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止まない雨に朝は泣く


 澄み渡る青空、ちゅんちゅんとさえずる鳥の声、つんと冷たくて鼻に通るような、そんな朝の空気が、雰囲気が、私は大好きだった。だから小さな頃から早起きは得意で、小学校のときから早く起きてのんびり一人で登校するようなことがしばしばあった。年齢を重ねるにつれてさらに朝が好きになり、高校に入る頃にはほぼ毎日早起きして、誰もいない教室で一人でぼんやりするのが日課になった。といっても、その「ほぼ毎日」は全て快晴の日だ。雨の朝は、反対に好きではなかった。髪の毛は湿気ではねまくって決まらないし、少し外を歩いただけで水に濡れてしまって鬱陶しい。とにかくテンションがだださがりしてしまう雨の日は早起きしても二度寝を決め込んで、チャイムギリギリに教室に駆け込むのが日常だった。

 そんな高校生活も三年目。最高学年という名前だけで特に何の権限もない称号を引っさげて、私は昨日始業式を終えたばかりの校内に足を踏み入れた。
 今日も今日とて時刻は早朝、天気は快晴。春の暖かい空気と朝特有のひんやりとした空気を大きく吸い込んで、私の気分も最高潮。るんるんとした気分でまだ慣れない教室のドアをがらりと開いた。
 誰もいないだろうと思っていた。今までこんな早い時間に教室にいる人などいなかったからだ。けれど、今年初めて同じクラスになった彼はそこに一人、まるで当たり前のように座っていた。

「君は…みょうじさん、だったかな」
「東堂、くん」

 呆然と立ち尽くす私を見て、彼はにこりと笑った。一方で私は動揺を隠せなかった。東堂くんは有名人だ。全国優勝してしまうほどの実力を持った自転車競技部の副部長で、とっても自転車が速いらしい。しかも本人も自負するほどの整った顔立ちで、校内にファンクラブまであるとか。
 そんな彼を私が一方的に知っているのは当たり前なのだが、彼が私の名前を呼んだことに驚いてしまった。昨日クラス替えをしたばかりで、こちらといえばまだクラスメイトの実感すら湧いていないというのに、彼はこんな地味な私の名前までもう覚え始めているのか。

「おはよう、随分朝早いのだな」
「お、おはよう」

 前に遠くの廊下で彼の声を聞いた時は見かけによらず大きな声を出すなと思ったものだが、今発されたその声は少し高めの静かな声で。そのあまりのギャップに少しだけ声が裏返ってしまった。それにくすりとあまりにも綺麗に笑われてしまい、恥ずかしくなって慌てて気をそらそうとする。
 なにか話題を、と必死で思考を巡らせるが、私とぜんぜん違う彼と何を話せばいいのかわからない。考えた結果、東堂くん朝練は? と結局ありがちなことを尋ねた。

「これからだ。オレは朝が好きでな、朝練の前にこうして教室に来てぼーっとするのが日課になっているのだよ」

それは、今まで違うクラスだった故に知らなかった事実。まさか自分と同じ思考で、同じ行動をする人が他にもいたなんて。その嬉しさにきゅ、と心が震える。
 さあ、と開け放たれた窓からほんのり暖かい春の風が吹く。とっくに満開は過ぎて散り始めている桜の花びらが、ふわりと教室の中に舞い降りた。

「私も、良く晴れた朝の空気や雰囲気が好き。だから、今までずっと朝早く来て、一人でいたの」

一歩、ようやく教室の中に足を踏み入れる。同じだな、と嬉しそうに言った彼の言葉を噛み締めるように一歩、一歩。私は彼の座る席のほうへ歩を進める。ぴたりと止まったのは彼の目の前。座っている彼と目を合わせるように、私は東堂くんの机の前に立った。
 どうして自分の席じゃなく、ここに来てしまったのかなんてわからない。ただ嬉しくて、舞い上がっていたんだと思う。東堂くんは私と目を合わせて、それからその切れ長の目を優しく細めて笑った。

