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三日月が沈む頃


 それは、春のとある日の事だった。

「荒北くんって中学生の時、何か部活をやっていたの?」

 部活の最中、ローラー練習を終えてベンチで一休みしている荒北くんに尋ねた。荒北くんが怪訝な顔をして私に視線を向ける。

「なんでンな事聞くんだよ」
「荒北くんのデータ見てたら気になって……。自転車初心者にしては体力があるし」

 私の手元には各部員のデータがまとめられた資料がある。荒北くんの資料を見ると、他の自転車初心者に比べて体力が高い事がすぐにわかった。質問した事に、特に深い意味はない。ただ、入部したばかりの荒北くんと仲良くなろうと思って、話のきっかけとして聞いてみたのだ。

「部活なんざ何もやってねーよ。男なんだし、体力あるのは当たり前だろ」

 何か気に障るような事を言っただろうか。いつもより強い口調で言い切って、荒北くんがベンチから立ち上がる。

「みょうじー! タイヤ交換手伝ってくれー!」
「はーい、今行きまーす!」

 外に居た先輩に呼ばれ、急いで走る。途中、荒北くんをちらりと見てみたけれど、背中を向けている彼は今どんな顔をしているのかわからなかった。


 薄い光が差し込んで、世界が変わっていく。目を開けるとバスの車内。窓を見ると、道路の標識に「伊豆」の文字が見えた。
 もうすぐCSCに着きそうだ。寝ぼけた頭を覚醒させるために、手を組んで大きく伸びをした。


 七月某日。夏休みの期間を利用して、伊豆にあるサイクルスポーツセンター通称CSCにて行われる三泊四日の強化合宿に参加していた。マネージャーの私はいつもと違う練習場所に駆け足で往復する事になったが、特に何事もなく、無事に一日目の練習が終わった。
 明日もまた厳しい練習は続く。今日は早めに寝て明日に備えよう。そう思っていたのだけれど……

「さぁ、次はみょうじちゃんの番だ」

 東堂くんに割り箸の束を突きつけられる。

「東堂くん、やっぱり私――」
「遠慮しなくていいぞ、みょうじちゃん。もし俺と一緒になったら、この山神様がゴールまでエスコートしてやろう」

 ワッハッハ! と高笑いする東堂くん。そういう心配をしているわけじゃないんだけど……。
 早めに就寝しようと思った矢先、いきなり東堂くんに電話で呼び出された。疑問に思いながら外に出ると、待ち合わせ場所の森の前では一年生や二年生の人達がちらほらと集まっている。詳しく話を聞いてみれば、有志で集まって肝試しをやるというのだ。監督や榛名主将に無断でこんな事をやっていいのだろうか……? そう思うものの、雰囲気に呑まれて参加せざるを得ない状況になってしまった。
 せめて良い人に当たりますように。祈りながら割り箸を引くと、箸の先には2という数字が書かれていた。

「2はたしか……」

 東堂くんの視線の先には、割り箸を持った荒北くん。

「あ、荒北くんっ!?」
「ちっ」

 どうやら私は荒北くんとペアを組む事になってしまったみたいだ。東堂くんや新開くんなら何度か話した事があるから安心だけど、荒北くんとはあまり言葉を交わした事がない。普段の様子からして、彼は人懐っこい人ではないし大丈夫なのだろうか……。
 私の考えている事に気がついたのか、肩をすくめる東堂くん。

「まぁ、こういう日もあるさ。仕方あるまい。荒北、ちゃんとみょうじちゃんをゴールまでエスコートするのだぞ」
「るっせ! 第一、なんで俺まで参加しなきゃいけねーんだよ!」

 割り箸を地面に叩きつけて宿泊所に帰ろうとする荒北くん。だが、二年の高橋さんが荒北くんの肩を掴む。

「あーらーきーたー。もしかしてお前、ビビってんのかぁ? ビビってないんだったらこの遊び、ゴールまで歩いて終わるだけだぜ」
「ハァ? なんで俺がビビんなきゃいけねェんだよ」

 荒北くんと高橋さんの間で生じているピリピリとした空気を感じながら、忍び足で脱出を試みる……

「逃げちゃダメだぜ、なまえ」

 掴まれた肩に振り返ると新開くん。こっそり逃げようとしたのがバレたみたいだ。

「ちょっと急用を思い出しちゃって。明日のボトルの準備、やり忘れたなぁって……」
「それは嘘だ。バキュン!」
「で、でも……」
「一見ふざけた遊びに見えるけど、七月になってもどこか距離のある一年の仲を取り持とうと高橋さんが企画したんだ。まさか靖友に当たる事になるとは思わなかったけれど……ま、あっという間に終わるさ。よかったら食う?」
「ありがとう。お腹が空いた時に食べるよ」

