に出会えなければ知り得なかったこの感情。
彼自身もまた、彼女に対してこの寂しさを与えてしまっていたのかもしれない。
今になってやっと気づいたのだった。
自分が何処へ行こうと、いつも待っていてくれた。
「これは俺に対する罰なのか…。」
今更後悔しても遅いのは分かっている。
いくら体が丈夫だからとはいえ、睡眠の足りていない彼の体はだるさを感じていた。
眠気に誘われて軽く瞼を閉じる。
(夢を見たい…)
差し出されたその手を握り返せないと分かっていても、夢の中でしか会えないのだから。
__
夜が明け、井戸へと朝日が差し込む。
綺麗な銀髪がキラキラと輝き、彼の安らかな寝顔を照らし出していた。
彼女には会えたのか、
幸せなのか、悲しいのか、
どんな夢を見たのかは彼にしか分からない。
Fin.
prev next