「じゃあこれからは二人だな」

きっと私は、もうこの時から恋に落ちてしまっていたのだろう。
 

 そんな出会いを果たしたのは今から何か月前だろうか。季節はすっかり冬に変わっていて、吹く風はひんやりと冷たいものになっていた。
 あれから私と東堂くんは早朝、二人きりの教室で顔を合わせるのが日常となった。どちらかが先に着いていて、どちらかが教室のドアを開ける。しばらく話したあと、東堂くんは朝練に行って、私は本玲が鳴るまで教室でぼんやり過ごす。
 しかしそれは晴れている日だけだ。東堂くんは部活があるから雨の日でも早く来ていたらしいが、相変わらず私は雨の日はぎりぎりに登校していた。

「みょうじさんは雨の日は早く来ないのか」
「私は、雨の日はあんまり好きじゃないから」

すると東堂くんはそうか、と一言だけ告げた。
 そうした時間を過ごしながらも、私達は朝の教室以外で話すことはなかった。話すのは、必要最低限のクラスメイトのやり取りだけ。何故かと問われれば特に明確な理由もないが、しいていえば私たち二人は、この秘密の関係を楽しんでいたのかもしれない。普段話している光景を見なくて、想像さえつきにくい私と彼が毎朝話しているなんて、他の人には夢にも思わないだろう。それがなんだかくすぐったくて、面白かったのだ。

「ねえ、東堂くん」
「なんだ」
「楽しいね」
「…そうだな」

 そしてきっと私たちは、お互いの気持ちに気づいていたんだと思う。私は東堂くんが好きで、東堂くんもきっと、…自意識過剰じゃなければ、私が好きで。けれど私も彼も、そこから先に進もうとはしなかった、関係が変わるのを恐れていたのかもしれない。この朝の秘密の時間、秘密の関係。付き合うことで、きっとそれがさらに幸せになることは間違いないのだろうが、それでも臆病な私たちは気持ちを告げようとはしなかった。いつしか私は、彼と話すために早起きをするようになっていた。相変わらず雨の日は行かなかったが、それは晴れた朝が好きだから、という早起きの理由をなくしてしまうからで。心の中では雨でも早く教室に行きたい気持ちでいっぱいだった。

「なあみょうじさん。明日も朝、来てくれるか」

 そんな関係を変えようとしたのは東堂くんだった。その日は一段と冷える朝だった。いつものように話をして、いつものように笑い合う。そうして彼が部活に行こうと席を立った時、あまり聞き慣れない低音でそう言われた。
いつもは雨の日以外、朝に会うのは当たり前だ。わざわざこんなことは言わない。私を見つめる彼の熱を持った視線、ほんのり潤んだ瞳。ああ、進むつもりなんだな、と一瞬にして悟った。そしてそれを寂しく思うと同時に、やはり嬉しくもあった。

「もちろん」

そうして笑うと、彼も安心したように微笑んだ。


 その日のほんのり薄暗い、噂話が飛び交う空間で私はそれを耳にした。…いや、正しくは昼休みの女子トイレという魔の空間の入口で、だ。中から聞こえてきた女子グループの話の中で聞こえた自分の名前に、私は思わずその場で耳を傾けた。生憎ここは人通りの少ない位置に面しているため、入口でこんなことをしてても見られる心配はないだろう。

「私さあ、この間むっちゃ朝早く学校来たんだけど、東堂と、えーっとなんだっけ、あの地味な子…みょうじさん? が教室で話してるの見たわ」
「えっマジ? あの二人が話してるのなんて見たことないけど」
「だよね。私も信じらんなかったんだけど、なーんか仲良さげに話してんだよ」
「何それ付き合ってるってわけ? 東堂見る目ないね」
「つーか釣り合わないっつーの! 住む世界が違うだろ」