 受け取ったパワーバーをしまって、高橋さんと言い合っている荒北くんを見る。荒北くんと二人で、無事にゴールまで辿り着けるだろうか……? ぼんやりと見ていた時、新開くんから肝試しの地図を受け取った。


 木が茂った山の中、懐中電灯を持った荒北くんの後ろについて歩く。空を見上げると雲間から三日月が覗いて見える。時折聞こえる野犬の遠吠えに、無性に不安な気持ちになっていく。

「メンドクセーなぁ。なんで俺がこんな事しなきゃいけねーんだ。疲れる練習でくたくただっつうのに」

 荒北くんは私の事を全く気にも留めず、片手に持った懐中電灯で行く先を照らし、もう片方の手は短パンのポケットに入れたまま歩く。あんな歩き方をしていたら、いつか転んでしまいそうで心配だ……。

「ひっ!!」

 突然、荒北くんがらしくない悲鳴を上げた。急に立ち止まるものだからぶつかってしまった。

「どうしたの荒北くん……?」
「ま、前になんかいる」
「前……?」

 荒北くんが懐中電灯で照らす先をじっと見てみる。うっすらと見える二つの目。あれはたしか……

「あれはフクロウだよ、荒北くん」

 荒北くんが怯えていたのはフクロウだった。木の枝に止まって私達二人をじーっと見つめている。てっきり、お化けでも見たのかと思ったけれど……とりあえず、何事もなくてよかった。

「ハッ! 鳥のクセに驚かせやがって」
「……もしかして、怖いの苦手?」
「バァカ! んな事ねェし!」

 地雷を踏んでしまっただろうか。怒った荒北くんが、速い歩調で歩き始める。
 その時、不運にも足を滑らせて、

「あっ――!」
「荒北くんっ――!」

 手を出したものの、時既に遅し。道を踏み外してしまった荒北くんが斜面を滑り、下に落ちてしまった……!

「荒北くーん!」

 暗闇に向かって呼びかけるものの、返事は返ってこない。荒北くんがどこにいるのかわからないけれど、そう遠くには行っていないはずだ。掴まれそうな木々を見つけて慎重に下りていく。すぐに荒北くんの姿を見つけた。尻もちをついたのか、腰をさすっている。

「いってぇ……」
「怪我はない? 大丈夫?」
「これが大丈夫に見えんのかよ。ったく、今日は災難だ」

 服についてしまった土を払い、眉根を寄せて立ち上がる荒北くん。

「とりあえず、上に戻ろう」

 荒北くんと一緒に元居た位置に戻る。一安心した所で地図を確認しようとポケットの中を探ってみるけれど……ない。ゴールまでの道のりが書かれている地図を、どこかで落としてしまったみたいだ。
 動揺する私を見て、荒北くんが額に汗を浮かべる。

「おい、まさか……」
「だ、大丈夫だよ! 肝試しが始まる前ずっと地図見てたし、私の頭の中にばっちり入ってる!」

 ふと視線を落とすと、荒北くんの右膝に血が流れている。あんまり大きくない怪我だけど、早くゴールに行って手当しないと……! 焦る気持ちで脳内にある地図を頼りに森の中を歩く。


 そうして、何分が経っただろうか。

「…………」
「…………」
「……なぁ、みょうじ。いつになったら着くんだ」

 怒声を飛ばされる事を覚悟して、後ろにいる荒北くんに振り返る。

「ゴメン荒北くん。迷っちゃったみたい……」
「ハァァ!? オメェ早く言えよっ!」
「ご、ゴメン! そんなに大きくない山だしすぐに着くかと思って……!」
「地図がなけりゃあ携帯で調べばいいじゃナァイ! なんでそんな事に早く気が付かなかったんだ――」

 携帯を手に持った荒北くんの顔色が蒼白に変わる。

「……おい、みょうじ。オマエの携帯、電波繋がるか?」

 言われて携帯を取り出すと、画面の上部には「圏外」の文字。

「……繋がりません」
「だーっ、これからどうすんだぁぁああぁぁああ!!」

 暗い森の中、荒北くんの咆哮が響く。鳥が羽ばたく音がした。


 荒北くんの提案に従って山を降りると、平らな地にこじんまりとした山小屋を見つけた。中に入ると無人。壁時計の針は九時を指していて、いつの間にこんなに時間が経ってしまったのかと思う。

