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君の優しさの孵化


部活終了間際、週一で行われるミーティングを残すのみとなった自転車競技部員たちは各々素早くシャワーで汗を流す。毎週月曜日に短時間貸切で利用している会議室へと足を運ぶ荒北と委員会のため居残りをしていたなまえが挨拶を交えたのは、校舎とプレハブを繋ぐ渡り廊下だった。お疲れさまと笑った彼女に返事も返さず、荒北はすんと鼻を鳴らし怪訝そうな顔をする。
「ンだよ、体調でも悪ィの?」


「悪くないよ?」
なまえはこてん、と首を傾げる。どちらかと言うのなら身体は弱いほう、更に季節の変わり目。悪条件を重ねてはいるがここ数週間体調は好調の一言で、何故そんなことを言われたのか皆目見当もつかない。
ああソォ、と言う荒北は何処か腑に落ちないといった顔をしているが、本人も気付かない変化を感じ取るーーだなんてそんな御伽噺の王子様のような能がこの男に備わっているはずがないとなまえは思った。

「あ、雨」

突然落ちてきた水滴たちが風に揺られ、スカートに色濃い染みを作っていく。なまえの腕を掴み屋根の下まで引き寄せた荒北が王子様だと、彼女が知ることになるのはその数時間後だった。



( あつい、)
ぐわんぐわんと揺れる頭を右手で支えながら、委員会中に残していたメモをファイリングできる段階まで纏めあげていく。副委員長というのは存外仕事が多く、今この瞬間なまえが視聴覚室にひとり居残ってしかめっ面を貼り付けているのもこの役職のせいであった。
早く終わらせて帰りたいという気持ちはあれど、どうにもこうにも頭が働かない。つい先刻まで参加していたというのに記憶のノートは真っさらで、内容はおろか議題すら曖昧な状態であった。眉根を寄せても頬を抓ってもただただ真面目な委員長がぱくぱくと口を動かすだけのミュート映像が頭に流れる。

はあ、と吐いた息が熱かった。

ああなるほど、熱がある。自覚してしまえば悪化するのも早い。揺れる視界に耐え切れず、視聴覚室の古びたカーペットへ四肢を放り投げるように倒れ込む。整然として天井に刻まれているはずの格子状の溝は、うねうねと歪み白みがかっている。
「あつい、くるしい」、日頃の不摂生から湯船につからずシャワーだけで済ませた昨日の愚行まで恨めしく思えて、ただ浅く早い呼気を繰り返していた。


どれ程経っただろうか、ガチャリという音を携えドアが開く。
膝を立てた足の隙間を通してふたりの視線が交わった途端、荒北は文字通り怒号を発した。

「なんって格好してんだヨ!」

バタンバタンとひどい足音が室内と頭に響いて、なまえは顔を顰める。温もりを感じる足元にはジャージがかけられていた。ああ丸見えだったか、優しいのは知っていたが、なんとも紳士的なところがあるものだと彼女の口から感嘆の声が出る。ありがとう、という声は荒北が吐き出した大きな溜息にかき消されてしまった。

「ほらな、やっぱ体調悪ィ」
「委員会の途中から、」

苦しくて、という声は伸びてきた荒北の手により遮られた。なまえの額へと伸びた手のひらが熱を測る。大きくて硬い其れに男を感じた。「ヤベェな歩けるか」「とりあえずこれ飲んでェ」「送ってくから待っとけ」、次から次へと吐き出される言葉に返事をする余裕もない彼女は今しがた目の前で開けられたスポーツドリンクを受け取り、こくこくと頷いていく。
入ってきたときと同じようにバタバタと去っていく荒北の背中を眺め目を閉じたなまえの眠りは短いものだったが、体力回復に少しは役立ったようだった。


「王子様だったんだねえ」
「ハァ?」

帰り支度を整えた荒北の目を丸くさせたなまえの言葉は、ほぼ無意識のうちに落とされたものだった。「荒北くんってわたしのことよく見てるんだね」。荒北の大きな口から零れた素っ頓狂な声に誘われるように目を向けるも「バッ、」の後に続く言葉が紡がれることはなく、まるで古いパソコンのようにフリーズしているものだから、なまえは思わず笑いを零した。
一定間隔で繰り返されていた浅い呼吸が乱れる。

「ありがとう、気付いてくれて」
「見てねェ!見てねェからな!」



荒北が吐いたその嘘に、なまえは気付いていた。
しかし今日が終わるその頃、彼女は覚えているのだろうか。なまえが感じたぬくもりを。荒北が紡いだ優しさを。ふたりの淡い春を。

赤い顔を2つ並べて歩いていく。大きな傘は極端に傾けられていて、なまえのスカートが濡れることはもう、なかった。



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