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その胸は茫洋の海のように


 薬品香る理科学教室で物理の補講を受け、放課後の誰もいない教室に帰って来ると、花の香を纏うみょうじさんがオレの机に腰掛けていた。心臓の奥が、太陽の光に照射されるようにじわじわと焦がされる。
 日が傾いて西陽の差す教室は明るいが、机の下からは夜を告げる長い影が伸びる。電気も点けずに脚をぶらぶらと泳がせて、窓辺を見つめて黄昏れる彼女に、オレは声を掛けられず教室の入り口で立ち止まる。彼女の姿は、どこか岸辺にたゆたう海月に似ていた。

「みょうじさん」
「あ、金城くん」

本当は彼女の姿をもう少し眺めていたかったが、机の脇に提げた自分の鞄に気が移る。「そっか、ここ、金城くんの席」「いいんだ」「ごめんね」慌てて机から飛び降り、彼女は所在無げに後退りする。そうして教室内をふらふらとあてもなくさまよい歩く。再び、海月の如く。

「あのね、人を待ってるんだ」
「そうなのか。補講はどの教科も終わっていたが、そいつはまだ掛かるのか?」
「うん、多分」

ばつが悪そうな顔をして、ちょっとお手洗いにでも行って来ようかな、と彼女は教室をぱたぱたと走って出て行った。オレは返事も呼び掛けることも出来ずに、みょうじさんの背を見送る。彼女にまだ時間があるのなら、少し話してみたかったのだが。焦がれる心は逸るが叶わず、教室にはオレ独りになってしまった。

「あ、金城。」
「時田。と、春日さん」

声がした方へ首を動かすと、視界に入ってきたのは隣のクラスの時田と、近頃男子の間で付き合い始めたと噂になっている春日さんだった。彼等は恥じること無く互いの腕を絡ませ、廊下側の窓から教室の中へと身を乗り出す。彼等の不思議そうな表情は西日に照らされてくっきりとよく見えた。

「みょうじ知らねぇ?」「いや……どうしたんだ?」オレの口からは、何故か咄嗟に嘘が出た。オレは我が口を疑う。「なんか呼び出されてよ。靴箱にさ、教室に来てくれって手紙入ってて。伝えたいことがあるとか書いてたんだけど」
「もしかして、告白だったんじゃない?大丈夫?」オレは自分自身の嘘の行き着く岸辺を春日さんの一言に見出だした。真意はみょうじさんのみぞ知る。だがどうしてもオレには、もしかして告白をするつもりだったのではないかと思えてならなかったのだ。それを察してしまったから、オレは嘘をついてしまったのか。

「なぁ金城、ホントみょうじどこか知らねえ?」

ごく最近、男子の間で噂が広まり始めた目の前の彼等の関係は、みょうじさんが知り得ない情報だろう。彼女は何も知らぬまま、このまま時田と春日さんの前で幸福を打ち砕かれる。そして彼女が打ち砕かれる姿を、オレは目撃してしまうのだ。焦燥に駆られ、更に嘘を塗り重ねる。

「済まない、今補講から帰ったばかりで、解らないな」
「そっか。金城も遅くまで大変だな。じゃ、みょうじいないみたいだし、帰るか。お疲れ〜」

二人分の足音は、夕闇を目指して遠ざかる。誰もいない廊下にその足音はよく響いた。オレは嘘をついた揚句、とうとう真実を告げずに彼等が帰るのを見送ってしまった。口の端から、重い溜息が洩れる。
 オレは彼等に嘘をついて、何がしたい?オレが勝手に勘ぐったことで、彼女が大切な用件を伝えることが出来なかったんじゃないのか?オレはただ、みょうじさんが傷付く様を見たくないという自己中心的な考えから、彼等を帰してしまった。それはオレが彼女に明確な、好意を持っていたからか――

 彼等と入れ違いに、みょうじさんは足取り軽く、どこか清々しい顔で戻って来た。「時田くん、来なかった?」「いや、」「そっか」オレの声は引き攣って、うまく発することが出来ない。教科書をしまう手は、すっかり止まってしまった。

「金城くん、」
「?」
「嘘付くのへたっぴだね」

オレの心臓は水面に鋭く叩きつけられた。喉には冷や汗が伝う。好意を寄せる人に拒まれるのが、こんなにも怖いとは。

「好きだったな、時田くん。でも何でだろ、もう良いんだ。よし!金城くん、一緒に帰ろうよ」

それで良いというのか、オレは彼女の曇りの無い姿に驚いた。オレは突如恐怖から解き放たれ、そして彼女の晴れやかな表情に胸を打たれたのだった。常人ならば苦しみにのたうち回っても可笑しくないところだが、あまりにも彼女の胸中は広い。――彼女は海月などではない。茫洋の海、そのものだ。みょうじさんの茫洋の海のように広過ぎる胸の中では、かつてあった恋心も、春日さんの存在も、嘘をついたオレの存在も、漂う海の藻屑に過ぎない。彼女の晴れやかさの前では、まるであらゆる苦しみが解きほぐされてゆくようだ。

「金城くんは校門出てどっち行くの?」
「右だ。みょうじさんは、」
「私も右。一緒だね」

 そうか、オレは他の男に彼女を掠われるのを嫌い、魔の手から彼女を護ったつもりでいたのだ。みょうじさんは、そんな小さな戦いしか出来ないオレの哀しい嘘をさして咎める訳でもなく、オレの恋い焦がれる心を漣が引いてゆくように孤独の岸辺から浚っていった。
 靴音は揃い、オレは時の終わりを惜しみ、彼女は夕凪の安息を求めて歩き続ける。彼女の手から鞄を掬い上げ、オレは二人分の鞄の重みを肩に伝えた。彼女からせめて何かほんの一片でも奪わねばと求め、僅かでも長く共に居る時を延ばしてみたかったのだ。

「今日はありがとう、金城くん。優しい嘘は、嫌いじゃないよ」

 別れ際に彼女は足を止め、そう言った。オレは、彼女の温かな眼と穏やかな言葉に返答を手放した。オレはいつか、茫洋の海に住まう海蛇になりたいと願う。いつか彼女の胸の片隅にて絶えず泳ぎ続ける海蛇になれたなら。





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