「電話とかねーのか。避難用の山小屋だってのに使えねーな」
「救急箱ならあるけど……」

 棚から持ってきた救急箱を手に取って、荒北くんの膝に視線を落とす。血は乾いているけども、手当した方がいい事に変わりはない。
 私の視線の先にあるものに気がついて、荒北くんが眉をひそめる。

「大した怪我じゃねーよ。放っとけ」
「自転車乗りが足の怪我放っておいちゃダメだよ。ほら、そこに座って」

 荒北くんを床に座らせて、救急箱を開けて怪我の手当を始める。

「ゴメン、こんな事になっちゃって……」

 あの時私があんな事を言わなければ、荒北くんは怪我せずに済んだのに。不運もあるとはいえ、今思えば私は気を緩めすぎていたのかもしれない。

「何で謝るんだ。テメェが何かした訳じゃないだろ。むしろ、俺の事置いてってもよかったのに」
「そんな事出来ないよ」

 あまり話した事ないとはいえ、荒北くんは部活仲間だ。見て見ぬフリをするなんて、絶対に出来ない。
 絆創膏を貼って怪我の手当を終えると同時に、荒北くんは深くため息をついた。

「夜が明けるまで、ずっと此処にいた方がいいんだろうな。俺、ずっと起きてっから。オメェは仮眠でもしてろ」

 「だからあっち行け」と手でジェスチャーする荒北くん。

「私は大丈夫だよ。むしろ、荒北くんが休むべきじゃ……」
「うっせーな。人が寝ろっつってんだ。つまんねェ義理なんか立ててないでとっとと――」

 突然、大きなお腹の音が鳴った。今の絶対に私じゃない。だとしたら……

「…………」
「パワーバー食べる? ちょうど新開くんから貰ったんだ」
「いい」
「私も半分食べるから。はい」

 パワーバーの封を開けて、半分に折ったうち大きい方を荒北くんに差し出す。流石に開封されたものを突っぱねる気にはなれなかったのか、荒北くんはひったくるように取っては口に入れた。

「甘い」
「チョコ味だから」

 荒北くんから少し離れた位置に座り、天井を見上げる。天井には、辺りを頼りなく照らす裸電球一個のみ。隣にいる荒北くんをちらりと見る。彼は頬杖をついて、あぐらを掻いて黙って座っている。

「荒北くんはさ、何で自転車部に入ったの?」

 荒北くんと同じクラスの部員によると、入学当時彼は不良……いわゆるヤンキーで、制服を着崩す事はもちろん、先生に対して暴言を吐いたり、授業中席を立っては無断で早退したり、なにかと悪評の絶えない人物だった。
 そんな彼が何故かある日突然、リーゼントだった髪を短くして、自転車部の門戸を叩いた。荒北くんが部室に入った時、数名の部員が悲鳴を上げた事は今でもはっきりと覚えている。
 なんで荒北くんは自転車部に入ったのだろう。静寂が支配する部屋の中で、ふと彼の事を知りたくなった。

「それ知ってお前はどうするんだ」
「別に、どうもしないよ。ただ、それを聞かせてくれたら……荒北くんと、もう少し仲良くなれるかなって思って」

 荒北くんが鋭い目をしてこちらを睨む。

「この際だからはっきり言うケド、俺にいちいち構うな。仲良しごっこがしたくて部活に入ったんじゃねーよ」
「じゃあなんで自転車部に入ったの……?」
「てっぺんだ。今度こそてっぺんに行くために俺は――」

 言いかけて荒北くんは口をつぐむ。「この先は絶対に言わない」そう訴えるような目をして、前方を睨んだ。
 会話がなくなって、もう一度壁時計を見やる。秒針が揺れる様に眠気が誘われて、無意識に瞼を閉じてしまう。
 聞こえるのは、外から聞こえる蝉の穏やかな鳴き声。こうやっていると、子供の頃を思い出す――

 じっとしていられなくて、その場を素早く立ち上がる。荒北くんが驚いて目を瞬いた。

「ど、どうした?」
「ねぇ荒北くん。一回、外に出てみない?」

 理由を告げずに外に出ると、生ぬるい風が体を包んだ。空を見上げると、まだ見たかったものは浮いている。よかった、これなら荒北くんに見せられそうだ。

「なんだよ、なんか連絡取る方法でも思いついたのか?」
「ううん、そういうわけじゃないけど……。せっかくこういう所に来たんだし、ここでしか見られない景色を楽しまなきゃ」