 ガン、と何か重いもので思い切り頭を打ち付けられたような感覚が走った。それ以上は耐えきれなくて、思わずその場から走り去った。
 そうだ、私と東堂くんは住む世界が違う。東堂くんはかっこよくてクラスの中心できらきらしているのに対して、私は特別可愛くも何の取り柄もない、教室の隅っこで一人でいるような地味な人間だ。釣り合わない、釣り合うわけがない。どうして今までこんなことに気が付かなかったのだろう。いや、気づかなかったというより、気づいていないふりをしていたのかもしれない。彼と一緒にいる時間はとても楽しかった。だからこそそれに向き合おうとはしなかった。けれど、他人に突きつけられて痛感してしまった。私は、東堂くんと隣にいるべき人間ではない。
 つう、と涙が頬を伝う。流れ落ちるそれを拭いもせずに、私は廊下を走り抜ける。昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。教室に戻る気もしなくて、私は誰もいなくなった廊下の隅でぜえぜえと息を切らせながら立ち止まった。生まれて初めて授業をサボったな、とよくわからない笑みが零れた。

 次の日は雨だった。それも、バケツをひっくり返したような豪雨。私は早朝、教室には行かなかった。

「みょうじさん」

ぎりぎりに登校した私を見るなり、東堂くんは私に近づいて来て名前を呼んだ。彼に早朝以外でこうして話しかけられるのは初めてだった。見慣れない光景にクラスがざわついているのがわかった。
 東堂くんの表情は読み取れない。そこに含まれているのは怒りだろうか、困惑だろうか。そんな彼に、私はまるで何もなかったかのように言った。

「おはよう東堂くん。私に何か用かな」

そんな私を、彼はどう思っただろう。彼はいや、と一言だけ言って、自分の席へと戻っていった。

 次の日も、その次の日も雨だった。当たらないと評判の天気予報によると、大きな雨雲が日本列島全体を覆っているらしい。珍しく天気予報が当たったな、と降り続く雨を眺めながら思った。そしてようやく晴れ間が訪れたのは、あの日から一週間ほど経った頃だった。
 その日も雪が降りそうなくらいの寒い朝だった。けれど朝特有の空気は心を昂らせて、心地がいい。私は久々に早く起きて、学校に向かった。どきどきとする心臓に気づかないふりをして、がらりと教室のドアを開ける。そこにはやはり、いつものように東堂くんがいた。彼はこちらを見ようとはせず、席に座って窓の外に視線を向けたまま、ぽつりと呟いた。

「どうしてあの日、来てくれなかったんだ」

 聞かれるだろうと最初からわかっていた言葉でも、実際に言われるとちくりと胸が痛む。私は静かにドアを閉めると、まるで初めて教室で会った時のように一歩一歩、ゆっくりと彼の席へと歩き出す。

「だって、あの日は雨だったもん」

そうだ、これは事実。私は今までだって、雨の日に朝教室に来たことはなかった。けれど、今回の「行かなかった」事実は今までと違うことくらい理解していた。
何を告げるのか、告げられるのか、お互いわかっていた。それでもその場所に行かなかったということは、つまり。
 東堂くんはがたりと立ち上がり、つかつかと私の方へ歩み寄る。私も歩みを止めて、私たちは真正面で向き合った。

「…どうして」

そう言った彼の声は、小さく震えていた。

「どうしてだよ! わかってたろ、オレはお前に会うために朝ここに来てた、お前はオレに会うためにここに来てた! だってお前はオレを、オレは、なまえを…!」
「東堂くん」

張り裂けそうに叫ぶ彼の言葉を無理やり遮る。私を見る彼の表情は、悲しくなるくらい悲痛に満ちていて、何かに縋るように歪んでいた。

「前にも言ったでしょ。私は、よく晴れた朝が好きなだけなの」

 中身のないからっぽの言葉に無理やり詰め込んだからか。そこから溢れ出した雨が、頬を静かに伝ってぽたりと静かに床に落ちた。きっと私は、うまく笑えていなかったことだろう。




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