 疑問符を浮かべる荒北くんの前で、闇夜に浮かぶ三日月を指差す。

「あそこに月が見えるでしょ? それ、ずっと見てて」
「ハァ?」
「いいからいいから」

 怒るかと思ったけれど、荒北くんは唇を結んで黙って空を見上げた。その様子を見て、もう一度夜空を見上げる。
 子供の頃、家族でキャンプに行った事がある。夜、空を見上げると満天の星で、まるで宝石を散りばめたように美しい景色だった事が今でも印象に残っている。

「知ってる? 三日月って、沈む時間が早いんだ」

 視線の先には、地平線に向かって沈みゆく三日月。目をこらして見ると下の部分が隠れていて、三日月だった月は段々形を崩していく。

「へぇ……初めて知った」

 まるで初めて流れ星を目にした子供のように、荒北くんはじっと、沈みゆく三日月を見ていた。
 三日月から目を離すと、空はあの日見た時よりも鮮明に、一つ一つの星が光り輝いている。帰り道、箱根から見上げる夜空も綺麗だけど、自然に囲まれた山から見る星空は一段と綺麗だ。いつの日かこの景色をもう一度見たいと思っていたけれど……まさか今日、荒北くんと一緒に見る事になるとは思わなかった。

「……なんで、これを俺に見せようとした?」
「子供の頃を思い出して。せっかくだから、荒北くんに見せようと思った」

 真面目に考えたら、今こんな悠長な事をしている場合じゃないのかもしれないけれど。それでも、昔の事を思い出したら外に出ずにはいられなかった。
 気がつけば荒北くんに睨まれている。そんなに今の言葉が気に障っただろうか……?

「荒北くん……?」
「お前が知りたがってた事教えてやるよ」
「えっ」
「前に部活何もやってねェっつったけどあれは嘘。本当はやってた。……野球やってて……毎日、キャッチャーに向かってボール投げてた」

 月を見上げて言う荒北くんの口調は淡々としている。淡々としているけども……どこか、感情を抑えているような気がした。

「野球をやっていたのに、なんで自転車部に入ったの……?」
「さぁな。続きはお前の事を認めてもいいと思ったら話してやるよ」

 そう言って荒北くんは口を閉ざす。もしかして、言いたくなかった過去を私に教えてくれたのだろうか……? 大切な宝物をちょっとだけ見せられた気がして、申し訳ない気持ちになると同時に心の中が暖かくなる。
 荒北くんをもう一度見ると、彼はまだ空を見上げていた。暗闇で見えづらくてあんまり自信はないけれど、口元が弧を描いているように見えた。
 私もつられて顔が綻んで、そのまま夜空を仰ぐ。

「おーい、荒北ー! みょうじちゃーん!」

 ものすごく聞き覚えのある声に、声のした方を見ると東堂くん。後ろには肝試しに参加していたメンバーがずらりと並んで歩いている。

「オメェら……探しに来てくれたのか!」
「? 何を言っているのだ、荒北は。肝試しの後、ここで星を見る予定だったろう」
「…………そうなのか?」
「そういう事もあったような」

 無邪気な表情から一転して、射抜くような目でこちらを見る荒北くん。非常に気まずくなって虚空に視線を逸らす。

「いくら待っても荒北達が来ないから道に迷ってしまったのではないかと思っていたが……まさか、先回りしていたとはな」
「ねぇ東堂くん。ちなみにここから宿泊所ってどうやって行くの……?」
「宿泊所ならあっちにあるぞ」

 東堂くんが指差した先には、木々で隠れて見えにくいけれどたしかに建物の一角が見える。今までの苦労って一体……。
 たまらず苦笑いをすると、荒北くんがポケットに両手を突っ込んで歩き始める。

「俺帰る。星とか興味ねーし」

 宿泊所に向かって歩く荒北くんに、東堂くんが首を傾げる。

「興味はないのに先回りしたのか?」
「それには、色々とあって……」

 皆に心配を掛けないために、さっきのは先回りしたという事にしておこう。嘘をつく事を決めて空を仰ぐ。さっきまで見ていた三日月は地平線に沈み、空には星とうっすらと見える雲だけが浮かんでいた。
 三日月が沈む頃、荒北くんは本当の事を少しだけ話してくれた。中学の頃、野球部に入ってピッチャーをやっていた荒北くん。彼は何故野球を辞めて自転車をやる事を選んだのだろう。荒北くんが私の事を認めてくれるまで、彼の物語の続きを知る事は出来ない。
 これから三年間、同じ部活で同じ時間を過ごしていくのだ。まずは荒北くんに認めてもらえるよう、日々の部活動を精一杯頑張ろう。
 新しい目標を立てた時、夜空を裂くひとすじの流れ星を見つけた。今思った事を実現するために、心の中で願いを唱えた。



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